女子ジャンプの高梨沙羅選手が、ソチ五輪にて4位入賞しました。おめでとうございます。4年に1回の大会で、世界4位は立派な成績です。
自然相手の競技は運不運がつきもので、惜しむらくは「沙羅ちゃん」の満面の笑顔が見たかったことです。親戚のオジサン気分で。
金メダルは間違いない、最悪でも色違いのメダルは手にするだろうといわれていただけに、「残念」という気持ちもありますが、一番「残念」なのは本人でしょうし、いずれにしろ私の手元にはいるものでもないものを悔しがる趣味はありません。
この結果に対して、ネット上ではこういう意見を散見します。
“プレッシャーを与えすぎた”
ということ、いわば「プレッシャー悪玉論」です。定冠詞のように「メディア」と「国民」を責める思えも「国民」だろというツッコミはさておき、プレッシャーのかけ過ぎで逃したメダルもあるという主張もありますがこれは論外です。
プレッシャーを与えなければ、メダルが取れたという主張であり、それはプレッシャーを与える動機でもある「メダル至上主義」と同じだからです。
メダル至上主義を否定はしませんが、プレッシャーを否定する悪玉論は言葉を換えているだけで、まったく同じことを言っている「善人面」にカチンときます。
そしてプレッシャーと期待は同じものできています。それとも誰も期待せずに送り出すことを良しとするのでしょうか。
また、五輪代表には少なからず国費が投じられています。国家代表です。メダルを取った男子スノーボードハーフパイプといえば、思い出す「国母くん」の態度が咎められた理由も同じです。
彼らが自費やスポンサーの援助を借りて出場するXゲームとは違うのです。流れ弾をあてるようですが、男子スノーボードでメダルをとった少年二人は、プレッシャーを感じていなかったとコメントしており、それが本当なら、彼らに国民の期待は届かなかった・・・というより、競技の性格とビジネス的な視点からも「Xゲーム」のほうを重視しているのかもしれません。
インタビューでの受け答えを見る限り、スノーボードの強化のための「国費投入」に理解が拡がるかに疑問が残ります。施設の強化やスポンサーの確保、競技人口の拡充には、行政の支援が欠かせないからです。
まだ、若い。いや、年齢だけで言うのなら、女子ジャンプの代表と同じです。一方の高梨沙羅選手はもちろん、オンタイムで見ていながら、伊藤有希選手か、山田優梨菜選手か失念しましたが、飛び終わった後、カメラを見つけて
「いつも応援ありがとうございます」
と語る姿に、親戚のオジサン気分で「よく、頑張った」と手を叩いたものです。これはフィギュアスケートや水泳選手などにも通じます。
国家を代表するということは、期待を背負うことであり、応分の援助も受け(少ないという議論は別として)るのですから、プレッシャーを悪玉にする主張に、国家代表への敬意に欠ける日教組的な「個人権利の拡大主義」を見つけるのです。
仮に「プレッシャー悪玉論」の解決策とは、
「どうぞどうぞ、楽しんできてね。期待はしているけど結果は問わないから。国費の投入? 気にしない、気にしない」
ということ。果たしてこれで日本人が納得するかどうか。
ベストを尽くしたのならそれで良い。という考えもあり、これも否定しません。しかし、ベストとプレッシャーは別のもの。というよりプレッシャー悪玉論は、アスリートを小馬鹿にしています。
トップアスリートはプレッシャーを糧にする能力を備えているものだから。つうか、高梨沙羅選手に関しては風の影響でしょ。これは運不運。残念という言葉しか浮かびませんが、繰り返しになりますが、一番本人がそう思っていることでしょう。
ま、スノーボードに関しては
「民にできることは民に任せ」
で良いでしょうし、メダル至上主義にたつなら、Xゲームに出場しているなかからめぼしい選手をピックアップして「国籍変更」すればメダルゲットは容易いことでしょう。