涙が枯れ果てるとは辛い境遇などの比喩的表現ですが体験しました。
エピローグのころにはもう涙の1滴もこぼれ落ちてこないのです。
嗚咽。いつ以来でしょうか。いや初体験でしょう。なにせ感動の
悲しみから漏れ響いてしまうのですから。
かくも美しく、潔く、そして他者への溢れんばかりの愛情をもった
日本人がかつてはいたこと、翻っていまを見渡してその喪失感からの
涙粒も幾筋か頬を伝いました。
運命という残酷な脚本家。
8月6日、広島に原子爆弾が投下されます。本書の主人公はその
真下にいた広島市長粟屋仙吉の次女、粟屋康子。
康子は新潟にいます。しかし、原爆に倒れます。
それは愛故に。家族を思う心がそうさせたのです。
そしてまた・・・運命という残酷な脚本家は愛をとことん利用し
尽くします。
康子が原爆に倒れるのは愛ゆえのこと、そしてその愛とは
誰よりも日本人らしい日本人として日本を愛した日本人が、その
愛を捨てることになったがために実現したこと。
これらを「現代」の尺度で測ることはできません。
死を怖れない若者はカルトでも狂気に染まったわけでもなく、
現実として寄り添い、だからこそ他者の生を慈しみ尊重し愛した
のです。
かつてこんな日本の若者がいました。
その事実を知っただけで、私は日本人に生まれたことを誇りに
思います。
死の淵に立った康子を筆者を差し置いて描写するなら「凜」。
彼女はその旅立ちを・・・いや、やめておきます。
枯れた涙は翌日に補給できていることも発見したので。
■康子十九歳 戦渦の日記
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