ネット=刃物論という詭弁

 先日、旧友との雑談で「バカッター」の話題となりました。ふたりしてバツの悪い表情となったのは、あの手のことをやってきた二人だからです。

 旧友は比較すれば常識人でしたが、わたしと、彼を介したもうひとりで「三馬鹿」と呼ばれるような悪さをしていました。

 もちろん、それを公開するほどマヌケではありません。

 それと一点だけ自己弁護をするなら、お金を貰っているバイト先での悪ふざけはありません。多少のイタズラはありましたが。また、それを外部に広言することはなく、仮にどこかから漏れた際は

「え? なにそれ?」

 ととぼけ、勤務先に迷惑を掛けないようにするぐらいの大人の所作は身につけていた17才のころの話しです。

 ただし、バツが悪かったのは、当時、スマホやLINEがあれば暴走したかも知れない・・・いや、やらなかったという自信はないという歯切れの悪さが微苦笑へと繋がったのでした。

 三鷹JK殺人事件。大島の土砂災害の緊急性はもちろん高いとは言え、これに乗じるように事件は報じられなくなりました。背景にあるのは

「リベンジポルノ」

 です。

 ここで子細は掘り起こしませんが、被害者が撮影した「あられのない姿」は加害者の池永チャールストーマスの手にあり、事件直前にネットに公開され、今もネットで拡散を続け、数日前までは被害者の名前で画像検索をかけると、そのままずばりの画像が検索結果に並んでいました。いまも、別の語句との組み合わせで好奇の目にさらされています。

 テレビや新聞では報じられていませんが、週刊誌はこれを追い掛け、先週発売の『週刊文春』が、街角の若者に取材をしたところ、彼氏に「あられのない姿」を送っているのは普通だという回答があったといいます。

 ただし、週刊誌は結論に導くための「キメうち」をするもので、わたしの周囲での取材では見つかりませんでしたが、もっとも、こればかりは二人の秘め事。繁華街での週刊誌という無関係のものへの回答とは異なるのかもしれません。

 インターネットが普及してから、個人情報の流出、ウィルスによるものか、自意識過剰のなれの果てか、はたまたリベンジポルノかを問わずに、こうした話題は、今の季節のヤブ蚊のように忘れた頃に登場し、定期的に話題になり続けてきました。

 その度毎に、ネット上の読み書きと、情報管理能力を意味する「ネットリテラシー」の向上が叫ばれてきましたが、すでに個人による対応は限界に来ているというのが本稿の結論です。

 18年前に『ウィンドウズ95』が発売され時を経て、当時と今の何が違うのかと照らし合わせれば、ネットの通信速度や、パソコンの処理速度の向上はもちろんありますが、なにより決定的に異なるのは、iPhoneに代表される「スマホ(スマートフォン)」の存在です。

 もともと「パソコン」とは「パーソナルコンピュータ=個人のパソコン」の略称でしたが、普及の実態を見れば「家庭用パソコン」でいわば「ファミコン(ファミリーコンピュータ)」でした。

 家庭のリビングに一台というイメージです。それが、まさしく一人に一台となり、子供部屋を侵略します。

 ガラケー(フィーチャーフォン、従来型の携帯電話)も小さなコンピュータといえます。だから、バカッターやリベンジポルノはスマホのせいじゃない、といえるでしょうか。

 ネット礼賛派の連中はいうのかもしれません。しかし、その言葉は彼らの礼賛の言葉でそのまま否定することができます。

「パソコン並みの多機能」

 ということです。高速通信機能を持った手のひらサイズのパソコンがスマホで、ガラケーではカバーしきれなかった現実を子供達の前に開陳します。

 そして若者達は本を読まなくなりました。もともと減少傾向の読書時間が、スマホ利用の若者はさらに少なくなっていると、読売新聞の世論調査は教えてくれます。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131019-OYT1T01027.htm

 当たり前の話しです。読書の楽しみより、パズドラ(スマホ向けゲーム『パズル&ドラゴン』)はそもそも読書の楽しみを知らない層に強い引力となり、手の届く範囲のクラスメイト程度の繋がりを、世界の全てと錯覚している学生にとっては、メールやLINEが強制的に時間を奪っていくのは致し方のないことです。

 家族での外出より友だちとの無駄話、勉強時間よりも『週刊少年ジャンプ』であり、学業よりもクラブ活動やアルバイトに精を出していた昭和時代の学生と、スマホに興じる彼らの心根は同じです。

 広島県で起きたLINEを介して怒りが暴発した殺人事件も、小さなコミュニティによるリスキーシフトで、凶悪事件ではありますが、用意周到な殺意をそこに見つけるのは困難です。程度の違いに目をつぶれば、クラスメイトを「しかと」するのに似ています。

 だから津田大介氏などは「LINEのせいじゃない」と反論するわけですが、「LINEがなければ起こらなかった犯罪」であることは以前に指摘した通りです。

 そしてネットに拡散された「リベンジポルノ」が、事実上、永久に削除されることがないのもまた、LINEかフェイスブックかは小手先の議論に過ぎず、ネットがあるからこそ繰り返される悲劇です。

 先の津田大介氏に限らず、ネットによる事件が起きるたびにこうした主張が繰り返されます。

「ネットに罪はない。包丁を使った通り魔が現れたからと、金物屋が責められることがないように。使う人間の問題だ」

 冒頭の旧友にこの説明をすると、ひどく納得していました。まさしくその通りだとかぶりを振ります。そこで、「ならば」と接続詞を置き、こう続けます。

「自動車に罪はない。人をはねても、ひき殺してもそれは人が悪いのであって自動車に罪を求めるものではない」

 つまり、先の「ネット=包丁論」を是とするなら、戦闘機でも核兵器でも同じ主張が成立するのです。

 暴論でしょうか? 冷静に考えてください。ベッドに寝転び、悪意無く投稿したひと言が、地球の裏側にいるアルゼンチンのマルコの気持ちをナイフでえぐるように傷つけることができるのがネットです。

 包丁が傷つけることができるのは手の届く範囲です。そして相手の反撃を受けるリスクもあります。突然後から刺されれば、どうにもできませんが、正面から刃物を振り回すキチガイが相手ならば、上着を脱いで片手にまけば、盾の効果は期待できますし、周囲を見渡し棒でもあれば反撃も可能、なによりその場を逃げ出せば、被害をゼロに抑えることができます。

 しかし、ネットは違います。ネットが生活の一部になっている以上、永遠に逃れることができません。

 包丁とはまったく異なる性質のツールがネットで、津田大介氏のようなネット礼賛派が喧伝する、機能効能の威力の分だけ人を傷つけることができるのです。

 礼賛派の主張の全てを否定するものではありません。ネットは限りなく自由であるべきというものです。しかし、彼らの主張は極度に限定された条件において機能するものであり、その条件とはこうです。

「すべての参加者が、自己管理ができ賢明な判断をし、トラブルを自己責任として受け入れ、対処できる度量と経済力を保有し、また他人の失敗に寛容であること」

 どこの宗教だと突っ込みます。あるいは共産主義や社会主義です。どちらのイデオロギーも失敗したのは、人の善性に無担保で立脚していたからで、中国共産党の幹部が腐敗するのは、むしろ人間が人間であることを証明する黒光りです。

 あえて津田大介氏らを弁護するなら、自己犠牲を厭わず、節制を良しとする日本人の善性を、世界的に見れば奇矯ともいえる優しさを前提とした社会を当たり前とした仮説なのかもしれません。

 あるいは彼の御尊父は旧社会党の関係者で、なるほど社会主義者の立場に立てば、

「世界で唯一成功した社会主義国家」

 と揶揄される日本の成功を誇っているのかもしれません。彼の発言に左翼イデオロギーが散見するのは、御尊父の成功体験によるのでしょう。

 話を戻します。奇しくも今朝のNHK『あさイチ』にてネット依存を取り上げ、登場した現役高校生は

「朝起きてすぐに、寝る直前にもLINEをチェックする」

 と回答します。そしてこれを当たり前とするとしたら、果たして健全な自我を構築できるのでしょうか。

「会えない時間が愛育てるのさ」

 と歌ったのは郷ひろみ。完全に外部から切り離され、ひとつの生物としておかれた人間に自我などは生まれません。対人関係や書籍との対話から仮説を立て、検証し、身につけていくものです。ところがLINEにより24時間、誰かとつながっている状態で「仮説」を立てるのは困難です。なぜなら、目の前のタイムラインはせわしなく流れていき、追い掛けるだけで時間は消費され、鍛えられるのは脊髄レベルの条件反射だけです。

 友人とともに過ごす時間は楽しいものですが、友人のいない時間に友人を思う作業が、友人の人格を想像する訓練となり、それは自己の確立にフィードバックされます。また、同様に友人が認めた自分の人格が自我の構築に影響を与えます。もちろん、家族でもアルバイト先の仲間でも同じです。

 自分以外の存在という意味での「他人」との関わりの中で、人は自分の存在を確認しますが、時に立ち止まり情報を整理する時間がなければ、状況に流されるだけの存在となり、心に不安を抱えたまま、その不安の影にすら気づかないまま、情報の奴隷となって死んでいきます。鬱病が増えている背景に、ネットの存在は無縁ではありません。

 かつてネットのなかった時代に思春期を過ごした世代にとって、これらは当たり前のことでした。長電話にも限界があり、定額制など無かった時代の電話代は高額となり、電電公社(現在のNTT)からの請求書を見て激怒した親の記憶を持つ人も多いことでしょう。

 必然的に「孤独」の時間が生まれたのです。それこそが自我を生み出す時間だったのです。

 いま子供達はLINEで孤独に出会わずに生きていこうとします。他人との関わり合いだけでは人は・・・大人にはなれません。

 大人とはなんぞや?
 さまざま解釈があることでしょうが、本稿においては

「自我を確立している存在」

 と定義します。自我は自分の意見を誰に対しても言えることとは似て非なるものです。他人の意見に流されやすいとしても、それを生き方と自覚しているならば、それも「自我」です。波風が立つのを嫌い、意見表明を避ける生き方を選択するのも「自我」の仕事です。

 さて、常にLINEのタイムラインに追われる子供達に自我の萌芽を期待できるでしょうか。

 規制しなければならない理由のひとつです。

 規制論に対してネット関係者は、自己責任論と自然発生説での反論を試みます。

 しかし、自己責任を問うことができるのは「自我」を持つ大人だけです。この議論の焦点は子供です。ならば自己責任とは残酷すぎます。自我を確立しないまま法的な成人となった「精神的子供」は議論が散漫となるので本論では割愛します。

 つまりLINEやフェイスブックにはまる子供を「自己責任」とすることはできません。

 もうひとつの自然発生説とは、自我を含め、モラルやルールは自然発生的に生まれ、習得していくものだから、規制や制限は好ましくないというものです。

 これなど論外。自然発生説は進化論の一部援用によるもので、進化の裏側にある「淘汰」には触れていません。仮に未成年のLINEやフェイスブック利用により、犯罪が生まれ、死に至る子供がいたとしても、自然の摂理だから仕方がないとまでいうのなら、その論を認めますが、都合の良い論をつなぎ合わせた我田引水であることは疑いようがありません。

 またいずれ混沌から整頓された秩序が生まれ、集団は最適化していくという自然発生説もありますが、そこにある重大な欠陥は、やはり「自我」の存在です。あるいは「社会性」、「モラル」と言って良いでしょう。

 これまで述べてきたように、子供達の自我は未発達です。そこに大人と同等の働きを期待するのは、少女売春と同等のおぞましい期待です。いや、かつて12〜15才で元服をするのが常識だった時代、嫁入りも同年齢であり、早く大人になることが求められたころなら、少女売春の議論すらナンセンスであったのですが、とにかく今はこういう時代であり、平成の15才を「大人」と呼ぶ、社会コンセンサスはありません。

 ところが「ネット」では大人と同じ権利が認められています。そして自己責任論、自然発生説とは、大人と同じ義務を課そうとするものです。わたしは津田大介氏の主張に残酷だなぁとつぶやきます。

 だから「ネット規制」を提言するのです。

 自然発生説は壮大なる社会実験の結果が破綻を証明しています。「ゆとり教育」による学力低下です。

 強制性を排除することで、自発的に子供が学習するというのも人間の現実を見ない日本型左翼の発想で、日本人らしさといって過言でない善性に、よりかかった甘い考えです。

 なぜなら美徳と誇れる善性とは、日々の生活の中から学習していくもので、いま、国内においてモラルの荒廃が叫ばれるのは、日教組教育による果実が腐り異臭を放ったもので、義務を履行せず権利の行使ばかりを求める利己心が先立つ大人(ここでは法律上の成人)が増え、その連中が育てた子供が謙虚さを学ぶ機会がなかったからです。そして既に三世代を重ねています。

 今風に言うなら「善性のガイドライン」を見せずに育った子供は日本人が育んできた善性を身につける機会を与えられません。これがモラル低下の正体です。年寄りのモラル低下ではなく、モラルを教わらなかった戦後教育の第一世代が老人になっただけのことであり、中身は渋谷にうろつく小僧小娘と同じです。

 教育も同じです。強制性を持って学習機会を与えない限り、学習習慣を身につけることはできないのです。

 つぎは小さな例えで説明します。愛犬と暮らして2年半での結論。

「躾をしない犬はお手ができない」

 我が娘・・・コホン、飼い犬はお手やお代わり、伏せもできれば、目の前に食事をおいての「待て」ができます。信号待ちで「ストップ」といえば、お座りして「ゴー」がかかるまでその姿を維持します。

 自慢ではなくドッグトレーナーによれば、躾をすれば、すべての犬ができることだといいます。

 子供も同じです。躾をせずに躾を身につける子供はいません。仮にいたとしても、それはレアケースでありマイノリティー。それをもとにマジョリティを論じることを暴論と言います。

 LINEやスマホも同じです。だれかが「躾け」なければ、サルの自慰行為のように自滅するまで止めることはありません(※比喩表現で実際のエテ公はもっと利口です)。

 また冒頭の友人の台詞です。

「ネットの規制は難しいんじゃないの」

 これを当意即妙というのだとほくそ笑みながら、わたしは即答します。「できる」と。

 ここからは具体的なネット規制の方法です。

 パソコンに限らず、スマホでもガラケーでも、ネットに接続する際はすべてIPアドレスが記録されています。端末には固有番号であるMACアドレスが割り振られており、両者をつき合わせれば端末の特定は可能です。

 最大の問題はスマホにあることは既に述べました。そしてそのスマホの特定は可能です。ならば、子供が使うスマホだけに規制をかければ済むだけの話です。

 生き様としては保守に美学を覚えますが、リバタリアニズムにもシンパシーを覚えます。思慮の足りなかった若い頃、アナーキーへの憧憬をもっていたことを告白します。

 だからなのかネットの全面規制には反対です。しつこいようですが、本稿での提言は子供向けです。それもスマホだけを規制せよというものです。

 子供にスマホを使うなと言うことではありません。ただし、規制されたスマホにしなさいと言うもので、具体的な方法に移る前にガラケーとパソコンについて触れておきます。

 野放しを良しとはしませんが、ガラケーは機能が限定されていることから、リスクが低いと現時点では言えるでしょう。むろん、スマホが規制されることで、ガラケーへの乗り換えが起こり、ふたたび同じような状況が起こり得るでしょうが、それはこれから述べる対応策で間に合う話しです。

 パソコンは子供が気ままに扱うには価格とハードルが高く、また、安全なサイトだけへのアクセスを許可するフィルタリングや、各家庭のリビングに置くことで、親の監視下に置くのであれば、それは各家庭の責任で、社会が関与すべきことではない・・・ということから規制の対象外とします。

 繰り返しになりますが、スマホは名実共にパーソナルなコンピュータで、子供部屋を侵略し、ベッドの脇に君臨し、子供達の生活を支配しているのです。

 いまもある「ホワイトリスト」を強化します。

「ホワイトリスト」とは携帯回線会社(キャリア)が安全と判断したサイトの情報で、それ以外はアクセスできないようにする仕組みですが、事実上はザルになっています。キャリアの負担が重すぎると形骸化しているといってよいでしょう。

 そこで「ホワイトリスト」は、コンテンツ提供会社、サイト運営者の「自主申告」とします。それぞれが子供に見せても大丈夫なコンテンツだとキャリアに申告するのです。そして申告していないサイトには、子供スマホからアクセスできないようにします。

 罰則も用意します。ホワイトと申請したサイトで、違法や触法コンテンツが見つかったり、援助交際の温床となっていたりした場合は行政処分を下すのです。

 キャリアにも形骸化させないように、サイト巡回の義務化を命じます。なぜなら、キャリアは「電波」という国民の財産を利用して商売をしており、ソフトバンクの今年度の利益は1兆円です。

 儲けるための企業努力を否定しませんが、電波を利用している以上、応分の負担を求めるということです。テレビ局と比較すれば、相応の負担をしているという意見もありますが、比較論ではなく社会インフラを担う業者としての責任を明確にするということです。

 さらに踏み込めば「0円」端末を配布できる余力を、子供達を犯罪から守るために振り向けろということです。

 それでは「子供」の定義はどうするか。これこそ、キャリアの出番です。

 未成年とすれば20才、自動車免許に準じるなら18才、義務教育なら16才。このいずれかが妥当とみるでしょうか。

 いやいやここは議論をシンプルにしましょう。

「学割利用者を規制」

 でよいのです。

 わが家に子供はいません。学割など北朝鮮より遠い国の出来事です。携帯電話は故障しない限り機種を替えること無く、主にパソコンからのメールで連絡を取るので、パケット代も電話代も大抵は「くりこし」で、たまりに貯まっています。

 割引の恩恵をうけることなく、文句もいわずにキャリアに料金を払い続けているのは、子供達を犯罪に巻き込むためではありません。

「一般利用者が学割を負担している」

 だとすれば、学割は適切に使われるべきと、割り勘負けしているからこそ声を大にして主張します。

 電車やバスでも学割が格安になるのは、次代を担う子供達の成長を助けるためです。ところがスマホの学割は、子供達の成長を妨げている可能性が高いのです。

 だから「学割」を受けているスマホは、ホワイトリストの対象とし強制的に規制してしまうのです。

 学割ではなく正規の契約をすれば、いままでと同じだ。

 その通り。応分の負担をする、すなわち義務を履行したのなら、権利を主張しても結構。しかし、学生の現実に目をやれば、携帯電話の料金は親がかりです。あるいは子供の学割と併用できる家族割りを利用している世帯も多いことでしょう。

 すると経済合理性と、社会的規範(建前)からも、ホワイトリストの普及が進みます。

 NHK『あさイチ』のなかで、LINEの運営会社は子供達の過剰利用についてこう反論しています。

“メールと同じ(要約)”

 リスクの啓蒙活動もしており、LINEだけを責めるのはいかがなものかというニュアンスです。啓蒙活動は良いことです。しかし、メールと同じという発言が、規制を甘受しなければならない言質となります。

 かつて電子メールが普及したとき、ネット関係者はこういいました。

「手紙と同じ」

 しかし、実態は異なり、安価に(ほぼ無料)大量に配信できる電子メールの仕組みは、迷惑メールを無限大に生み出し、送りつけられるダイレクトメールの比ではない、社会問題となりました。

 そして「個人情報保護法」「プロバイダ責任制限法」などにより規制されます。

 つまり、メールと同じと言うことは、同様の規制が必要と言うことです。規制がいやなら、学割端末を利用しているユーザーの利用制限を早急にかけるべきです。

 仮にLINEが先んじて、これを実現できれば画期的なこと。

 昨年社会問題となった「コンプガチャ」と同じく、ネット業界は規制されるまで金儲けを止めないからです。

 はてさて、火薬が武器になったことに嘆いたのはノーベル。後に人類は自動車が凶器にもなることも発見します。人類の本質とは残酷なまでの攻撃本能という人もいます。

 一方で自動車を凶器と自覚した人類は、免許制度を導入することで無害化を目指します。さらにメーカーは安全装置を発達させ、それでも間に合わない部分には「規制」をかけることでアンダーコントロールしてきました。

 戦闘機と核兵器は使用者を選ぶ仕組みをあらかじめ用意していますが、後者に関してはときどき漏れることがあり、その度に規制のための知恵を絞り出します。

 さて「ネット」です。特に

「スマホは危険」

 と誰も声を上げないので上げてみました。そしてその規制は子供でアリ、スマホとターゲットは絞られています。

 ネット=刃物論は、ネット礼賛者の詭弁です。手の届く範囲内の被害に収まる刃物と、手の届かない地平の彼方まで被害が拡散するネットを、同列に語っているのですから。

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