甥がわが家に来て20日。少し痩せました。
早起きは元々ですが、土日祝日関係なく早起きすることが、彼に
とっては重要で、もちろん本人は不満たらたらですが、それはたん
に勉強うんぬんではなく、彼の人生にとってのウェイトが大きく、
いま恨まれ、いや死ぬまで恨まれたとしても、生活習慣を身につけ
させるのが先に生まれたものの使命として、早寝早起きをしている
うちに痩せたのですから、結果オーライと笑うしかありません。
そして物書きの悲しい性・・・というか、生来の趣味である
「人間観察」
を堪能して見えてくるものがあります。そのひとつが
「子供はしょせん子供」
個体差が激しいので、すべてとはいいませんが、嘘をつけばばれ、
否定しても表情と「間」が雄弁に事実を述べます。海千山千の社会の
裏と表を歩いてきたおっちゃんに隠し事などできるはずがないのに
するところに「しょせん子供」を見つけます。
ところが昨今、子供を大人扱いする風潮があります。
さまざまな理由があり、家庭の教育方針があるのでしょうが、
ここで前置き短く「マスコミでは言えないこと」を述べます。
「親が楽するため」
もう大人だから。子供にも考えがあって。
そう「リリース」してしまえば親の負担は軽くなります。実際に
放流先で悪さをしたとしても、手元から離れている間は、面倒を見る
ことも監視し続けることもいらず、経験則から来る確率論で判じれば
トラブルを起こさないだろうと、希望的観測を込めて信じます。
それは治安の良い日本では多くの場合は事実となって証明されます。
仮に子供が出会い系サイトで春をひさいでいたとしても、事実と
直面しなければ、親にとってはフィクションに落ち着き、ついてでる
言葉は「うちの子に限って」。
親だって忙しい。それはもちろん。特殊ケースを捉えて、親が楽し
ているという訳ではありません。しかし、親が監督監視しなければ
ならない事例まで、「こども」任せにしていることが増えすぎている
ことへの疑問を呈すのが本旨。楽をすべて否定しませんが、楽しては
ならないところまで楽しているのではないかと。
言論の自由のなくなったネット界では、自分の意にそぐわない意見
や感覚を徹底追求し封殺する動きがあり、それに対して、端的に述べ
れば「つきあってらんない」のでこれは架空の話し。
労働基準法の定めるところによれば夜の10時から朝の5時までは
深夜となり、18才未満の高校生はアルバイトができません。学習塾
の営業時間も概ねこれに準じます。
つまりこれ以降は「こども」は街を歩けない・・・が、まぁ帰宅と
通勤、あるいは通学までの移動時間を考慮しても、前後1時間が
限度であろうということから東京都の
「青少年の健全育成に関する条例」
で午後11時から午前4時までの外出させないように保護者に
求めています。
これは東京都の条例ですが、ここで「そもそも論」。条例に定める
ところでなくとも
「夜は危険」
であることは世界の常識で、深夜に女子供どころか成人男子でも
ひとりで歩くことなど考えられないのがグローバルスタンダードで
かつての日本では当然のことでした。江戸時代なら夜の鷹が獲物を
狙い、辻ではなにかが目的を遂げようと息を潜めたものと時代劇は
語ります。
ところが、いま子供は「もう大人だから」という寛容と自立と
責任逃避のなかで帳(とばり)のおりきった街に放流されています。
そして子供も人間で、人間は環境になれます。はじめて刃物を
手にした緊張を忘れるから、千切りができ、魚を三枚におろせるよう
に、闇夜での深呼吸を怖がらなくなります。
すると日中と同じ行動をするところは「しょせん子供」です。
仲間とたむろっている姿を遠くから見つめる影の存在に気がついて
も「変な奴」がいると小馬鹿にすることはあっても、危険と察知して
その場を離れることはありません。
これも「しょせん子供」です。自分の知っている範囲で安全を判断
するのは人間のそれですが、子供の知っている安全の範囲などたかが
しれており、川俣軍司(1981年)を知らないどころか、秋葉原
の連続殺傷事件でさえ2年前で、子供にとっての2年前とは大人の
20年前に近い感覚で他人事です。
そして刃物を持って近づいてきた不審者に猛ダッシュで逃げる
タイミングを失い悲劇がおこらないとは限りません。
犯人が悪い。その心は私も同じです。基本的にハンムラビ法典に
頷くものですから、厳罰を持って処するを欲するのですが、同時に
思うのです。
「闇夜に危険がいっぱい」
という「そもそも論」を正論好きのマスコミが語らなくなった
理由は何故か。理由をひとつに絞れるほど単純ではありませんが
「深夜番組」
などもその理由でしょう。生活の多様化を理由に、いわゆる深い
時間を「子供はもう寝る時間」としてしまうことで、閉ざされる
視聴率の可能性を回避しているのではないかとは邪推であることを
願います。
話を戻します。しょせん子供なのです。そして、今の子供はかつて
の子供に比べて子供のママでいようとする傾向が顕著で、それは
親がそう望んでいるからという面もありますが、同時に大人もまた
「子供化」しているからという三重苦です。
これは実話です。
夜遊びを繰り返す16才の少女。この日は中間テスト前という
こともあり友人とマクドナルドで試験勉強をしていました。午前
0時まで。店も注意しろよという突っ込みはさておき、翌朝の
ための帰路と途中に友人の家があり、すこしだけ立ち寄りました。
立ち寄る時間ではないだろうという突っ込みはしょせん子供です。
大人の常識を身につけて欲しいと苦言を呈すに留めます。
友人の父親は起きて待っていて、娘の友人である16才の少女を
歓待します。勉強について、人生について、彼女にさまざまな
話しをして、話を聞きます。彼女は友人の父親を「良い人」と
モデルケースに認定し、家にたどり着いたのは午前2時30分。
・・・真っ当な大人なら午前0時の時点で、説教もそこそこに
帰宅を急がせるものです。そもそも、娘の友人とのコミュニケー
ションにも「適切な時間」があることを教えるのが「大人」の
仕事であり責任です。
しかし、彼女の周りには自分のやりたいことを優先させる
「子供のような大人」
しかおらず、話を聞いて諭してくれるというだけで、その
中身や接し方に問題があるという「常識」がないために、
良い人と認識しています。
そもそも子供は子供なのです。子供に大人と同じ待遇を与える
ことは地図の読み方とコンパスの使い方、そして船を漕ぐ体力の
ない船員の船を出航させることと同じです。
社会が子供を大人扱いする裏に、大人の責任回避と、子供の
まま年齢だけ重ねた「こどもおとな」が増えて、子供の危険が
増大しています。