TBS「サンデーモーニング」を見ていて吐き気がしました。反日左翼のそれではありません。レギュラーはともかく、月1回ほどの周期で出演するコメンテーターらが、みな同じ価値観、同じ発想だということです。
映画監督、フォトジャーナリスト、メディアアクティビスト、批評家などなど。本業を見たことない人もいますが、みな
「脱原発、護憲、親中、親韓、反安倍(反自民)」
なのです。
さまざまな「職種」から選ばれているはずの「文化人」ながら、その足並みの揃い具合が、北朝鮮のマスゲームをみているみたいで吐き気がしたのです。
彼らは一糸乱れず
「特定秘密保護法」
に反対し、
「表現の自由」や「報道の自由」
を声高に叫びます。
しかし、誰が出演しても、ボイスチェンジャーを使って声色を変えた程度の違いしかなく、ならば「初音ミク」に語らせても十分です。
表現の自由や報道の自由とは、意見の多様性があってはじめて機能するもので、あの番組では出演者の選定の時点で、
「表現の自由」
が奪われており、それは中国共産党やプーチン国ロシア、そして北朝鮮における「表現の自由」と同じで、また、「愛国無罪」に名のもとに「日本人差別」が許される韓国とも同じです。
自分たちこそが正しいと信じて疑わない
「全体主義のおぞましさ」
を彼らに見つけるのです。朝日新聞にも同じことが言えますが、 表現の自由は見逃しても「報道の自由」もありません。
「特定秘密保護法」に反対であっても、個人差というか温度差があって然るべきなのに、みな同じ温度で反対をするのが、反日左翼的であり、自由な言論を認めない全体主義に匂いをそこに感じずにはいられません。
全体主義にとっての「報道の自由」などないからです。「ないものねだり」か「幻想」や「妄想」の類に過ぎません。
あえて「反日左翼」とするのは、日本の左翼は世界の左翼と同じではないからです。正直、好ましいとは思いませんが、反日左翼というイデオロギーの存在を否定しても、殲滅を目指さない世界こそ「表現の自由」が保障されている証で、ヴォルテールの言葉を借りれば
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
となります。ま、連中のために命までは懸けませんが。
司会者がいてアシスタントがいる。ご意見番が、呼ばれるコメンテーターは、それぞれ分野でご活躍の面々。となれば、それぞれの立場からの見地を披露すべきために呼ばれたはずが、まるで金太郎アメのように同じ主張をなぞるばかり。
ダチョウ倶楽部の上島竜兵氏が登場し、「おれやる」と皆が手をあげるなか、若手芸人が「おれ、やりません」と断れば、「どうぞどうぞ」というギャグに辿り着けないように、脱原発が「番組の趣旨」でこれに逆らう意見を述べられないなら、予定調和のバラティ番組と同じです。
そして彼らは自分勝手です。身内が敵を攻撃するのに使っても見逃すのに、同じ発言を敵がしたなら集中砲火を浴びせます。
その首魁、というか司会の関口宏氏。岸井成格氏、寺島実郎氏、田中秀征氏、姜尚中氏に金子勝氏と、極彩色のキャラクターに囲まれているので見逃してしまいますが、とても失礼な発言をするのが関口宏という人物です。それを持ち味とするなら「みのもんた」を越える非礼さです。
スピードスケートの清水宏保氏に「小柄」といったオブラートに包まず「背が低い」というのも決して上品な表現ではありません。また、小さい体ながら世界で大活躍とつなげるなら、会話の妙となりますが、身長の低さを強調しただけで別の話題へと移っていきました。
名前は失念しましたが、あるぽっちゃりとした外国人女子プロゴルファーに「もう少し痩せた方が良い」と言っていました。彼女の快進撃を報じるもので、ならば彼女にとってその体型はベストのはず。
女性=プロポーション、あるいは「痩せろ」とは、仮に同じ台詞を作家の百田尚樹氏が発言しようならセクハラと騒ぐことでしょうに。
そしてその場にいた誰ひとり「セクハラ」と、関口宏に突っ込みません。
全体主義のおぞましさとは、みなが盲目的に同じ方向に動くだけではなく、身内に対する批判が皆無となることで、狂信に拍車がかかり止まらなくなります。それは明後日20年を迎える「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教と同じです。
特定秘密保護法などをもって「言論弾圧」と叫ぶ姿び、己の主義主張のためだけの論理構成を開陳する姿は、かつての上祐史浩らにみえて、「サンデーモーニング」に白衣とヘッドギアがちらつきます。
そういえば坂本弁護士一家殺害の原因を作ったのはTBSの番組でしたね。