ボブ・ディランの「ノーベル文学賞」受賞を、脳科学者を自称する茂木健一郎師が絶賛。賞を与えた委員会を上から目線で称えます。なお師とは、炎上芸で局所的に話題を振りまく「イケダハヤト師」と同レベルという尊称です。
3年前にはノーベル賞を有り難がる日本人を「田舎くせえ」と揶揄していた茂木師。さすがシールズを絶賛する青臭さというか愚かさが透けて見えます。
受賞に接し、ディランに特別の感慨のない私ながら、大袈裟に言えばギリシャ時代の詩人への懐古であり、選考委員会の大衆迎合であり、それは「芸術」という分野においては妥当だろうね、と妻に語りました。
「芸術」とはパトロンが支えるもの。
かつては王侯貴族により支えられ、いまは大衆の支持が支えるもの。ならば、ポピュラーソングの生き神様が選ばれるのは妥当だろうと。
ノーベル賞の権威を否定する茂木健一郎師ほど傲慢ではありませんが、ノーベル賞の白人優越主義は明らかで、だから日本人科学者、日本出身科学者の受賞には喜びひとしおなれど、どこかで毛唐の賞だろうと、鼻白む私はただの天の邪鬼でしょう。
先週の「Newsweek(2016年10月25日号)」もボブ・ディランを特集し、各界の識者のコメントを紹介しています。シェークスピアに例える人もいれば、ホメロスなんかは私の感想と同じくですが、作家のアービン・ウェルシュはディランのファンと断った上で、
《ボケて意味不明のことをまくし立てるヒッピーたちの臭い前立腺からもぎ取られた浅はかな懐古趣味の賞だ》
と痛烈に批判します。ボケてというのはヒッピームーブメントのドラッグとかけているかと思われますが、権威を得たかつてのヒッピーが、自らの青春をディランに重ねての自画自賛、そんなところでしょうか。
これは芸能の世界ではよくあることで、最近、なにかと話題の、電通あたりが執拗にしかけている「ラップブーム(?)」も、若き日にラップにはまった世代が、現場を仕切る立場になっての懐古趣味という見立もあり、かつて牧瀬里穂&稲垣吾郎のダブル主演の月9「二十歳の約束」の主題歌に佐野元春「約束の橋」が使われたのも、佐野の「つまらない大人になりたくない」というアジテーションに痺れた少年が、つまらない大人になっての懐古趣味だと、当時のテレビガイドかなにかで解説されていたようにです。
いま、を生きるなら、己の青春を引き合いにだすべきではなく、いまも進化を続けるディランを真に愛するのならば、すでに権威であるノーベル賞など与えるべきではない、と言いたいのかも知れません。ホメロスに重ねることもまた、悠久の時を挟んだ「懐古主義」ではないかと。
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞に異論を挟むものではありません。しかし、微かな違和感を覚えていたのは事実です。この答えを「Newsweek(同)」に見つけます。
批評家スティーブン・メトカフは、ボブ・ディランがいなければ「ラブ・ミー・ドゥ」後のジョン・レノンはなく、ブルース・スプリングスティーンの世界観も生まれなかったと、功績を充分に確認した上で、さらには自分は間違っていると宣言した上で、こう指摘します。
《文学とは静かに自分に向けて読むものだ。静寂と孤独は読書と不可分の関係にある。読書こそ文学に向かう唯一の道である。(略)読書するとき、人はめったにない孤独を体験する。そして孤独は知らしめる。あなたが存在している、ということを。》
メトカフが指摘するのは、活版印刷が生まれて以降、読書が変わり文学が生まれ、ならば音楽が不可分のディランは「文学」というカテゴリーに押し込めることは間違っているのではないか。
ディランが大好きなんでしょうね。そして読書は自分との対峙との指摘に頷きます。