大阪市の高校における体罰が問題となっています。
体罰はいけないと法に明記されいるのだからダメ・・・なはずです。だからそもそも体罰の有効無効を問うこと自体がナンセンスなのですが、それでは現実を見ない日教組になってしまいますが、そもそも教員による体罰が起こりえるのはふたつの理由にすぎません。
まず、個人的資質。暴力体質といってもよいでしょうか。特に学校の教師の大半は、学校以外の世界を知りません。また体育科を専攻した教員は、軍隊的上意下達のヒエラルキーの「体育会」を学歴の最期とし、価値観が固定化されます。
もちろん、すべてではありませんが、こうした生育歴から、いちど暴力に手を染めると後戻りができなくなります。他の方法を知らないからです。今回の案件も徐々に情報があきらかになるにつれ、その傾向がみられます。
そして、じつはこちらこそが体罰が絶えない本質なのですが、
「学校に躾(しつけ)を求めている」
という暗黙の了解が、学校と家庭にあるからです。
学校が学習の場だけであるなら、体罰など最初から入り込む余地はありません。私学などはこの傾向が見られますが、「しつけ」が必要な児童生徒は、お引き取り願うだけだからです。
体罰が必要なほど「しつけ」が調教されていない子供は、他の子供の学習機会を奪います。他人を妨害して良いなどいった権利が与えられる子供などいるわけありません。だから、「しつけ」ができていない、つまりは引率者である教員や、指導者たる教員の指示を聞けないのなら、家庭に返却して、一定の調教ができたのちに、投稿を許可する仕組みにすれば、体罰などそもそも論として不要となるのです。
あるいはパーテーションで区切った「個室」を与え「隔離」し、教室とモニターで結んで「授業」を受けさせるというのも、いまの技術なら安価に実現できます。そこで授業を受ける受けないも、自己責任です。
人の話を聞かない、落ち着きがない、情緒不安定。これは家庭でなければ児童相談所の案件です。教員の仕事ではありません・・・とまで割り切れるのなら「体罰」は根絶できます。
もちろん、それでもいくつかはおこるでしょう。それなども社会のルールを適用して、教師による体罰も、児童生徒からの暴力も、すべて警察に通報するとしてしまえば良いだけのことです。法廷闘争向けに校内には監視カメラ網を設置して、24時間録画しておけばその後の手間も軽減できます。
もうひとつ、学校をめぐる悲劇がありました。
切ない話しですが、小学五年生の児童が、給食に含まれたアレルギーにより死亡したのです。
ご両親の気持ちを思うとやるせないのですが、いま学校給食ではアレルギー物質を除いた「除去食」というものがあるそうで、この児童もそれを与えられていました。
乳製品のアレルギーで、その日は「チヂミ」だったそうです。
そして児童は「おかわり」を求めます。担任はおかわりを許し、それが悲劇へと繋がるのですが、除去食以外のチヂミにはチーズがはいっていたようで、担任にはアレルギーに関する資料が配られており、これを確認していれば悲劇は防げたというもの。
この事件をうけて元キャバ嬢で現在作家と名乗る立花胡桃さんは、母親の立場としてこの担任を責め立てました。確認さえしていれば防げた事故で許せない、と。
迂闊であったことは否定できません。ただ児童は10才と報道にあります。児童を責めることはしません。しかし、それが生死にも関わることならば、担任だけを責めて再発防止へと繋がるのでしょうか。
いまや教員は給食の献立まで注意を払わなければならないのです。
その一方で、立花胡桃さんは、その後の料理コーナーでこういいたれます。
「酢豚は作らない。面倒だから」
・・・酢豚は中華料理のなかでは簡単な部類です。それを面倒というところに、彼女と彼女の子供の食生活が透けて見えるのですが、自分の手間暇はさておいて、学校の教師の手間暇には完璧を求める。
そして彼女だけが特別ではないとは、教育関係者のあいだではなかば常識です。自分たちの手間暇は惜しむが、教員には求める。それは「しつけ」に関しても同じ。でも、体罰は許さない。
ちなみに教育基本法で「しつけ」という文言はありません。
該当するところ、保護者がしつけを期待するところとしては、第21条の第1項にある
「学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」
でしょうか。
しかし、一方で同35条で
「市町村の教育委員会は、次に掲げる行為の一又は二以上を繰り返し行う等性行不良であつて他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる」
とあります。
一 他の児童に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為
二 職員に傷害又は心身の苦痛を与える行為
三 施設又は設備を損壊する行為
四 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為
以下略。つまり「しつけ」に該当することを学校が拒否できるとも解釈できます。
これを実施したとき、教育の敗北と取る人もいるでしょう。しかし、体罰を容認する根底には、教育機関への「しつけの期待」があり、ともすれば、親が親としての責任を放棄して、酢豚すら面倒だという親が、一方で、教師の失態を激しくなじることが、体罰の遠因になっていることに気づかない限り、悲劇は繰り返されます。