ツイッターと流れる水

 ツイッターがもっともっと流行して定着した・・・とし
たら、先に待っているものにニタニタして恐怖するはなし。

初稿完了。連休中、執筆禁止を自らに課していたので
10日ぶり。メールのやり取りなどで「文章」は書いていた
のですが、やはりひとつのテーマにそって、エピソードを
まとめるのは頭を使います。

私のコラムの特徴でもあるのですが、いっけん無関係な事柄を
ひもときつつエピソードを時に明示し、いつもは暗示させる
やりかたは骨が折れます。そのかいあってか連載を続けることが
できているのですが、ふとツイッターに足を止めて思うのです。

と、その前に、こんなツイートをみかけます。

「最近、ツイッターばかりでブログの更新が滞っている」

・・・なるほど。短文故の気軽さ、つぶやき故の気楽さは
理解できます。また、即座の「リアクション」は書き手の
モチベーションを上げてくれます。例えば例の週刊ポストの
記事は取材から1週間後の発売でしたが、Web担当者Forum
の連載は入稿してから2週間後、マイコミジャーナルは
4週間後に日の目を見るので、ともすれば筆者の私が
何を書いたか覚えていません。

ところがツイッターは書いた刹那に反応があることも
あります。ブログもRSSで毎秒単位で追いかけていくれている
読者を持っている人は希で、やはり反応はディレイします。

そしてよりツイッターに傾斜し、彼らのいう「マスゴミ」が
もちあげ、確信を深めぬかるみからめとられたゴム長のように
抜け出すことが困難となります。

ゴム長を見て思うのです。

「思考が浅くなっている」

原稿書く時は自己と対峙し、記憶と対決し共闘します。
なにより原稿の書き出しと結びは同じテーマにしなければ
コラムはダッチロールし次の仕事がなくなるどころか、
社会的信用を失うリスクも抱えます。

だから書き出しの含意を結びで昇華させ、あるいは
謎解きをしなければなりません。これが技術でもあり
骨でもあります。90年代中期以降のアニメのように
伏線を放り出して読者の支持を集めることは文章では
困難です。

ところがツイッターにそれは不用です。逆に140文字
でダッチロールさせることができれば、不条理作文と
いう作品に昇華することができます。

まず、ニヤニヤ。新人が現れなくなる。末席の補助席の
となりの立ち見席の物書きの私はネットの恩恵で世に
でることができました。メルマガやブログで「コラム」を
書き続けたことがきっかけです。ツイッターでコラムは
難しいでしょう。となると、この立ち見席を脅かす存在は
現れにくい・・・もちろん、拙文への需要がいつまで続く
かという問題はありますが、無料のメルマガもブログも
こうして続けている以上「作品」の発表はでき、コラムの
需要はまだまだあるという意味で・・・と考えてニヤニヤと。

次に恐怖。思索、思考、熟考、構成、校正といった
文章作成プロセスに必要な「技術」が育たなくなること。

するとネットはすでに技術を持っている連中の草刈り場に
なってしまい、かつて夢見た表現の世界が荒れてしまう・・
・ことは避けられないのかも知れません。

水は低きに流れます。

 

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