被災地の子供の学力対策は喫緊の課題

 火事場泥棒というと昭和時代の日本では忌み嫌われる最悪の
犯罪とされていました。

 それは・・・と解説しなければならなくなった時代に涙がこぼれ
落ちそうになるのは老化が進んだからだけではないでしょう・・・
人が困っている時に乗じて行われる犯罪、すなわち「卑怯」を憎む
心からです。

 「国家の品格」で「卑怯」にたいして藤原正彦先生は、武士道と
の絡みで解説していました。強きが弱きをくじくことを戒める
教えとしての「卑怯」が登場し、これは世界的には「武道」の
世界で通じるものがあります。

 たしか極真空手の創始者ゴッドハンド大山倍達さんの言葉とされる

「力なき正義は無力なり、正義なき暴力は無力なり」

 にも通底し、一定以上の力を持ったもの、つまり「強いもの」は
その力の使い方に気をつけなければならないというもので、
世界中の強さを身につけたものが到達する信念といってもよい
でしょう。

 一方で「武力」に際限がなくなることを我々は知っています。
 武力とは一対一の強さを競うものだけではなく、原子力爆弾を
筆頭に、敵を効率よく戦闘不能するための能力です。

 その点から「武士道」のように、己の力を抑制する哲学を醸成
したことは世界的にも珍しく、誇るべきと言う藤原卑怯論に頷き
ますが、わたしは日本人が「卑怯」を嫌う背景に「村社会」を
見ています。

 細かな異論はさておき、ざっくりとしたところでいう

「単一民族の村社会」

 において、卑怯者とは社会の危険因子だからです。共同作業、
共同生活において、自分の都合・欲望だけを優先し、約束を
一方的に破棄する存在がいては安寧は訪れません。必然的に約束を
まもり、自己都合より所属する集団の利益を考える性質のものが
生き残り、DNAレベルで「卑怯」を嫌うようになったのでは
ないかという見立てです。

 反対に狩猟民族や多民族国家においては、他人を信じることで
不利益となることも少なくなく、これを「卑怯」と恥じるのでは
なく「抜け目がない」と誇れるようになります。

 東日本大震災において被災地の日本人の規律の正しさを
世界が驚嘆してみています。逆に海外では被災地での略奪などは
自己生存のためと見逃されることもあるのですが、極限状態でも
「市民」として生きた日本人への賞賛の声こそ、

「グローバル社会のひな形」

 と、これからの日本人が世界に向けて発信すべきことなのです。

 グローバル社会・スタンダードという言葉は、日本国内では
日本蔑視の自虐用語として使われますが、グローバル社会を
端的に述べれば

「世界はひとつの社会」

 になるということ。すなわち

「地球村社会」

 です。そこでは

「世界に先駆けて村社会を確立した日本のノウハウ」

 が求められます。「卑怯」を憎む心はその最たるものです。

 国際社会において「裏切り」は日常です。裏切らないと信じる
ほうがマヌケです。

 しかし、地球がひとつの村になれば、裏切りは、村の安寧を
脅かす許されざる行為と誰もが頷くことでしょう。

 そう、日本が今後輸出すべき「文化」とは「卑怯という概念」。

 ・・・と、ここで筆を置きたいところですが、その文化が
破壊されつつあります。

 間もなく収監される「ホリエモン」や「村上ファンド」などは
徒花と見られていたら、彼らの蒔いた種はいたるところで花開き
根付いてきているので厄介です。また、当時、彼らを支持した層に
「ネットの住民」が多く、彼ら側からの主張だけがネットに刻まれ
「正史」のようにコピペされ、マスコミと政治不信が加わることで
すこし下の世代まで浸食しています。

「法に触れなければ、なにをやってもよい」

 という発言は卑怯者の最たるものです。ただ、真の卑怯者は
自分は卑怯者ですとはいわないので、彼らは単なる「お調子者」と
いう見方もありますが。

 そしていま「火事場泥棒」が跳梁跋扈しています。

 外国籍の人間からの違法献金で「死に体」だった人間が、
東日本大震災を理由に総理にイスにしがみつくのはその代表例
ですが、今回は彼ではありません。

「学力テスト中止」

 です。
 文部科学省は東日本大震災の影響で延期していた2011年度の
全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を中止すると決めました。

 何故、卑怯か。日教組の応援する民主党政権となり、
学力テストは抽出方式となり、全国一斉ではなくなっています。

 その先にあるのは「廃止」で、日教組は過度な競争を避けるためと
いいますが、その過度な競争とは「教員の教育技術の質」を競う
民間企業では当たり前のことを指します。もちろん、一部において
生徒に負担をかけたり、答えを教えるトンチキな教師が現れること
への懸念はあるでしょうが、それは「犯罪者」を基準に考えること
であり、脱法行為には厳しく接すればよいことであり、子供の学力
調査のためのテストを過度な競争を助長とするのは論理のすり替え
です。

 今回の「中止」は論理のすり替えという卑怯者の手法なのです。

 まず、前提として「文科省はテストに反対だった」ということを
忘れてはなりません。ゆとりにより地盤沈下が明々白々となるなか
で政治にねじ込まれた「教育改革」でしぶしぶ始めた学力テストで
当初は「結果を発表しない」と寝言を言っていたことから思い出し
てください。

 まず、「被災地での実施が難しい」というのがありますが、
そうでしょうか? 民主党政権下において「三割抽出」と縮小した
規模の実施も不可能なのでしょうか。

 裏返せばこうなります。

「被災県では7割以上の教育機関が壊滅状態」

 寡聞にして知りませんでした、こんなに悲惨な状態になっている
なんて。

 3月11日に被災し、勉強どころではなかったと主張するなら
ちゃんちゃらおかしな話しです。

 全国の公立学校において

「3月は遊び」

 であることは昭和時代よりの共通体験です。卒業式の練習や
なんだかわけのわからない発表会などで時間を潰した記憶しか
ありません。

 いや、ある日教組系が担任だった時は3月に入り

「ハイスピード授業」

 を経験したことがありますが、これは学習指導要領に定められた
「ノルマ」まで達しないことに焦った教員が「読むだけ」で、
やったことにするというおざなりな授業で、それは生徒の責任で
はなく教員の質にあります。それが「学力テスト」に表れたのなら
ダメ教師を炙りだせたというひとつの成果でしょう。

 話を戻せば、3月11日(午後2時45分)から、実施予定だっ
た4月19日までに学ぶ項目などたかが知れているということです。

 被災地の子供の精神的なショックが・・・というのはその通り
ですが、だからこそ、

「大震災が学力に与える影響」

 を調べる機会になれば、震災もまた日本人の糧となるのです。

 家財も家族もの流された人間にとって、残されたものは経験や
技術、そしてなにより「教育」です。また、勉強しているときだ
けは未来とだけ対峙することができるでしょうし、テストは
それを知る尺度と励みになるでしょう。

 なによりこれは重要です。

「大震災が学力に多大な影響を与えるのであれば、被災地の子供の
 学力対策は喫緊の課題」

 ではないでしょうか。

 つまり「中止」とは、被災地への配慮に論理をすり替えた、
文科省の火事場泥棒的な卑怯者のの振る舞いだと。

「卑怯を憎む心」を育んだ「村社会」は日本の誇れる文化です。

 ところがバブル期以降に顕著になった「グローバル」という
荒波にもまれて、美しき村社会は唾棄され、同時に「卑怯」への
価値観も180度転換・・・していないことは、東北・北関東の人
が身を持って教えてくれています。

 ・・・だからこそ、学力テストに期するものあったのですが。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください