ダンプの運転手が無線で仲間を呼び寄せて集団でひき殺す

 なんども繰り返していることですが、いまもっとも言論の自由が
不自由になっているのが「ネット」です。その理由はこう。

「人は望む現実しか見ない」

古代ローマの英雄 カエサルの言葉です。

AとB、ふたつの主張があったとします。

Aが一般社会常識に沿った意見であっても、ネットに居住してい
るかの如く常時居着くものや、長期滞在、あるいは勤務している
人間にとってはBが見たい現実なら、それはB以外にないのです。

その論拠は「BだからB」。自分の触れている空間、感じている
世界が実は極限られたものではないかという想像力が欠如している
のは、まるで日常の現象から「天動説」を採用した暗黒の中世の
ようで、それは小学校1・2年生の授業から「理科」がなくなった
こととの相関関係があるとすれば、ここにも「ゆとり」の弊害が
でたということでしょうか。

まぁ価値観も学力も個人の問題ですから、私に迷惑をかけない限り
自由であるべきと考えるものです。ところがネットでは

「自分の見たくない現実」

を提示されると執拗に否定する動きを取る人がでてきます。
しかも、先ほど述べたようにネット居住者、長期滞在者、
ネットを職場としているものほど、その行動が過激化して、
街宣車やデモ行進、ときにはストーカーレベルまでの「抗議」が
起こります。

いや「抗議」というより、「折伏」あるいは「改宗」を迫ります。
最低でも「謝罪」と。

こういう指摘に「B派」は、必ずこう述べます。

「言論の自由だ」

しかし、この言葉が自縄自縛だと気がつくB派はいません。

だから私は述べます。

「Aと主張するのも表現の自由」

例えばネットにおいてとてもセンシティブな「ネタ」のひとつに
「エヴァンゲリオン」があります。この解釈においては様々な議論が
ありますが、少しでも否定的なことを書くと使徒がやってきます。
この場合の使徒とは作中のそれではなく、キリスト教的な解釈からの
引用です。

あるエヴァ(と、略します)ファンに映画版(旧作)を見終えた
ことを告げると、物語の感想を求められたので「総括」したところ、

「違う」

と言下に否定。大筋で見れば幾通りも解釈できる細部にまで言及し

「私の意見」

を否定します。そこで面倒になったので、こうまとめました。

「なるほどわかった。
プロレスを“勝ち”と“負け”でその価値を測るのではなく、
技の応酬や、レスラー同士の因縁、遺恨、師匠から続く物語を
見ない限り本当の楽しさが分からないのと同じなんだね」

これは大のプロレスファンの社長から聞いた「プロレスの魅力」
ですが、彼はこれも否定します。プロレスとは違う。比喩を認める
想像力もないようです。

私は何より自由な言論を好む分だけ、他人の言論の中も可能な限り
尊重したいと思うものです。だから、他人の意見を認めないものが
嫌いです。彼は彼の信じる「エヴァ」を絶対と崇め、異端を認めません。

異端とは失礼な話しですが、自ら信じる者を絶対としたときの

「それ以外」

のことです。ならば私は「それ以外」で結構。

と、「対面」はこれで終了します(っていうか、これ以上
しつこいようなら武力行使の可能性を私は否定しません)が、
ネットが不自由な言論界となりつつある現状は、こうした「使徒」
が多く、入れ替わり立ち替わり攻め込んできて言論封殺どころか
改宗を求めるからです。そこに

「なるほど、私の意見とは違いますね」

という受け入れて拒否する大人の対応を見つけることができません。

そして繰り返し述べますが、ネットの使徒達は圧倒的な時間の
持ち主で、これは拙著「Web2.0が殺すもの」で指摘したように
この世界での最強属性は「ニート」だからです。ついでにいえば、
「ネット関係者」という属性もなかなかの強者です。彼らは商売道具
をつかって攻撃してくるのでタチが悪いともいえます。

飛躍して考えれば、ダンプの運転手が無線で仲間を呼び寄せて、
気に入らないものを集団でひき殺すさまを想像してゾッとしますが、
一部のネットでは日常的に行われている光景です。

そして本日のお題は「非実在青少年」。
東京都の条例です。

今年の春にも触れたので、詳しくは述べませんが、条例案を東京都が
議会に提出するとネットを中心に盛り上がっています。主な論調は
これです。

「表現の自由を守れ」

条例案を端的に述べれば「ロリエロ漫画(アニメ)規制」で、
規制に触れるものは販売場所を制限しましょうというものです。
春に提出したものは「恣意的な運用の危険がある」と、都議会民主党
などの反対で否決され、今回はその改正で「法に触れる表現」を
含んだものとなっています。それは近親相姦や強姦です。

しかし、それも「表現の自由」と。あるいは「規制」が拡大解釈
されれば軍靴が聞こえる・・・はぁ。

そしてネットの使徒が攻撃を仕掛けます。少しでもこの条例案に
賛成するコメント発表すると一斉砲火をくらい、明確に反対しない
だけで「意見を伺いたい」と喧嘩を仕掛けます。さらには「反対」と
明言しながらも、反対派の論拠の薄弱さを指摘し、それは理論武装を
呼びかける一種の「決起」にも関わらず弾圧します。

とにかく「規制」はすべてダメだといわんばかりです。

以前述べたことですが「表現の自由」は、社会という枠組みの中に
のみ存在するものであり、社会という共同体は構造上、その参加者は
一定の制限を受けるもので、それが暗黙の了解を越えて明文化する時
に「規制」となるのです。

つまり「表現の自由」が暗黙の了解のなかの制限を受け入れている
時に「規制」は生まれないのです。簡単に述べればこうです。

「エロ過ぎたから規制された」

私は約20年前の「遊人」さんの騒動のとき、当該漫画誌を
愛読していました。いますっかり文化人となった西原理恵子さんが
最初のブレイクをした頃の話しです。私はこの時、規制に反対と
考えていました。その漫画誌が「青年向け」だったからです。
ただし「エロトピア(エロ漫画の代名詞として)」のような販売法
かといえばさにあらずだったことは、微妙に思いましたが、
自主規制に至ったことを踏まえて思ったことは

「エロ過ぎた」

ということです。画力、構成力、キャラの可愛さ。従来のエロ系
漫画と一線を画すものだったことは確かです。

そして喉元を過ぎた熱さはどこへ行こうとしているのでしょうか。

書名は出しませんが、俗に言う「18禁」となっておらず、
児童でも購入できるコミックの中には「姉弟」「兄妹」でのセックスに
同級生との乱交を「恋愛仕立て」にしているものがあります。

また、いまの少年漫画誌はかつてのエロ漫画並みの女体が描かれ
ていることは珍しくありません。ここで「おっぱいボヨーン」、
「●●●クッキリ」は女体であり、それは芸術だという議論は置いて
きます。

※この●●●は自主規制です。表現の自由とは何でも晒せばよいと
いう考えに私は立っていないので。

規制反対派に問います。

「規制されないための戦い(取り組み)をしてきましたか?」

条例が否決されたあとも、石原慎太郎都知事は再度提出すると
意気込んでいましたし、明言していました。特に漫画家はなにを
したでしょうか。寡聞にして知りません。

すくなくとも反対を表明している漫画団体のひとつ

「社団法人 日本漫画家協会」

のホームページの「展覧会・イベント情報」をみると、
12月3日付で議論を深めるための集会の告知はありましたが
時系列で遡ると、会員漫画家の「展覧会」や「講演会」「イベント」
の告知ばかりで、「規制反対」は見つかりません。

唯一あったのは以下です。

<緊急シンポジウム>『論点整理:青少年健全育成と都条例改正問題』
2010年09月09日

なんだあるじゃないかと感心した刹那、以下の一文が目に
飛び込んできます。

<日本雑誌協会からのご案内です。>

なんじゃらほい。
規制するなと言う漫画家自身の活動ではないのです。

自由とは自然権ではありません。勝ち取る権利であることは
世界中の民主主義国家の国民が知っていることです。社会も国家も
我々の父母ではなく、また大人は園児ではありません。周りが
お膳立てしくれなければなにもできないとするならば、「自由」を
主張する権利はない。と、考えのは思想信条の自由、そして表明す
るのはご存じ「表現の自由」です。

ところがこうした「表現の自由」をネットの使徒は認めません。

いや反対意見を否定し謝罪の上、改宗を迫りこういうのです。

「表現の自由」

自縄自縛のB派であることに気がつきません。

非実在青少年の規制に賛成することも表現の自由に属し、それ
を違うと表現したのであれば、自分のブログやツイッターで論陣を
張ればよいのです。反対意見に改宗を迫るのは表現の自由だけでなく
思想信条、信教の自由に抵触します。

憲法を最上とする法治国家とすれば、ひとつの憲法違反より
みっつの違反の方が勝つのではないでしょうか。

なにより自由を愛する私は規制という言葉が嫌いです。
しかし、規制させないための戦いがあることも知っています。

それは地味で根気のいる戦いですが、それによってしか得られない
自由があります。例えば前倒しに仕事をして、僅かの時間も勉強を
し、その結果得られる自由は、日頃の地味な積み重ねの恩恵です。
日頃はのんべんだらりと与えられた仕事をして得られる社会なら
そちらのほうが不平等で不健全です。

そこで私は“エロ漫画”に提案します。
規制がどうしてもイヤなら自主規制、ないしは消費者保護の
視点からコミックの帯や雑誌の表紙にこう記すのです。

「幼少期におけるエロとの接触は特殊な性癖が身につくリスクが
あり、思春期におけるエロの過剰摂取はある意味で健康を害す
ることがあります」

あるいはこうは。

「本誌に含まれる成分:
友情30%、努力30%、勝利30%、反社会性5%、エロ5%」

エロアレルギーという特殊体質の大人は希におり、彼らの
接種リスクを軽減するのは「製造者責任」でしょうから。
 

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