ビットコイン狂想曲:国家とビットコイン(6/8)

 そもそも「通貨とは国家」です。ならば無国籍通貨などフィクションであると気がつきます。通貨の価値とは国家の価値でもあるのです。有事のドルといわれるように、ドルが弱含むと円が高まるのも同じ理屈です。

 兌換紙幣・不換紙幣という言葉があります。金に代表される貴金属と兌換=交換できる紙幣と、そうでない紙幣という意味です。兌換紙幣の発行枚数は、交換を約束した貴金属の価値と比例します。しかし、社会制度の変化により、貴金属だけが価値を持つ時代は去り、オイルにレアアース、芸術文化、人口といった「総合力」が貨幣の価値を決めるようになり、不換紙幣へと転換していきました。いま先進国の大半は不換紙幣で、「信用貨幣」とも呼びます。

 それではビットコインはどこに該当するでしょうか。もちろん兌換貨幣ではありません。不換紙幣に必要な「信用」も幅広いものではありません。先に触れた日経新聞の記事では、発行上限が定められ、徐々に発掘が進むことから「金」と同じだという主張がありましたが、悪質で作為的でです。なぜなら「金」そのものではないからです。

 古代エジプトのファラオに代表されるように、古代より人類を魅了した「金」には、存在そのものに魅力があります。これは理屈ではないのでしょう。一方、先進的な技術は、技術屋にとって金と同じく輝いて見えることでしょう。しかし、金に非ずです。両社の混同は、意図的な欺瞞か、無知の告白です。なぜなら「価値」とは「相対的」に決められるものだからです。

 わたしのキャリアはプログラマから始まり「技術」への敬意は、一般平均よりは高いと自負しております。そして一般人の技術へ関心の低さも知っています。STAP細胞における技術論より、小保方博士の「割烹着」が注目されたのがその一例です。ならば技術が金を生み出すまで、技術が金より珍重されることはありません。

 するとビットコインを支えるのは「信用」だけです。価値があると信じている人だけに支えられているというのは、「たまごっち(白)」や「ビックリマンシール」と同じです。好きな人にはたまらないが、一歩引けば無価値に等しいということです。

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