セクハラ野次と集団的自衛権に見つけた日本解体論

 近所のスーパーマーケットで、1パック2500円相当のステーキ用牛肉を指でつつく小学2年生ぐらいの男児を発見。隣にいた母親が手を持ち、一度は注意するも、次の瞬間、それまで以上の強さで、まるで霞健志朗が秘孔を突くように肉を突き、母親は一瞬諦めたようなそぶりを見せた刹那、そのガキの手を払い

「ヤメロよ。商品だぜ」

 とは私。

 クソ餓鬼はぷいっと横を向いてシカトを決め込みますが、追撃します。

「悪いコトしたらゴメンナサイだろ」

 ほぼ聞き取れませんでしたが、頭の揺れと微かにもれた音声から、謝罪らしきものはしていたので、それで手打ちとします。

 そのときこの坊やのババァ(あ、私より年下ですが)は無視。会釈もしなければ愛想笑いも謝罪もせずに、その場を離れていきます。

「親が親だから子が子なんだよ」

 としか言いようがありません。

 数日後、別のスーパーマーケットにて、こんどは一袋30円の「もやし」を叩く小学生と幼稚園児とおぼしき兄弟。まるでリズムゲーム「太鼓の達人」を楽しんでいるかのようです。

 1叩き、2叩きを叱るほど狭量ではありませんが、「連打」に至っては見逃せません。

「ヤメロ。痛むから」

 大人に注意された子らはビクッとしてぴたっとやめ、隣にいた母親は軽く謝罪して子らをたしなめます。しかし、後に気がつくのですが、母親の隣には父親はもちろん、祖父母までいた、つまりは

「保護者4人衆」

 がいて、子供の暴挙を見逃していたということです。

 たかがもやし。という方は、そういう商品を積極的に買い上げてくださいな。指でつつかれラップが伸びたステーキ肉。勢い余って穴が空いていることも甘受してください。もやしは存外足が速く、殴打すれば繊維は割れ、食感を損ないます。

 いわば「商品」にならないのです。もやしならば「たかが30円」かもしれませんが、では誰が何もせずに30円くれるでしょうか。ステーキ肉は2500円です。これを「たかが」と、わたしは言えません。むしろこうして欲しいほどです。

“子供がイタズラした商品はすべて買取”

 妻の実家が八百屋で、一番問題になるのが「桃」です。つついた箇所は変色して売り物にならなくなるからです。当然のように注意すると、逆ギレする母親は実に多く、年々増加しています。

 一方で足立区と商店街が熱心に勧めているのが

「子育てパス」

 という子育て世代の支援制度で、そのパス(カード)をみせると、店独自のサービスをしなければならず、負担はもちろん、もちだしです。

 集客に繋がるだろう・・と開き直りません。街角の八百屋で子育て世帯が買う野菜などたかが知れているのです。ましてや、昨今の若い世帯では「野菜離れ」が進んでいるのは、そもそも親が野菜嫌いで、レタスは食べてもニンジンやピーマンは食べないからです。

「親が親だから子が子なんだよ」

 とは食の世界でも同じです。

 また利幅の大きい高級果物や、年末に箱売りのリンゴやみかんが買われることもめっきり減っており、子育て世帯を支援しても、商売上の旨味などありません。

 ならばやらなきゃいい・・とはいかないのが商売の世界で、隣近所のお付き合いの前に桃が変色していきます。

 そしてこれは妻の実家の総意です。

「子供がやるのは仕方がない。それを注意しない親が悪い(腹が立つ)」

 さて、セクハラヤジ騒動により滋賀県知事選挙で、自民党が推した候補者が敗北したとメディアは大騒ぎ。当選した三日月氏は、現職の嘉田知事の後継として「卒原発」を掲げていますが、彼はもともと原子力の輸出に賛成し、条件が整えば再稼働容認派だったはずですが、それは滋賀県民の決断なので、都民の私が口を出すことは僭越です。

 そしてもともと、滋賀県は自民党が弱い土地柄ということを加味すれば、週刊現代が「軍事政権」とか「独裁政権」と、事実無根の虚報を飛ばし続けるなか、民意は健全だったということです。

 つまり、すべての地域で自民党が勝利する、という異常事態にはまだなっていないということです。懸念があるとすれば、自民党が負けるタイミングが良すぎたということ。

 夏から秋に予定されている「内閣改造」によるイメージの刷新、北朝鮮による拉致問題の進展、中国の暴走と韓国の妄想はさらに続き、当初の予定なら秋にはプーチンとのタイマンもまっており、自民党・安倍晋三首相にとってのカードはまだまだ残されているなか、この敗北を奇貨として、組織の引き締め、ついでに言えば公明党を拘束する理由付けができたということを、政治評論家という電波芸人の誰も指摘しないことが不思議で、そして怖いと感じております。

 ともあれ、選挙戦に響いたとする「セクハラヤジ」。塩村文夏都議はしつこく犯人捜しを継続するというので、私もしつこく取り上げますが、ヤジそのものではなく

「自分が産んでから」

 というもの。ところで、当初「セクハラ」と大騒ぎした発言の大半はいまだ特定されていないどころか、「頑張れよ」にしても、答えに窮した塩村文夏を助けるニュアンスで、いわば応援する野次だったわけですが、これらを対する訂正報道がありませんね。

 産んでから。もともとこの発言を流れも事実も把握せずに、噛みついていた連中の主張はこれ。

“女は結婚して子供を産むものだ。その発想がイケない(古い)”

 しかし、これの何が悪いのでしょうか。

 国家として捉えたとき、日本の課題はアベノミクスによる経済対策、集団的自衛権も含めた安全保障、そして「少子化対策」です。

“女は結婚して”

 が悪いというのなら、夫婦別姓や同性婚に至る、家族制度の解体(あるいは変更)です。最終的には「日本解体」に至ることでしょうが、それを決めるのは民意ですが、現時点では「結婚」は悪いものという主張は少数派でしょう。

 それは「子供を産むものだ」と接続しても同じです。

 本来的な意味での「シングルマザー」とは、結婚を選択せずに子をもうける女性を意味したように、結婚制度に反対する生き様を否定するものではありません。

 しかし、日本の家族制度は「家と家の結びつき」を背景としており、「日本らしさ」からすれば、異質であることは間違いありません。

 シングルマザーを否定はしませんが、絶賛するべきではないと私は考えますが、これもまた民意の話しです。国民の大多数が、結婚と出産は切り離すべきだとなれば、それに従います。

 鈴木さんと田中さんが結婚して、産まれた子供が佐藤さんのDNAであっても良いと言うことです。

 さらに「子供を産む」が問題なら、「産まない」ことが正しいというのでしょうか。または「産む、産まない」は個人の自由・・・とは現在もそうですが、そして少子化の一因であることは疑いようのない事実です。

 悪しき習慣という批判があるかも知れませんが、かつて嫁の重大な仕事は子を産むことでアリ、そのプレッシャー足るや尋常ではなく、しかし、それが故に子作りは「義務」になっていたことは少子化対策において、不可欠ながら誰も主張しない真実です。

 すると先の発言を否定する人の主張はこうなります。

“女は結婚せず、子供を産まない”

 これでは人類は滅んでしまいます。もっとも地球市民的な環境保護活動家は、根っこのところで自分以外の人類を憎んでいるところがあるので、当たらずも遠からずです。

 余談ついでに言えば、地球環境や脱原発を声高に叫ぶミュージシャンは、糟糠の妻をポイ捨てし、見目麗しい芸能人と再婚し、あるいは学生結婚した相手を捨てて芸能人と結ばれながらも、愛人を囲い続け隠し子までいる輩ばかりです。

 話を戻せば

“婚姻の有無に限らず、子供を産む産まないも個人の権利である”

 となります。

 ならば塩村文夏が求めた、晩婚化対策や晩産化への取り組みとは

「年寄りになってから結婚したい人、産みたい人の権利拡大」

 ということです。すると一連の野次は、セクハラというより、政治家により功名心を満たした上に、政策を冠した税金により女の幸せも満たしたいという「貪欲」への批判となります。もっとも、都議会の野次にそこまで深い意図はないようですが。

 少子化に的を絞れば、「生みやすい社会を作る」「育てやすい環境の整備」などが挙げられますが、科学的(生物学的)に考えれば、産みやすい条件の個体を優遇するほうが合理的です。

 現在検討されている不妊治療への助成を、一定年齢で打ち切るというのはこれを指します。

 端的に言えば「若い方が妊娠しやすい」ということ。

 もちろん「個体差」は除いての話しですが、歌手の倖田來未が高齢出産に「羊水が腐る」と述べ、これに

「羊水は腐らないけど、的外れでもないなと」

 とTwitterで発言したのは、都議になる前の塩村文夏氏で、ならば野次の導火線となった「晩婚化対策」とやらが薄っぺらいというか、都市部に多い独身女性票を狙った人気取りに思えるのは余談ですが、しかし、一面の真実ではあります。

 これは犬の話しですが、生殖可能となり、母胎の安全が確認できた時点で、すみやかに子作りする方がよいといいます。晩婚化は妊娠においても出産においてもリスクが高いようです。

 そして残念ながら人間も動物です。医学の進歩により、高齢妊娠出産も可能となりましたが、費用対効果の面からみれば、若年妊娠(というより、「適齢期」。これも死語同然になっているのは、個人の生き方の過剰礼賛です)に軍配が上がります。

 科学や医学を持ち出したので、可能性の輪を広げて見れば、受精卵を男性の大腸に移植することで胎盤に成長するという研究がなされていると何かの本で読みました。

 つまり「男性妊娠」の可能性です。あるいは豚の子宮を借りるという研究もあります。

 産まれてしまえば、「男の子」であろうが「豚の子」であろうが、人間は人間・・・と、受け入れるだけの度量が、日本人にあるかに疑問が残ります。

 基督教やイスラム教をはじめとする、一神教の国ではアウトでしょう。人工中絶でさえ、骨肉の争いをする文化で、「豚の子」を認めれば、神の存在の否定に繋がりかねないからです。

 死刑囚を前倒しに「処理」して、臓器移植しているという噂の絶えない中国は問題ないでしょうが。

 しかし、国民がいなければ国家は成立せず、子供が産まれなければ、いずれ日本国はなくなります。そこで「移民の受け入れ」という話しが、ちゃくちゃくと安倍政権ですすめられており、冷静な保守政治家のなかには静かに、彼への懸念が広がっていますが、この問題は別の機会に掘り下げるとして、世界中で問題となっているのが

「移民は国民か」

 です。国籍などのテクニカルな問題ではなく、母国語を話せず、母国の歴史や文化に思い入れのないものを、国民として接し、同じ福祉を与えることへの疑問です。

 端的に言えば、転がり込んできたものの、労働意欲が低く、勤勉性に乏しい「元外国人」への反発で、移民を受け入れたすべての国が抱える問題となっているのです。移民が怠惰とはいいません。しかし、文化的な違いは厳然とあり、世界で異質な勤勉さを誇る日本人なら、その軋轢は想像を絶すると断言できます。

 そしてこれが「少子化対策」の根幹です。

 つまり、

「産まれてくる子供は誰の子供」

 ということ。

 大沢樹生と喜多嶋舞ではありません。

 民主党政権時代に「子供は社会で育てる」というスローガンがありました。彼らの発言に、今は亡きソヴィエトの影を見ましたが、しかし、日本社会は、本来はこうでした。

「村で育てる」

 とすればしっくりくることでしょう。

 幕府や藩の福祉政策を待つことなく、村の名主が、近所の親戚が、というより周辺部落も含めて血縁ばかりの「村社会」では、純粋な意味での「他人」を探すことの方が難しく、そしてみなが支え合っていたのです。

 こうして育てられた子供が、いずれ育てる側、子供を守る側に廻ります。それは躾により植え付けられる公共心という道徳で、簡単な言葉に置き換えればこのふたつ。

「人に迷惑を掛けない」「人を助ける」

 するとこの質問への答えが導き出されます。

「子供は親(一族)の私有物か、社会の公共財か」

 つまりは「(日本人的な)公共心」が躾けられていれば、どちらも同じだということです。

 子供は長じて一族の名を継ぎますが、それは社会から断絶したものではなく、社会の一員としてで、必要とあれば他の一族を助ける公共財でもあるのです。

 部落間の諍いに立ち上がるときは、部落の利益のために戦います。セクハラでない事実として、若い男子がいれば、それだけ戦力としてカウントでき、そのとき彼は「公共財」になるからです。

 一方で、若き戦士が戦いから戻り、ネンゴロの娘と契りを交わし、産まれた子供の笑顔は、千両箱でも太刀打ちできない家族の宝であることは疑いようがありません。

 これらを踏まえて「集団的自衛権」を考えてみます。

 集団的自衛権への拒否反応の代表例が「徴兵制」です。

 徴兵制とは先の若者です。強制と制度の違いはありますが、「公共心」という視点に立てば同じです。

 徴兵制を是とするものではありません。しかし、徴兵制が敷かれるほどの国難を前に、我が子だけは戦争に行かせたくないという親心は分かりますが、「公共心」はどこへ行くのでしょうか。

 小林信彦氏などは、口汚く安倍首相を罵り、

「孫を戦争に行かせたくない」

 と週刊文春で語りますが、先の若者は死んでも構わないが、我が孫だけは戦争に行かせないというのでしょうか。

 集団的自衛権を認めないということは、日本のために米国の若者が死ぬのは構わないが、小林信彦の孫は死んではならないということです。

 いまの世論(せろん)で語られるのは「親心」ばかりで、「公共心」は見る影もありません。

 すると結論を書き換えなければなりません。

「産まれてくる子供は親の私有物」

 つまり私有物の育成ですから自費で賄うのは当然で、その生産費用も同じくです。困ったときに、助けてくれない他人の子供のために、税金が使われることを不公平と思う感情もまた真実です。

 もちろん、日本的な道徳における公共心とは、見返りを求めるものではありません。

 だから、子供のいない私の税金が子育てに使われることに何ら異論はありませんし、混雑している車内にベビーカーを押し込み、権利を主張する若い夫婦を見つけてもそれだけなら注意はしません。むしろ、非国民のこちらは肩身を狭くしています(嘘)。

 そしてつぶやきます。

「親が親だから子が子なんだよ」

 徴兵制に反対する主張の公共心のなさと、ベビーカーはもとより、スーパーマーケットで肉をつつく子供、それを注意しない親の姿に重なります。

 私益と私権がなにより優先されるのなら、もうすでに日本国は滅亡したといってよいでしょう。

 しかし、だからこそ私は思うのです。

「他人の子供を叱れる文化」

 こそ、「日本国」のための少子化対策の鍵になるのではないかと。

 日本解体が進むなか、わずかにでも抵抗を試みるレジスタンスを気取りつつ、子供の悪行を見逃さないために、日夜パトロールに励んでいます。

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