古市憲寿と読売新聞

あまりにも不愉快な記事をみつけ、抗議の投書でもしようかと思ったのですが、貴重な日曜日を費やすことも虚しく、いま「白衣の涙」を見ながら、心を込めずに、しかし、今を生きる若者のために記します。古市憲寿というバカが早く、メディアから消えてくれることを願って。

以前にも触れましたが、年下というだけで批判は控えています。しかし、古市憲寿も28才(ウィキペディアより)とのことであり、もう立派な大人とわたしの常識は位置づけ指摘します。

それは「読売新聞 空想書店」。もともとこの書評欄は、脇が甘いというか、幅広い人選と、不確かな文章のタレントがたびたび登場するのですが、多様な意見を触れるという意味では価値があるのだろうと、訝しがりながらも毎週、キョウリュウジャーを見ながら雑に読んでいます。で、今月はこのバカ、古市憲寿。公然と人を侮蔑す以上、論拠を先に示しておきます。

『ネットで検索で世界を語る』

格言にある一知半解どころではなく、世界の断片をみて世界の全てとしながら、その世界のリアルすら否定しているからです。ついでにいえば、それを「おれ、格好いいだろ?」といったナルシストさが滲む臭気の見た目も嫌だが、これは余談。ついでに大学も「AO入試」とあるが、これも余談。

平成25年5月12日(日)の読売新聞、空想書店。どこかからコピペしたようなファンタジー風で「空想書店(っていうか読売新聞大丈夫か? これに改稿をもとめんとは)」を説明し、ひと言でまとめれば、本があればどこへでも、時間を越えて旅ができるという、まぁこれまたありきたりで凡庸で、凡百で、才能の底がミリレベルだと推測できるという点においては、い詐欺の良い文体ではあります。誤変換ですが、妙に似合っているのでそのまま続行。

「実際に旅することまではお勧めしない」

と本と対比したリアルの旅の否定が、全文章の3分の2を占めます。

「ローカル線の旅は退屈である。似たような景色が延々と続くし、特に地元との住民との触れあいなんてない。あっても会話は続かない」

これは古市憲寿の想像力のなさの告白。仮説を立て、推論を重ね、検証を通じて真実に辿り着こうとする「学者」としての資質の欠落の告白ですが、それでも博士課程に進める東大なんてなくなっていいのじゃないかしら。なぜなら、似たような景色が延々と続く・・・とは、どこの地下鉄でしょうか。いや地下鉄でも、駅により広告が変わり、乗り込む客層に変化が訪れるもの。まして電車は街と街をつなぎ、ローカル線ともなれば、駅をしばらくと離れもせずに街並みは閑散とし、田畑や山並み、自然を見つけ出すこと限りなく、その違いに気がつけないということは致命的なほど観察力が欠如している告白です。これを正直と認めるためには、彼が学者という看板を下ろす必要があります。

地元との住民の触れあいも同じ。こちら側から触れあうもの。それとも古市憲寿は、地元の住民が都会の住民を見つけると、揉み手しだいて愛想を振りまくと思い込んでいるなら、それは差別意識です。古市憲寿は埼玉県立越谷北高等学校の卒業とのことで、ならば、都会の住民でもないのですが、かつて越谷は大袋に生まれ育った知人は、東武伊勢崎線(現東京スカイツリーライン)を「日比谷線(接続していますが、正しくは北千住駅まで)」と言い張り、東武動物公園駅以北を「東武線」と呼び小馬鹿にしていました。首都近郊のぷち田舎で見かけるメンタリティは、自分より田舎者を見つけ出して差別することでなり立っているのかも知れません。

そして極まれりとなるのが「会話は続かない」。とは、会話がつまらない責任の半分は自分にあります。ましてや田舎という彼らの生活空間に押しかけているのは旅行者です。それはまるで

「お見合いとソープランドを混同」

しているかのようです。出会えば何か刺激と、一定の満足を与えてくれるのが旅という錯誤です。ソープランドのように、性接待も含めたサービスと、あくまで「お互い様」という前提のお見合いは別次元にあり比較対象外です。先のローカル線と重ねていえば

「iPodで音楽を聴きながらライブ会場にいた上でのライブ批判」

変わりゆく景色の違いを見つけようともせず、地元の住民の目線を捉えようともせず、会話を続ける努力もせず、そして続かなかった会話を自省し、あるいはそれもまた触れあいと楽しむこともできない、己を1マイクロシーベルトも反省しない、まるで民主党の菅直人(国賊)です。そういえば、野田ドジョウのとき、古市はなにか、政府の役職についていたとはウィキペディア情報。己の小さな価値観だけで、情報を得よう、いや、情報は与えてくれるものだという思いこみからしか生まれない文章です。無造作に歩いてもイベントが起こるRPGのやり過ぎでしょうか。もしかしたら、リセットボタンを押したらヒヨコが生き返ると信じているのかもしれません。

そしてこれもイラッとするのですが、「自己分析はできいるもんね」的な、自己弁護を先にすることで批判をかわそう・・・ならばはじめから、刺激しなければ良いのに。それがここ。

「想像力のない人間が旅に出ても得られるものは少ない。僕がまさにそうだ。」

これが墓穴です。そのくせ世界中の名所を見てはそれを腐します。日本の自然遺産も「ただの岩山」や「ただの森」だって。地球は大きな石ころだとまで風呂敷を拡げもせず、自然も遺産も古市憲寿という28才にもなりながら、幼さを武器のように底の浅さを露呈しても恥ずかしいとも思わない、浅薄な人間のサイズに矮小化します。しかも「旅を奨めない理由」の結論がいかれています。

「画像処理技術が発達した現代では、本物は往々にして偽物に負けてしまう」

ほ、ほう。で、例としてあげるのはサグラダ・ファミリアや、パルテノン神殿で、フランスのサン・ミッシェルにいたっては「ただのひなびた観光地」。他国の宗教施設をこうもくさせる「社会学者」とは大したものです。で、画像処理云々についてはこの古市憲寿の主張は「世界中の写真家がたちが競い合って撮った写真のほうが、実物よりも遙か素晴らしい」。彼は今後、一切旅に出ない方がよいでしょう。彼が移動するだけでエネルギーの無駄遣いで、エコに反します。彼と世界のために、自宅に引きこもっていてほしいと切に願います。

それとも2次元のオタでしょうか。アニメに代表される2次元は、リビドーの粋を極めた工業製品の側面をもち、アニメの分かりやすさは記号化された登場人物によって支えられます。そのアニメを否定はしません。しかし、アニメを持ってリアルを否定することなど言語道断です。まるで

「童貞のセックス自慢」

です。匂い、熱、音。リアルとは「視覚」だけではありません。そして「バカ」とまで厳命できるのは、自縄自縛というか自作自演で、掘った墓穴に見事にはまるところにあります。滔々とリアルをバカにし、旅を否定してきました。自己弁護はしっかり忘れずに。その自己弁護の中で「僕は想像力がありません」と自白しています。本欄は書評欄で、いわば本を薦める立場にあります。で、そこはしっかり「とくダネ!」でレギュラーコメンテーターを務め、小倉智昭へのお追従を忘れず、電波芸者への階段を登っている彼らしく、軌道修正を試みます。

それまで旅慣れてない、想像力がないと2点の前提条件しか示していなかったはずなのに「旅が非日常の世界に身を投じることで、それまでの日常をリセットしたり、相対化したりするために行われるものだとすれば」とこれはルール違反です。前提が変われば議論などできやしません。ただ、それでも墓穴のはいるところがバカと断じる理由です。

『空間的な移動を伴う必要はない。むしろ一冊の本を読むことのほうが、よっぽど「旅」らしくなる場合もある』

ながながと否定した「リアル」は置き去りにして、「非日常」と「リセット」、「相対化」を持ち出します。なんじゃそりゃ。だから読売新聞大丈夫か? となります。長嶋茂雄終身名誉監督の国民栄誉賞受賞で、なにかが緩んでいるのでしょうか。そして墓穴につっこみます。

本の世界の広さは、読み手の想像力の範囲内でしか構築されません。つまり、想像力がない人間の読書は、筆者の情熱も知識も矮小化され、古市憲寿がすすめる書籍とは、想像力が欠落した古市憲寿でも理解できる程度の浅いなかみしか記されていないと言うこと。というわけで古市憲寿の薦めた書籍はここに記しません。とんだ流れ弾になるかもしれないので。

これもメディアの劣化の一部です。

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“古市憲寿と読売新聞” への5件の返信

  1. こんにちは。検索で辿り着いた者ですが、古市さんは確かにおかしなとこありますね。
    だからと言って、クソ味噌の書き殴り文もどうかと思います。
    宮脇さんが古市さんに感じたのと同じです。現に不快感しか伝わりませんでした。
    もう読みにこないと思いますが、せっかくなので感想を残します。

    古市さんの言葉は、表面をなぞれば確かに味気ない。その点は同意です。
    ですが、こんな考え方もあります。
    現地に行けば、人と触れ合う温かさや臨場感を感じられるかもしれない。
    だけど、旅行者たる私たちは見たいものしか見ない。
    どの国にも光と影がある。それなのに都合のよい美しいものしか見ない。
    リアルの場で非日常を見ようとして、本質を見ようとしない。
    それなら、美しく切り取られた写真を見ていれば良いのではないか。
    見なければいけないリアルが、今、其処彼処に転がっているではないか、と。

    古市さんの体裁は立派ですが、ここに書かれた内容を見て
    装飾品がかすむほど面白い人なんだと感じました。

    1.  コメントありがとうございます。
       お陰様で古市氏の信者のレベルがわかりました。

       もう読みに来ないとのこと。嬉しく思います。
       折角なのであなたのコメントのおかしさを指摘しておきます。

      「こんな考えもあります」

       しらねえよ。とはいいません。多様な言論があってこそですから。
       ただ、ミーアさん、あなたが古市憲寿本人による自作自演でないのなら、それを妄想とよびます。そして論理的に成立していません。ひとつだけあげます。

      「旅行者たる私たちは見たいものしか見ない」

       一方で、写真を見てわかるのは、カメラマンというフィルターを通した作品に過ぎないのでは?

       あなたは読売新聞の原文を読んで、理解不能に陥り、解説を求め、本サイトに至り、大ファンの古市様への攻撃に、ムリクリに理解を深めた・・・のではなければ、古市憲寿 本人か関係者でしょうか。

       というのは文章の結びが感想文だから。

       余談ながら、バカと共産党は文脈という名で妄想を織りこむから議論ができません。

  2. はじめまして!

    私も古市憲寿なる人物に疑問を抱いていました。この人物の発言を聞いていると、ネットでみられる若い人の意見とズレています。

    今の若者は昨年海上保安庁に大勢志願したように、国に対する危機意識と責任感が強いです。

    古市なる人物の発言を聞いていると、団塊の世代の発言の様です。その辺に私は違和感を感じています。

    私は古市なる人物の本質は「優等生」ではないかと思います、優等生には二通りあって、一つは上の言う事を鵜呑みにする愚か者と、上辺は上の言う事を良く聞く「いい子」タイプとがいます。

    古市なる人物は後者の様に見えます、この手の優等生は上の者には逆らっても損なので上辺は恭順です。このタイプは上の人間に媚びる事によって出世を計ろうとします。

    私は古市なる人物は、現在の社会の上位にいる段階の世代に媚びて出世を目論んでいると思います。

    古市なる人物は、将来のことを考えて発言には「将来はわかりませんが」とか「僕はズレテルかもしれませんが」などと必ず逃げ道を用意しています。

    この手の人物は信用できません、この様な人物を持ち上げる今のマスコミは完全に異常だと思います。

    幸いにしてネットではボロクソに叩かれているようなので、安心しております。

    長文失礼致しました。

    1. 投稿は修正しておきました。
      面白いもので、彼がテレビに登場すると本ブログへのアクセスが急増します。
      「誰だこいつ?」ではなく「なんだこいつ?」という気持ちのようです。
      いま、彼を重用しているのは「フジテレビ」。なるほど視聴率が低迷するはずです。

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