早いもので平成24年も終わりを告げようとしています。
本日午後の首班指名にて政権再交替が行われることでしょうが、たぶんメルマガ版としては年内最後となる今回のテーマは、本業であるITについてお届けしますが、その前に、東日本大震災以降の自民党批判とはすなわち思考停止であり、その基本は「甘え」にあると指摘したことを覚えているでしょうか。
当時・・・厳密には本稿執筆時にはまだ野党の自民党に、進まぬ復興、原発事故対応などの責任を押しつけようとした、民主党はもちろん、古舘伊知郎や小倉智昭、みのもんたあたりもそうですね、つまりは「アンチ自民党芸人」どもの愚にもつかない自民党批判は、永らく政権の座にいた自民党を批判していれば座が盛り上がったという記憶を頼りにした「思考停止の芸風」であり、その姿はせんだみつおさんの「ナハッ!」に通じます。
さらには「甘え」です。自民党はどれだけ悪し様にいっても視聴者の反感を買うことがないと、前安倍政権時の「人格批判」のようなむごたらしいことを平気でやれるのです。
好意的に解釈すれば、子犬が親犬に噛みつくようなものともいえますが、心根においては中韓における反日教育と同じで、記憶に残るところではリクルート事件以降の報道は、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、みんな自民党の責任とプロパガンダを続けていましたからね。あ、電柱もポストも自民党の影響下にありましたが。
いまも明確な理由なく「自民党=嫌い」と思い浮かべるなら、洗脳の呪縛に捕らわれていると自覚すべきです。
ことさらこれを取り上げるのは、まさに「甘え」が露呈しているからです。いま誰がこの言葉をもって安倍新政権による政権再交替を語るでしょうか。それはこう。
「ハニームーン(ハネムーン)」
かつてルーピー鳩山のころしきりに叫ばれた、
「政権交代後の100日間はメディアは批判を避け様子を見る」
というものです。政権交代に伴う人事異動、各種準備に根回しなどで十分な成果が出せないであろうから、この期間は批判を控えて様子を見るというものです。
民主党政権下では拡大解釈され、ペテン師菅直人に、どじょうの野田佳彦にまで適用しろという声もあったのに、いま安倍晋三にはありません。二度目だから? それは違うでしょう。ハニームーンとは政権交代に伴う、とは繰り返しませんが、状況は同じでしょう。ところがすでに人事からケチをつける場所を探しています。
自民党を手放しで応援するつもりはありませんが、しかし、この異常な洗脳状態から解脱することが、この国の未来を開く鍵としてこれを指摘しておきます。
ついでにいえば野田佳彦。新聞報道によれば首相公邸をでたあと赤坂の議員宿舎に引っ越すとあります。こい・・・彼は千葉4区でそこは千葉県船橋です。永田町から東京駅は目と鼻の先で、総武線の快速に乗ればわずか24分で船橋駅につきます。
首相に電車通勤しろとは言いませんが、一般常識からいって十分に「通勤圏内」。それが格安な赤坂議員宿舎にはいっておきながら、国民に負担をお願いする増税を推進するところに、ドジョウの性根がみえて不愉快です。
議員宿舎には23区内居住者は入居できませんが、腹が立つことにわたしのところから永田町へ向かうほうが、どじょうの選挙区より微妙に時間がかかります。つまり、交通事情の変化により、宿舎の不要な議員にまで提供しており、増税に命を懸けたドジョウはちゃっかりその恩恵に預かっているということです。これもまた誰も指摘しません。
ちょっと触れる予定だった雑談で熱くなり、前置きが長くなりすぎました。本題にはいります。
じつはこのネタ、1ヶ月間寝かせていたものです。下書きの日付は11月28日となっております。テーマは
「ITは人の幸せのかたちを変える」
人の記憶とは知識の羅列ではありません。雑多な情報を結びつけ、推論や仮説を作り、経験で裏打ちしていくものです。けっしてトリビアの集合体ではありません。これを「身体性」という言葉で括ります。
火は熱い。という情報を、かつてはたき火から学び、あるいは石油ストーブの上にのせたヤカンの熱から間接的に理解したものです。東京都ではたき火が禁じられ、ストーブの上のヤカンは目的外利用だという野暮はここではスルーします。
手のひらで消えるひとひらの雪。も、じゅわっと消える体験が、ことばを場面とさせる触媒となります。
当たり前のことです。いや当たり前のことでした。となりつつあります。
かつて人が得られる情報は、その人の能力に比例していました。インターネットとITツールの普及により、本人の情報処理能力を超えた情報に晒されるようになりました。
そして情報を裏打ちしている時間がなくなりました。
「あるよねー」「わかる」「みたいな」
と、乏しい実体験からの推測値からの言葉のやりとりが普及したのは偶然ではありません。「わたしってこういう人じゃない?」と同意をもとめる話法の広まりも、その場で促成的に裏打ちを求めるからです。
明確な主義主張には身体性が伴ったものですが、いまや見聞きした情報を重ねるだけとなりました。いや、情報を飲み下し、血肉に溶けて、骨や筋肉となってから発する頃には話題に取り残されてしまう・・・という恐怖感に追いかけられているのです。
これは名著「ネットバカ インターネットが わたしたちの 脳にしていること(青土社)」からの引用(筆者要約)。
「ネットにより、人は原始時代に引き戻された」
人がサルになったという主張ではありません。ホームページをボンヤリと眺めているようでいても、表示される各種広告に、ハイパーリンクを
「クリックするか否か」
の選択を絶えず迫られており、それは原始時代、ひとに安全な場所がなかったジャングルや草原で、絶えず敵の襲撃を警戒しながら、獲物を探すために必要だった「散漫な注意力」の時代に戻っているという指摘です。
著者のニコラス・G・カーは自身のネット中毒患者として位置付け、対比として「本」を置きます。日本のIT著名人にありがちな新旧の世代対決という底の浅い話しではありません。
本を読むという行為を「深い思考」とし、ネットのなかで求められる能力を「浅い思考」と区別しているのです。
深いから良いと著者は言いません、というか認めようとしません。そこに著者の愛嬌とネット中毒たる苦悩が見えるのですが、本を読むという行為は著者との対話であると同時に、自身の経験との重ね合わせであり、身体性を伴い蓄える「深い」ものである一方、ネットはクリックの取捨選択という、その場における最適解をつねに要求されるため、「深さ」よりも「浅く」ても迅速な判断が必要な世界だと両者を区分するのです。またこれを脳科学や心理学からも読み解いていきます。
つまりネット社会となり、人はその場の判断を重視される思考回路が発達した反面、全人格的な身体性を伴う思考経験が少なくなっているということです。引いては文化や文明に対する感受性も変わってくるし、その先には文明の形、ありようも変化していくと指摘します。
それは本稿で述べる「幸せのかたち」も同じです。
自由な意見表明ができる場であったネット空間。
いまツイッターやフェイスブックに隆盛により、空気を読む場に変化しています。ツイートを捉えて噛みつけば
「タイムラインを読めよ」
と横やりを入れられ、不細工なご子息の写真にも
「いいね!」
のクリックをフェイスブックで強要されます。
息苦しさを感じます。しかし、裏返せば「考えなくて良い」のです。誰かに従っておけばよく、雰囲気に流されれば、無難に時を消費できます。それを不幸だなどと想像すらしません。
いや不幸だと考える時間すら奪われる情報の渦のなかで人生の大半を過ごします。金魚は水槽の中の人生を後悔することなどありません。水槽の外の世界を知らないからです。
条件反射をたえず要求される世界において、己の存在を深い意識に問いかける意味すら見つけられません。思考における身体性の消失です。
かつての言葉に「刹那的」というネガティブな用法がありましたが、刹那の時が連続し否応なしに選択を繰り返すネットのなかでは、むしろ肯定的に用いられることでしょう。
拡大鏡で覗いてみれば、短絡的としか見えない自殺や犯罪の増加にも絡みつく糸がみえてきます。それがなにになるのか、どうすべきか、と考えるよりまず行動します。それが永遠のピリオドと、読点の違いも分からぬままに。身体性がないのです。点はおなじ点に過ぎません。
しかし、それを「不幸」と決めつけるのは、かつての「幸福」をしっている側からの意見だと彼らははねつけるでしょう。動物園で生まれたライオンは食欲を満たされることを目的とし、己を嘆くことなどしはしないようにです。あるいは野生のライオンの姿を見て
「マジ、うざくね?」
とツイートするかもしれません。身体を動かし、空腹に耐えながらハンティングするより、まいど食事が確保されていることに幸せを覚えるライオンに、どこまで青い空も、終わりなき草原も苦行にしか見えません。
きれいで可愛い子がAV女優になるのも同じです。いまがの刹那こそに人生がアリ、過去と未来が連続したとしても、迎える未来の刹那にのみ意味があると考えるのなら、いまからみた未来の心配など杞憂に過ぎません。
もう少し簡単な言葉で要約すればこうです。
「価値観が変わった」
そして宗教を持たない日本人はこれを否定する言葉も、軸ももちません。
ネットによりすべてが変わったという訳ではありません。前掲の書では「情報」を理由としています。新聞、ラジオ、テレビ、そしてそれらと比べても飛躍的に増大したインターネットによる情報量の増加に晒された人類が「浅い思考」に流れていくと喝破します。
抗しがたい事実です。
「本が読めなくなった」
と感じたことはないでしょうか。新聞やネットニュースなどのトピックを読んでいる人も多いので、気にすることも少ないでしょうが、ハードカバーの大書を読み、それを理解する能力の欠如です。
告白すればこの一年は読書能力を取り戻す戦いでした。
一年前の今頃、ツイッターを止めました。ただしくは情報発信チャネルとしてのみ利用し、そこでのコミュニケーションを遠ざけたのです。
それは浅い思考に気がついたからです。すっかり文化人となった津田大介氏の活動を揶揄しました。ツイッターでひと山あて、各種メディアに登場するのはそれとして、彼の発するあまりにも浅い論と、それを有り難がるところに「マスゴミ」の限界がアリ、つまりはその程度のものに過ぎないということに気がついていながら、メディアジャーナリスト自称しながらNHKの旅番組に出演する彼のツイートに絡んだのです。
そして津田氏からは「余計なお世話」。
その通り。彼の人生を心配するのはわたしの仕事ではなく、浅い意見を採用して番組にするのなら、チャンネルを合わせなければ良いだけのこと、あるいはその番組に対して論を持って戦いを挑むのが売文稼業のちっぽけなプライドであるところが、「浅い思考」のまま行動していたのです。
これを猛省しツイッターを止めました。できた時間に読書量を増やします。ところが半年以上、著者との対話、体験と照らし合わせるといった「深い思考」を得るコトは困難でした。「身体性」を消失していたのです。
ようやく「深い思考」の感覚がもどってきたのは10月にはいったころでしょうか。読んだ文字が血肉に溶ける感覚にふたたび出会います。
スマホの隆盛により、よりネットと接触する時間が増えています。ますます「浅い思考」が発達していきます。それを不幸とはいいますまい。それが新しい幸せのかたちなのでしょうから。
絶えず、誰かと、つながっている。それをしあわせと呼ぶのなら、愛の育たない時代になったと、よろしく哀愁。
ただし「浅い思考」は同じ過ちを繰り返します。
ITでいえばセカンドライフの失敗を振り返らず、ブログのブームと同じ台詞をツイッターに守護を置き換え、フェイスブックとLINEを囃し立てるのもその現れ。
反省しろとよという言葉は「浅い思考」には通じません。刹那の情報処理と脊髄反射こそが生存競争を勝ち抜く条件だからです。
思考の浅い深いは「生き様」でもあります。
だから「しあわせのかたち」であり、「浅い思考」が重視されるネット社会において変質していくのです。
ちなみに「浅い思考」の代表選手はIT業界を除けば民主党。彼ら場面場面でしか行動しませんからね。刹那的に。
■ネットバカ インターネットが わたしたちの 脳にしていること
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