穏健な不寛容に対しての寛容

 この春、渋谷区で、同性カップルを結婚に相当する関係と認め、「パートナー」として証明書を発行する条例が施行されました。

 渋谷区の自治に口を挟むつもりはありませんし、それで満足する人がいるなら、行政サービスの一環としては、迷い込んだアザラシや、漫画のキャラクターに住民票を発行するより、まともな税金の使い道だとも思います。

 基本的には、他人に迷惑をかけない範囲でなら、それぞれ好きなように生きれば良いと考えますし、姪や甥、あるいは友人らが相談に来たのなら、こちらの考えを伝え、おかしいと思うことは伝えますが、基本的には自己責任と手放しますし、ましてや赤の他人の趣味嗜好に口を挟む悪趣味も持ちません。

 そもそも自分の人生で精一杯なのに、他人の人生まで背負えないからです。口を出せば、出した分の責任が発生します。また、自分の人生を大切に思えば、他人もまた、同じように自分の人生を大切にしていると想像し、ならば他人が命令を下すなどおこがましい限りです。

 メルマガやブログなどで意見表明をする自由が与えられている我が国です。他人の言動に異論があるなら、判断は読者に委ねるとして、自分なりの意見や見識を述べれば良いのであり、その意見が大衆の支持を集めれば、世論を動かすかも知れませんし、反対なら批判を浴びるだけのことで、いずれにせよ多様な意見が陳列されることは、健全な民主主義を裏打ちします。

 簡単に言えば、気に入らない意見には、気に入らないと意見表明すれば良いだけのことで、言論そのものの封殺は、実現可能性はともかく、不健全と考えます。

 また、ブログのコメント機能による意見表明は、時に有効ですが、匿名の影に隠れてのそれは、表現や言論と呼ぶには無理があります。

 スポーツ競技に置き換えれば観客席からのヤジに過ぎないからです。もちろん、声援ならアスリートの力になりますが、心ないヤジをまともに取り上げる作業を徒労と呼び、「炎上」が筆者に対して迷惑以上の打撃を与えられない理由です。

 余談ながら、執拗なコメント機能からの批判は、正常な業務を妨害する可能性があり、ドローン少年と同じ、威力業務妨害に抵触する可能性があります。

 どうしても納得がいかない言説には、自ら名乗り、ブログなどで意見表明すれば良いだけのことで、あるいは事実誤認や名誉を毀損されたと考えるなら、確たる証拠をもって反論し、社民党機関誌「社会新報」の編集次長の田中稔氏のように、いきなり法廷闘争を持ち出して恫喝するのはスマートなやり方と私は考えません。

 田中稔氏から、いまだに「内容証明」が届いておりません。

 つまりは、自分の説や価値観と違う主張があるのは、むしろ日本国において、自由な言論が許さている証拠であり、健全な姿だということです。

 例えば、先週末に行われていた「AKB48」の総選挙について、全く興味が無い、という意見もあれば、その結果を熱く語る人がいて、CDが300万枚売れるも、その多くが選挙の投票権や、握手会の参加券、生写真が目当てで、つまりはCDというゴミの山を量産していると指摘したのは「週刊新潮(2015年6月11日号)」。

 かつての「ビックリマンチョコ」と同じ問題があるにも関わらず、天下の公器と自負する新聞がこれに一切触れないことを批判します。

 アイドルのイベントひとつとっても、多様な見解がある。指摘するのも恥ずかしいほど当たり前のことですが、何でもないようなことが幸せだったと、私生活で色んなことが起こっている高橋ジョージの歌詞にあるように、多様な見解が普通に存在していることはとても大切なことです。

 ちなみに、AKB48のゴミ問題については、テレビと新聞は

「報道しない自由」

 を行使しています。

 残念ながらネットユーザーは、週刊誌、特に新潮や文春のような「オヤジ雑誌」を購入しないので、指摘しているマスコミがあることを知らないまま、ひとくくりに「マスコミ」として非難します。そしてマスコミ不信が加速する、とは余談。

 性的マイノリティー「LGBT」を巡る主張で、目に余るなと感じるのが、不寛容への不寛容です。端的に言えばゲイ、ホモ、レズを認めない、という価値観への攻撃です。

 あるいはそれを「遅れている」「不勉強」と罵ります。知った上で理解できないとしても、それを認めようとしません。理解が足りないから、受け入れないのだと指弾する言葉に、嘲笑と侮蔑、恫喝が込められていることもしばしば。

 認めないと裁判官が述べたのなら、問題もあるでしょうが、ひとりの人物の見解ならば、それがその人の価値観であり、そこに実害がなければそっとしておけば良いものを、価値観の変更を迫る人らがいるのです。

 男性のみを愛する男性が、女性を愛する気持がいまいち理解できないように、女性のみを愛する男性にとって、男性と性的交渉を持つ意味が分かりません。

 反対の立場に立てば、どちらも同じことで、「へぇそうなんだ」と流せば済むことを、相手に自分の考えを押しつける人が少なからずいるのです。

 価値観の違いは容易に埋められる物ではありません。究極的には相容れないケースが多く、完全同意など不可能なことも多いでしょう。その克服とは、価値観が違うということを認めることであり、それは互いの価値観への不可侵条約のようなものです。

 武者小路実篤の

『君は君、我は我なり。されど仲よき』

 です。ところが君を我にしようとするのです。

 これは「ジェンダーフリー論者」にも通じます。

 端的に言えば「男らしさ」「女らしさ」という価値観が存在すること、そのものの否定です。

 制度として存在する男女格差は、不利益の解消に力点を置き、可能な限り改めるべきだと考えます。可能な限りとするのは、完全に同じ条件を満たすことが困難な状況もあるからです。

 下世話な話しに落とし込めば、公共の場や、数百人単位で同じ時間と空間を過ごす、学校や職場において、トイレは男女別にして欲しいなぁと願うことも、男女差があるという前提からの発想です。

 仮に男女差がなく、上品下品を脇におけば、女性も立ち小便器で用を足せばよく、私は見たことがありませんが、昔の田舎では、野良作業の合間に、そうしていた女性もいたという話しは何度も耳にしていますし、あまり使われなかったとのことですが、建て替え中の国立競技場にあった、アスリート用の女性トイレの一部には、いわゆる「あさがお」がありました。

 「らしさとは何か」という禅問答をするつもりはありませんが、らしさそのものにも多様な解釈があり、目くじら立てて「らしさ」なる価値観の殲滅を望む姿勢におぞましさを見つけます。

 それは異論を認めない全体主義であり、優生思想と親和性が高く、差別主義へと変化しやすい性質を孕みます。つまり、自分の価値観こそ、至上であり至高であるのだから、それに従わなければならないし、従わないものは「程度の低い存在」と見下します。それは植民地を当然とした時代の白人社会の発想と同じです。

 そもそも「女性らしさ」とは、日本国内においては多様性をもっているもので一枚岩ではありません。むしろ「ジェンダーフリー」を声高に叫び、「男らしさ」「女らしさ」を否定する人らの掲げる「らしさ」とは狭小で偏見に満ちたものです。一神教の発想といっても過言ではないでしょう。

 典型的な例として「女性は虐げられている」というものがありますが、土佐の「はちきん」や、上州の「かかあ天下」のように、強い女性像を抱える地域は俎上にのぼりません。

 むしろ、ジェンダーフリーを叫ぶ人は、単一の価値観を押しつけている、とは過言でしょうか。だからでしょうかLGBTやジェンダーフリーの発想そのものに異論はなくても、その活動の端々に嫌悪感を覚えることが少なくありません。

 さらに、現実離れをしている主張も目立ちます。

 渋谷区における同性婚を証明する条例の制定理由で、以下の2点が声高に叫ばれていました。

1:入院時の親族以外の面会制限
2:賃貸物件の契約

 「1」は親族以外の面会が制限されると、同性婚のパートナーは面会できないという主張です。しかし、私の経験ながら、文京区、墨田区、荒川区、そして足立区の病院では、「赤の他人」であっても面会できました。

 ある居酒屋のママが脳卒中で集中治療室にはいっているとき、その常連客が酒を飲んだまま、入り込んでいたこともあります。

 命の危機がある場合など、患者の負担と治療の妨げになるという理由から、人数や時間が制限されることもありますが、ただの友人でも面会できましたし、看護師では手が回らない身の回りの世話をしてくれる存在をありがたがいという病院もありました。

 例えば鼻が曲がるほど香水をつけた、スパンコールで彩られたステージ衣装のドラッグクイーンが見舞いにくれば、断る病院もあるかもしれませんが、普通の格好で事情を話して、面会を断る病院がどれだけあるというのでしょうか。

 むしろ、同性婚やそれに類する関係だからと、面会拒絶をするような病院があるなら、そちらの方が問題で、それは渋谷区が条例で証明書を発行するよりも、厚労省の通達により改善すべき事案です。しかし、そうした不満の声が、全国レベルで巻き起こっていないことが、現実を表している気がしてなりません。

 あるいはそれこそ「活動家」の出番です。公共性を持つ病院の不寛容さは社会問題で、病院前で抗議活動をするなり、告発を行うなりすべきです。

 次に「2」の賃貸物件の契約についてですが、すでに「ルームシェア」が珍しくなくなった昨今、ルームシェアと申告すれば、深く詮索しない大家も増えているといいます。

 高度経済成長のころの、物件不足の時代ならいざ知らず、都心では物件が余っている時代に、同性の同棲を認めない大家がいたとして、それによる実害はどれほどあるというのでしょうか。

 というか、とても不思議に思うのが、そんな大家の物件に住みたいのかということです。賃貸契約の果てには、大家に家賃を支払うと言うことで、それはゲイを認めない大家を儲けさせる行為です。

 ゲイを毛嫌いする大家を、ゲイが儲けさせるということ。むしろ、LGBTを認めない大家の物件はボイコットするほうがスッキリするのではないでしょうか。

 政府らもこの数年、なんとかのひとつ覚えで「ダイバーシティ」と叫び、それは多様な価値観が存在する社会を意味し、しかし、不寛容の同居が許されないのなら、自動的に矛盾が発生します。

 寛容を叫びながら、自分の認める寛容以外を排除するということで、その姿は不寛容そのものです。屁理屈のようですが、真の意味での多様性のある社会とは、進歩的知識人も、保守派の論客も、ゲイもレズも頑固親父も共存できる社会ですし、ゲイを受け入れる自由と、拒否する自由を互いに行使できることではないでしょうか。

 そして日本では「衆道」を挙げるまでもなく、同性愛にさほど抵抗感はなく、ただそれを「公然」とするときに、建前論が強く押し出されるだけで、同性愛に限ったことではなく、異性間の「夜の営み」でも、それを開けっぴろげに語る人を「はしたない」とたしなめるのと同じです。

 仮に不寛容が、その考えをもって寛容派を攻撃しようというのであれば、戦えばよいのであって、酒場で愚痴をこぼす程度の穏健な不寛容に対して寛容になるべきだということです。

 そしてこの議論の構図、というか自分の考え以外を排除する姿は、脱原発はもちろん、安保法制にも繋がりますし、過激な「ネトウヨ」と「ヘイトスピーチ」をことさら取り上げる連中にも通じますが、今回は同性婚についての話し。

 評論家の宮崎哲弥氏の記事を紹介します。

 アメリカの同性婚を巡る議論について、「民事婚には当事者ふたりと、国家の三者が関わる公的な意味を持つ(要約)」というマイケル・サンデルの講義を引き、憲法の「両性の合意のみ」を並べた上で、こう喝破します。

“当事者の「合意のみ」で婚姻が成立するならば、親子、兄弟姉妹、叔姪(しゅくてつ)、叔母甥の近親婚、一夫多妻制や一妻多夫などの複婚も認められるだろう(週刊文春 5月21日号 宮崎哲弥の時々砲弾)”

 近親婚においては、遺伝子的な問題もありますが、子作りをしないという価値観の「パートナー」であったり、父娘はともかく、閉経後の母と息子ならば、その心配はありません。

 また、いずれ人工的に子作りが可能になれば、親子の間であっても、遺伝氏的に問題の無い子供を生産できるようになるかも知れません。

 さて、そのとき、親子間の結婚を求める声に、不寛容なLGBT原理主義者やジェンダーフリーはなんと応えるのでしょうか。

 ちなみ現行法では、親子の結婚はもちろん、養子縁組した場合、縁組みを解消した後も結婚できないことになっています。血縁上の繋がりはないので、遺伝学的には問題は無いながら、社会制度はモラルを下敷きにして整えられるからです。

 このことは、我々世代は割合知っており、それは石立鉄男と大場久美子が世間的には親子を装いながら、実は夫婦というコメディドラマ『秘密のデカちゃん』の影響によると考えられます。

 個人の自由とは法律により規制されますが、その前に社会的規範により制限されます。これらをすべて飛ばした個人の自由が認められることはありません。

 一方で、個人の権利のみを最大限尊重するという前提における同性婚の主張なら、それを拒否する人が現れる、つまりは同性愛者へのサービス提供を拒否することは「個人の権利」とする主張で、いま、アメリカを分かつ論争になっております。

 私には同性婚で「結婚」という制度に拘ることがよく理解できません。特に日本における伝統的な結婚の概念は「家と家」の結びつきで、本人同士だけの話しではないからです。

 徐々に見直しが進んでおり、扶養家族手当や配偶者控除などの、実利面からの権利主張ならば、その気持ちは理解でき、改善の必要性を訴える声に耳をかたむけることはやぶさかではありません。しかし、日本文化の延長にある「結婚」制度に固執する理由がわからないのです。

 異性愛者(ストレート)だからだという反論があるかも知れませんが、ゲイライターを自称する英司さんが、「DMMニュース」に寄稿した

“【ゲイ的保守論】盛り上がっているところ冷水浴びせてゴメンナサイ!スペシャル”
http://dmm-news.com/article/975444/
※全3回の記事で、リンクは3回目を貼っているのは、このページには「その1」「その2」へのリンクがあるからです。

 で、同様の疑問をゲイの立場から投げかけています。

 英司さんは、渋谷区の同性婚のパートナー証明書発行について「渋谷フィーバー」と名付け距離を置き、冷静な議論を呼びかけています。

 ところがLGBTの推進者から、英司さんのような指摘が聞こえてきません。

 そこから「多様性」への思いを強くします。また、こうした視点を持つゲイの存在に、我が国の多様性を見つけ、少しだけホッとしています。

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