子供との会話は執筆作業に似ております。
それは「前提」や「状況」を説明しなければならないからです。
プロの原稿は読者レベルにあわせなければなりません。例えば
私の連載「Web担当者Forum」では、ある程度Webの
知識がある前提で書き上げることができますが、マイコミジャーナル
の「エンタープライズ0.2」においては「知らない読者」向けの
解説が必要であるようにです。
例えば「昔は」と前置きするだけで、同年配以上の方なら説明は
不用ですが、現代の中学生や小学生には
「パソコンのない時代」
を説明しなければ、
「ネットで検索」
などできなかったことを説明できません。
これは「調べる」をテーマにした甥との会話で、彼が粗忽である
ことにも要因があるのでしょうが、
「図書館の意味」
を知りませんでした。漠然と本を読むところ、自習する場所という
認識はありましたが、
「調べ物をする」
という用途を知らなかったのです。よくよく訊ねると学校でも
「調べ物=パソコン(ネット)」と教師は教えているそうです。
今回は「教育」がテーマではないので掘り下げませんが、教育現場
はなかなか「香ばしい」ようで、いずれ特集します。
唐突ですが「命とは時間」です。
言葉を足せば
「ひとりの人間が使える時間には限りがあり、その限りが命」
ということ。哲学の話しではなく、時間というの概念は人間にとっ
て大切なものであることは言うまでもなく、おはじきやビー玉と
同列に語るものではない・・・ということに異論はないでしょう。
しかし、現代日本において時間がビー玉と同列に扱われています。
その証拠が「俺の三個上」。
こう書くと分かりやすいでしょうか。
「おれの3コ上」
すでに若者だけではなく中年まで、年齢の上下を、学年の差を
「個数」で表すようになっているのです。
何歳、何学年、いくつ。時間を表す言葉が豊富にあるのにです。
英語でも時間は区別して数える理由は簡単です。
「ジェームスはジミーの何個上ですか?」
英文で問われたら、こう聞きかえすでしょう。
「その前にジミーは何を何個もっていますか?」
ものと時間は区別されており、その区別とは「相互理解」の
上での「お約束」です。
言葉は生きているから変化に目くじらを立てることはない。
日本語の変化(あるいは退化)を嘆くと、こう反論する人が
必ずいます。しかし、基本を知った上で無視するのと、基本を
知らずに濫用するのでは意味が異なります。
甥が私と姉の年齢差をこう訊ねます。
「なんコ違うの?」
私は答えます。
「私と姉はビー玉ではない」
そしてそもそも年齢を「コ」と数える習慣などなかった時代
があったことから説明しないと彼らは理解できません。それほど
昔ではなく、90年代初頭は一般的ではありませんでした。
言葉は年齢と共に変化します。小学生が「ばぶー」といわない
ように、社会人がいつまでも「学生言葉」を使うのはいただけま
せん。しかし、それは「コ」に表れるように学生言葉が継続され
ます。
コの普及に一役買ったのが携帯電話とみています。
年齢を個数で表すのは学生の言葉で、この表現が広まり始めた
当初の90年代中期には大人にたしなめられていた風景をよく
見かけたものです。
幼稚園から小学校、中学校から高校、大学、社会人と時間を
経て環境が変わることで「言葉」は変化する・・・ものでした。
「自分」を「名前」で称する時代から、「ぼく」「わたし」に
なり「俺」、そして「わたくし」と。朱に交わったからか、
郷にはいったかは分かりませんが、環境の変化が言葉を変えて
いったのです。
かつて「固定電話」が個人的な情報伝達の主役だった時代は
生活環境が変われば連絡を取ることは難しくなり、次第に距離
が生まれ、反対に今置かれている環境に馴染むよう努力しました。
ところが携帯電話の普及により、いつでもどこでも「連絡」が
とれるようになりました。高校生になっても「地元の友達」と
遊ぶ頻度は高く、社会人になっても「学生時代の友人」とつる
むことができ、最近ではこれにミクシィやツイッターが拍車を
かけます。
そして「コ」からの脱却するチャンスを見逃して一般化した
と説明しなければ、「コ」で事足りている世代は理解しません。
平たく言えば「知らない」ことが多すぎるのです。
もっとも中学生なら「当たり前」で、それを説明するのが
年長者の仕事と噛みしめております。