スター誕生とおニャン子クラブが越えた一線

 その昔。
人が一人殺されれば重大ニュースとして連日報じられました。

バラバラ殺人などおきようものなら、ウィークエンダーや、
テレビ三面記事など再現フィルムを交えて、詳細に報じられました。

しかし、それらは昔

「テレビの中のフィクション」

又は、

「異常事態」

として、庶民生活から遠いものとされていたのです。

スイマセン。今日のネタは世代限定になっているかも知れません。

ところが最近では「日常茶飯事」のように猟奇的事件が報じられ
ます。

どうやって切断したか? 遺骸をどう運んだか? 動機は?

・・・異常犯の犯行をつまびらかにする報道が次の犯罪を引き起
こしていることに「報道」はまだ気がつかないのでしょうか。

様々な遠因と要因と諸事情が複雑に絡まり合い、そのなかでも
一番影響が深刻なものは

「教育」

でしょうが、こと「テレビ」においては、私は以下の仮説を立て
現在、論証を集めております。趣味として。

「スター誕生とおニャン子クラブが越えた一線」

スター誕生は一世を風靡した「公開オーディション番組」で、
スターを夢見る少年少女が予選を勝ち抜いていく番組で、決勝大会
で芸能事務所のプラカードがあがれば、その事務所が「欲しい」
スター候補生として「合格」となるものでした。

団塊ジュニア以前の世代にとっては説明不要の番組ですが、
詳しくはウィキペディアをご覧ください。

■ウィキペディア「スター誕生」
http://kat.cc/154e9b

この時、「芸」を魅せるという意識の高かったプロフェッショナル
からは

「譜面も読めない素人」

のオーディションへの批判が沸き起こりました。

が、しかし、時代背景は高度経済成長も一段落し、イデオロギー
闘争も終わりを迎え、団塊世代が社会に登場して中核を担うように
なってきていました。

「特別な才能を持った人の芸」

よりも

「普通の素人がスターとなる」

は自己実現欲求を満たしてくれました。
戦後民主主義は「平等」を国是のように語っていたことと
シンクロします。

特別な才能による芸より「隣のミヨちゃん」は、平等社会の象徴の
ように映ったのでしょう。
もちろん、埋もれていたかもしれない

「特別な才能」

が発掘されることもありました。

「○○さんちのキョウコちゃんが予選受けたんだって」
「6組のサトウがヨミウリホールに行った」

という事実と噂とデマが、より番組を身近に感じさせました。

「あわよくば」と野心と妄想を掲げた少年少女は多かったものです。

スター誕生によりお茶の間とブラウン管の向こう側が繋がりま
した。

それまではプロの芸と、庶民の茶の間として境界線がかっきりと
引かれていたものが、ずぶの素人の一挙手一投足が映し出される
ことにより、テレビから茶の間が垣間見えるようになったのです。

素人参加番組はそれまでにもありましたが、あくまで立ち位置は

「素人」

でしたが、スター誕生は

「素人がスターに」

と、階段を駆け上がる様を国民が「視聴体験」したのです。

80年代の前半の「アイドル黄金期」を生み出したのは、
スター誕生といっても過言ではないでしょう。

番組終了から2年後に始まったのが

「夕焼けニャンニャン」

で、この番組から生まれたアイドルユニットが

「おニャン子クラブ」

です。
こちらは土曜深夜の「オールナイトフジ」の、素人女子大生集団

「オールナイターズ」

の女子高生版としてうまれました。
余談ですが、この番組のパイロット版

「オールナイトフジ女子高生スペシャル」

の司会はCMでブレイクしたばかりの「斉藤由貴」さんでした。
番組の内容は覚えていません。斉藤さんだけを見ていましたので。

■ウィキペディア「おニャン子クラブ」
http://kat.cc/1581cd

当時の男子中高生にとってはガンダムと並んで、大脳皮質に特設
コーナーが作られていたといっても過言ではない伝説のアイドルで
すが、まぁ「モーニング娘。」などのムーブメントしか知らない世
代がみると悲惨なほどに

「ずぶの素人」

の集まりという演出がされていました。
実際には本当の素人は多くなく、芸能事務所の息のかかった

「タレント予備軍」

が多かったのですが、リビドーの固まりで思慮の浅い中高生は

「クラスメイト」

がテレビにでている感覚です。
これは男子だけではなく

「アイドルを夢見る女子中高生」

にとっても「私でも」という思いにさせました。
ごく一部の方にしか分からないでしょうが、

「白石麻子より樹原亜紀」

人気が女子の中で高かったのはこの「私でも」という心理から
といえるでしょう。

分かりやすくいうなら

「女性がいう女友達の可愛いは大抵はずれ」

というところでしょうか。
私は樹原亜紀さんのキャラクターが大好きでしたが。

おニャン子クラブの登場はブラウン管の向こう側と茶の間に
段差がないと錯覚させました。

テレビへの視聴者の意識が虚像から実像へとシフトしたのです。

そして同時にプラザ合意を経て、日本はバブルへと突入します。

テレビの中は、豪華絢爛な衣裳や、手が届かない高価な
アクセサリーを身につけていたはずが、おニャン子クラブは
パステルカラーを基調とした

「セーラーズ」

という庶民でも手が届く「ブランドもの」でブラウン管の中を
楽しげにはね回ります。

向こう側で国生さゆりさんが身につけている「衣裳」とまったく
同じものをこちら側で着ることができます。

実は段差は現実的にはあり、その段差は今でも現実に存在して
いますが、

「フラットになった錯覚」

が国民的意識に根付いてしまったのです。
ここら辺は

「ブロガーとギャラをもらえる作家」

との間で、現在進行形でおこっていることです。

その後の「オーディション系」「番組企画系」などはこの錯覚を
どんどん加速させていきました。

「モーニング娘。」は、「電波少年」的要素を取り入れた点が
斬新でしたが、基本は同じですのでエポックメイキングとしては
除外した方がよいという認識です。

テレビの向こう側とお茶の間のフラット化が芸能の世界だけで
あれば良かったのですが、ここに「平等意識」が絡むと

「テレビから流されるものは全て『あり』」

と混同します。ニュースの丸飲みで報道されることは既知体験
となります。

そしてある時、ある不運と憎悪が重なり

「人殺し」

になりました。
死体を隠そうとしますが重くて運べません。

すると

「運びやすくするためにバラバラにした」

というニュースを思い出します。

普通の人にとっては死体をノコギリで切り刻むなどという
行為は理解の範囲を超えていますが、

「殺人をするほどの異常な精神状態」

の殺人者にとっては、今目の前の課題をクリアすることしか
興味がありません。

そしてその異常な行為は

「テレビの向こう側で誰かがもうやっている行為」

ですから、心の何処かに「安心感」や「連帯感」が生まれます。

変な話しですが、

「自分だけじゃない」

のです。

猟奇的な異常犯罪が

「確率変動大連ちゃん状態」

でおこっている背景に、

「犯罪マニュアルのように詳細な犯罪手法報道」

があるのではないでしょうか。

そして、この件に触れたくなかったのは私の良識として。

ネット社会もフラット化へ向けて驀進中で、このことを綴った

「文章」

が保存されるということはその異常犯罪を既知体験にさせて
しまう危険性があるので。

それではこのフラット社会の中での特効薬はというと

「教育」

しかありません。
それもゆとり教育云々ではなく

「よそはよそ、うちはうち」

という戒律です。テレビの向こう側もネットの向こう側も
それぞれの諸事情で動いていて、良いとこ取りはできず、また
世の中は平等なことのほうが少ないのだよという当たり前の教
えです。

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