特別編:団塊ジュニアよ。歴史を語れ

自分のイメージする大人までの道は険しく、まだまだなぁと思う
と同時に伸びシロがあるということだと自己弁護をしています。

社会人になってから約20年がたちました。
あの頃目指した大人に私はまだなれておりません。

しかし・・・私は語ります。時には自分を棚どころか屋根裏に
しまい込んで。

そう「歴史」を。

人生の先輩方には「小僧が何を」と思われるかも知れませんが、
小僧は小僧なりに歳月を経て、私より小僧には語るべきものを持っ
ているのです。

今日のテーマは「団塊ジュニアよ。歴史を語れ」。
メディア批判というかその根本にもあたる特別号です。

団塊ジュニアとは戦後のベビーブーマー世代の子供達という定義
で、おおむね昭和47年頃から昭和50年頃までに生まれた世代を
さします。

定義は結構曖昧で「下流社会」で平成の堺屋太一に躍り出た三浦
さんの定義が「ネット界」では定説のようになりつつあるものは、
いくつか解釈があるようですが、団塊ジュニアという言葉が広まっ
た頃から生きている私の正史では

「昭和45年生まれと昭和51年生まれはどちらも該当しない」

となっています。前者が私で後者は愚妹です。
だからその間が団塊ジュニアだと。

定義が変わればそれまですが、私の母は団塊の世代で、亡父は
昭和19年の「戦中生まれ」。
はてさてどちらに「属する」のでしょうか。ハーフでしょうか。

統計学者や作家、マーケティング屋さんに色々なお名前を頂いた
からといった何一つ変わりません。
ところが「名付け親」になりたがる人は多く、自説のために非礼
も無礼も気にならなくなります。

■「カルチャーズスタディ研究所」主宰 三浦展氏 の新しい世代定義
http://www.chara-labo.com/boomer.html

あまり上品でない解釈でも「流通」させると、ネット界の正史に
刻まれることがあるので詳述というコピパはしませんが、従来の解
釈の団塊ジュニアを

「ニセ」

と命名されております。平成の堺屋さんは。

「疑似」「仮」「見かけ」「旧」

などなど、言葉遊びのようですが日本語には沢山の豊かな表現方
法があるなかで「ニセ」を選択する品性は私の価値観ではありませ
んが、彼の主張は

「両親ともに戦後生まれで75年(昭和50年)以降に生まれた
子供達が新しい価値観の担い手」

として「真性」のジュニアだそうです。
そしてそれ以前の昭和40年代後半は「ニセ」と。
いっそ「仮性」とすれば神奈川クリニックの広告のようで面白い
のですが。コホン、失礼。

まるで梅田望夫さんのような「世代優生思想」。
梅田さんも「ウェブ進化論」のなかで、1975年生まれ以降に
期待すると、世代で人を区切ろうとしています。

人権団体が動かないのが不思議です。
人を生まれた世代で決めつけようとするのは優生思想と同列では
ないでしょうか。

人は生まれ年ではなく、最初は環境。次は心持ちによって自分を
作っていくもの・・・と私は考えます。

鳶が鷹を生むのではなく、鳶が自らの意志で鷹になるのです。

もちろん、「統計学」として十把一絡げにするのは理解できます
が、大抵の統計学・・・とりわけ商業活動に使われるものは「後付」
なのです。
起こっている「現象」を説明するために、データから都合の良い
ところを引っぱり出すのです。

戦後生まれの親といっても育った環境により人生観は異なります。
また、世代には共通体験としての

「ゲームウォッチ」「ルービックキューブ」「チョロQ」
「ファミコン」「ガンダム」「おにゃん子」「バンドブーム」
「バブル」「崩壊」

などがあります。ただしこれもアプローチにより体験は異なり、
ゲームウォッチ一つとっても、

「ハマッテ一日やっていた。2画面のドンキーコングは衝撃だった」
「ゲームをやると目が悪くなると買って貰えなかった」

と記憶は全く異なります。
ルービックキューブでも駄菓子屋などで売っていた「攻略本」で
6面を達成する人がいれば、

「分解して達成」

する剛の者もいました。
ガンダムでも「Z」「ZZ」ではまった人と「ファースト」では
「マチルダさん」への思い入れは微妙に異なります。

バンドブームでも学園祭で楽しかった思い出から、勘違いして
プロを目指して人生の道草を食ったもの、同時期のバブルで彼女との
クリスマスの一夜のためにボーナス全額突っ込んだものから、殺人的
スケジュールの仕事に従事していて

「バブル? 気づいたら終わっていたよ」

という友人もいます。

つまり、振り返るとひとくくりにする「歴史」は

「括った人の都合」

によるものが多分に含まれているのです。
団塊ジュニア世代の「再定義」もそうですし、生まれ年で能力的
な差があるかのような分類も同じです。

そこで団塊ジュニアよ歴史を語れ。です。

この場合のジュニアは昭和より受け継がれた古来の定義、に…
係わらず30過ぎたらもう語る責務があるのじゃないないかなぁと
いうことです。

最近考えます。
私が子供の昭和の頃、30すぎは立派なオジサンでした。
口々に自分の半生語っていました。

ギブミーチョコレートの米兵の話し、戦争帰りの親戚の話、
高度経済成長の時と私。

日教組の先生が教科書にのっていない「歴史」で、過去の贖罪を
求めるのとは対極的にイキイキとした「昭和史」を聞いて育ちました。

父母の知人達で今振り返ると最年長者で42才。

脂ののった元気な中年の自慢話は枯れたジジババの抹香臭い話し
より何倍も面白かったものです。多分にフカシが含有されていまし
たが。

「いつまでも若く」
「どんなときでも恋愛を」

悪いとはいいませんが、すべて「商業活動」、ものを売るための
キャッチコピーです。
心持ちはともかくいつまでも若いというのはあり得ないことです
し、一夫一婦制で配偶者以外との恋愛は不貞行為です。配偶者と
いつまでも恋愛気分でというのが詭弁でないと言い切れるでしょうか。

しかし、30過ぎれば十分に語るべき「歴史」をもっているのです。

「30周年記念特番」

っていうと重みを感じませんか?
30というのはそれだけのものなのです。
確かに老け込む年齢ではありませんが、「若者側」で居続けるのには
無理があります。

そして歴史を語ることにより若者側からベテランに移行しはじめます。

その語る歴史の中で自分は何をしてきたか、どう係わってきたか。
どこに辿り着くべきか。

自分を見直しこれからを見つめるためにも30過ぎたら「歴史」
を語ってください。

教科書にない、載らない歴史をです。

・・・すると面白いことが。

「歴史って捏造されるんだなぁ」

ということがリアルタイムで解ります。
つい数年前のあなたの歴史(記憶)と、メディアやネットで記さ
れていることがずれているものですよ。

そして「コピペの氾濫」という「ネットの歴史」の怖さにもまた
気がつきます。

メディアは生み出される「今」が大好きです。
だから「今と未来」ばかりが報じられます。

たまに特集で「プレイバック」と過去が取り上げられますが、
「都合の良い過去」ばかりです。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください