左利きの野放しと未来からの復讐

 過去を否定するものは、未来に復讐される。朝日新聞の現状を表しているかのようですが、さにあらず。「左利き」への考察です。

 ちょうど20年前になりますが『左利きは危険がいっぱい』という本を読みました。帯には

「左利きは9年も寿命が短い なぜか?」

 とあることを、アマゾンで調べ思い出しました。

 書棚にないので、結婚を機に捨てたのでしょう。それは妻が左利きだからです。寿命が短くなると帯にあるような本は、新婚家庭に不似合いです。

 当時はフリーターから社会人へのリハビリ中で、文章を読む習慣を失っており、細部まで精査して読んだ記憶はまるでないのですが、社会の様々な装置や仕組みが、右利き向けに設計されており、日常生活でストレスが蓄積されていくというような指摘に、妻を大切にせねばと思ったような思わなかったような。

 一読して「左利き」を真似してみました。確かに扉の開閉ひとつとっても、「右利き用」にできており、「慣れ」を差し引いても不便だと確認したものです。

 あれから20年。いま、左利きの暴走が止まりません。社会的認知を得たというべきでしょうか。それはそれでも構わないのですが、その先に待つのは未来からの復讐です。

 利き手による区別差別を論じるつもりはありませんし、そんな気持ちがあるのなら、左利きの妻と結婚などしていないでしょうし、声高に叫ぶのは野暮ですが、過去につき合った・・・語弊があるので訂正。コホン。結婚前にお付き合いした女性の多くが左利きでした。

 利き手で人種を区別するなら、むしろ感じるのは愛情。もちろん、恋愛の条件に利き手の左右を挙げたことなどありません。

 妻は理髪師の国家資格を持ち、かつては床屋で働いていました。だから左利きが差別、というか区別されるのは日常的で、左でハサミを持つ彼女を拒否する客もいたといいます。

 では可哀想かといえば、先生や師匠の技術を盗む際、向き合って覚えることができたのは便利だったとニヤリと笑います。右利き同士では、振り返りつつ覚えなければならない技術を、正面から「自分なり」に真似すれば、その通りになったからです。

 有利不利の問題で言えば、右利き、左利きを気にするような客は、神経質で面倒なことが多く、むしろラッキーだったと笑います。

 ある女性は厨房にはいり、板前の真似事をしていました。丁寧に教えてくれる先輩には、やはり妻と同じ状態で学ぶことができましたが、「目で盗む」場合は、それなりに大変だったと言います。

 その女性が我が家を訊ね、料理を作ってくれるというときは、包丁を研ぎ「両刃」に近づけたものです。包丁の右面だけ角度がついた「片刃」は、左利きには使いづらいのです。

 いま、我が家の包丁のすべてが、右利き用の「片刃」であるのは、右利きの横暴でも、亭主関白だからでもありません。料理の99%は私が作るからで、その私の好みが右利き用の片刃だからです。

 余談ついでに言えば、友人や知人にも左利きが多く、血液型では気の合う人にAB型は多く、血液型占いを一切信用しなくなったのは、私が相性の悪いとされるO型であり、同時に

「B型だから」

 を免罪符代わりに、人生を反省しなかった亡姉のふるまいによります。罪深いですよ。血液型占いを考えた奴は。自省のチャンスをひとつ奪っているのですから。

 先日、高橋由伸氏が、巨人軍の監督に就任しましたが、物心ついたときのスーパースターは王貞治(童心に返り、あえて呼び捨て)で、彼をモチーフにしたピンク・レディーの『サウスポー』は空前のヒットを飛ばし、女子はもちろん、男子(幼児)の私も真似させられました。一学年上の姉に強制され(姉がミーちゃん、私がケイちゃん役)。

 ボクシングなどもそうですし、サッカーでも中村俊輔に代表されるレフティは格好良く、端的に言えば「左利き」への憧れは少なくありません。

 そんな私ですが、どうしても左利きに違和感を覚えるのが「お箸」です。

 例えばお笑い芸人や、タレント、コメンテーターなる人種らが、左利きで食事をしていても、その人物の証明であり、多くの場合は、さもありなんと頷くだけ、「育ち」が見えるに過ぎません。

 育ちと語れば、差別だと格差だと喧しいのですが、社会人になるまで私自身、普通の箸の持ち方がやっとで、中学生の頃など、保育園で厳しく躾けられた妹に負けるほど、無惨な箸使いでした。

 社会人になってからのある日、美しい箸使いの、その人が誰かは失念したほど、ある食事会(飲み会)の席での、箸使いに見惚れ感動し、自主練を繰り返し恥ずかしくない程度には使えるようになりました。だから、言えるのですが、大人になってからの箸の持ち方は、育ちではなくその人の価値観です。

 箸を「喰う」ための手段とみるか、「箸使い」はマナーであり、それが人品骨柄を表すと考えるのかの違いです。

 左利きで且つ奇異な箸使いの同僚がいました。彼は言います。

「利き手じゃない方で箸を使うのは難しい」

 そんなものかと、自宅で練習しました。紙皿に並べたバターピーナッツを左手で箸を持ち、それをつまみにウィスキーを飲む訓練です。

 酒飲みの欲望の圧勝です。1週間もすれば、不便なく食べられるようになり、いまでも普通の食事ならできます(麺だけは不可。箸使いは問題ないのですが、スープを振り落とす所作が苦手です)。

 左で箸が使えるようになって便利だったことは、右手を怪我しても食事が苦にならなくなったことと、宴会などで、右で食事がしづらいほど、座が乱れているときでも、すっと左でおつまみをとれることでしょうか。

 また、左利きが有利といわれていたのが、キーボードの「ブラインドタッチ」。記号も含め複雑な動作は右手に集中しますが、テンキーのないキーボードでは、1〜5までの数字は左手の出番で、日本語の名前を打つ場合、頻出する母音のAは左手の小指の仕事です。

 これも練習で克服します。新人研修の6週間(バブル期なので余裕がありました)の間に、同期のなかでは、ピアノ経験者で専門学校を卒業したものの次ぐらいの速度で打てるようになっていました。

 自慢ではなく、余程繊細な作業などでない限り、利き手は絶対条件にならないということです。お箸もブラインドタッチも、空手などの武道における「型」と同じで、身体的に不可能でない限り、徹底した反復練習により、左右のどちらもそれなりに動かすことができるようになるものです。

 なお、ギターは、コードを抑えたりする、早引きをしたりする、(ピック弾きの場合)一見複雑な動きをしている方が「利き手じゃない方」です。

 箸使いに戻します。

 左利きが気になるのはCMやドラマ。

 利発そうでしっかりしていそうな俳優や女優の左箸。

 以前はたまにみかける程度でしたが、いまは頻繁。

 かつてはカメラに写るシーンだけでも差し替えたものですが、いまは野放しです。

 毒舌キャラとして再ブレイクした、坂上忍氏は、子役時代、プロデューサーの石井ふく子氏に右手で箸を使うように指導されたと、ある番組で本人が、本人を目の前にして告白していました。

 また、AKB48で不動のセンターと呼ばれた前田敦子氏が、お茶漬けのCMに出演した当初は「左利き」でしたが、続編から「右利き」になった事例もあります。

 坂上氏や前田嬢が、どちらの手で食事をしても興味がなく、いやならチャンネルを替え、出演作品を見なければ良いだけのことですし。そして気にならない人は、そのままスルーすればよいだけのこと。

 ところが、気がつけばあまりにも「左利き」での食事シーンを見せるドラマやCMが増殖し、バラエティー番組では、

「あれ? 左利き?」

 と同席したMCやタレントが問うことも少なくなりました。

 一般的になったのでしょうか。しかし、古来より右利きの方が多く、英語で右を表す「right」が「正しい」を兼ねるのは、左利きにはイラッとしても、総意は多数が決定するものだからです。

 突然、左利きの数が増えたのなら、生物学的に興味深い現象ですが、すでに「マナー」が崩壊しているのが、理由ではないかというのが私の見立て。

 NHKの朝の連続テレビ小説で、老舗旅館の跡目を継ぐ予定の人物の息子。分かりやすく言うと、大女将からみた曾孫という設定の小学生が、大女将も同席する一家団欒のシーンで、左に箸を握ります。

 反日放送局と揶揄されるNHKの婉曲的社会破壊工作の一環なのかも知れませんが、いちいち老舗を持ち出して、伝統文化を云々する旅館の御曹司が左箸。

 受け継がれたマナーも伝統文化の一翼を担うはず。

 番組名を挙げなかったのは、NHKに限らず、この手の「左利き」が実に増えているからです。昭和の時代なら、そこに「育ち」を反映させたものですが、いまや「良家の子女」の設定でも左箸を確認しています。

 左右だけではありません。「箸使い」は左右のどちらにおいても乱れています。

「いまのご時世」「いつの時代の話をしている」

 そういう反論もあるでしょう。左手で箸を持つことを、取りあげること自体が古いとお叱りを受けるでしょうか。

 古い、から悪いのでしょうか。あるいは食べやすい方で食べることを否定する方がおかしいというのでしょうか。

 こんな主張も耳にしました。

「マナーとは同席者を不快にさせないためのお約束に過ぎず、まわりが不快に思わなければ、利き手の左右は問題にならない。むしろ、それを言うことこそ、左利きへのマナー違反ではないか」

 なるほど、とこれにはさすがに頷けません。個人の権利のみを肥大させた解釈です。

 なぜなら、この説を首肯するなら、食事の席がある度に「事前調査」をしなければ、その食事会におけるドレスコードも含めた「マナー」が決まらなくなってしまるからです。また同席者はもとより、その店を利用する全てのお客の同意を得るなど不可能です。

 なにより理屈をどれだけこねても、裏返せば、「俺様が良ければ良い」という主張は、私にとってはあまりに乱暴に過ぎます。

 「帽子」を被っている客のいる飲食店を、私は極力避けています。「帽子」は室外の埃をまとうもので、コートやジャンバーも同じです。

 着帽を見逃す店とは、その埃を載せた帽子の人物の、トイレなどへの移動を許しているということで、店内に埃を撒き散らかすことを是としているのですから、私は利用しないのです。

 けっして潔癖ではありませんが、同じ金を払っている別の客に、自分の食べ物を埃まみれにさせる趣味がないだけです。ただし「屋台」ならこの限りではありませんが。

 この「マナー」も、いまや古いのかも知れません。すでに「室内帽子」を否定する声を耳にすることは希です。それもあって、外食の機会は年々減っています。金を出してまで不快な思いをするほどマゾではありません。

 左箸は「室内帽子」に比べれば、周囲に迷惑をかけるものではありませんが、マナーとは最大公約数と、歴史的な経緯のコラボレーションで生まれており、いうなれば人類(民族)の叡智のひとつだということです。

 そしてなにより、マナーを知った上で、踏まえた上で、どうしても左で箸を使うというのならば、大人としての人生の選択の一つでしょうが、個性を理由とした正当化はいただけません。

 こんなこともありました。飲み会の席で、食の進まない様子の、友人の友人に、口に合わないのかと訊ねてみたら、

「ゴメン、俺、左でしか箸が上手く使えなくって。(左箸を)嫌な人いるじゃん? だからちょっと遠慮して」

 酒の先は無礼講。文句言う奴は俺がぶっ飛ばすとジャイアン張りの理屈で、刺身を勧めると、利き手の左の箸も不器用で、すかさず店員を呼んで「フォーク」を用意して貰いました。

 刺身をフォークで食べるマナー違反は、その夜限りに彼を「ブラジル帰りの日系三世」とすることで回避します。もちろん、ジョークですが。

 できるに越したことはないとはいえ、マナーという共通認識を理解した上で、できないのと、それを無視することの持つ意味は、全く別のもの。

 「自分が食べやすい」という個人の権利を優先することを是とするなら、その先に待つのは「犬食い」・・・と言いたいところですが、場末のファミレスや、吉野家でも頻繁にみかけるようになり、次は「手づかみ」と思ったら、手づかみを売りにするレストランが米国から輸入されました。

 やっぱりマナーは崩壊しており、右や左だという時代は既に終わりを告げていた・・・のであれば、思うのです。20年も過ぎれば、箸など廃れて

「先割れスプーン」

 で食事をする日本人がスタンダードになっているのではないかと。

 対して「マナー」という概念を理解する国からの訪日客は「箸」が使えるという逆転現象も起こり得ることでしょう。

 そして未来の日本人に責められます。

「どうして箸文化を残さなかったのか」

 と。あるいは

「ジィジやバァバが、ちゃんと伝承しなかったから日本文化が廃れた。外国人に、日本はマナーがない国と馬鹿にされるんだ」と。

 マナーを「過去のもの」と、斟酌もせずに切り捨てるのは、過去の全否定。それは子供への教育へ転写されることは自明で、すると年老いたとき、伝統文化、マナーを教えずに個人の権利の行使のみを教え植え付け育てた子供らが、親孝行などするわけがありません。

「自分」と「いま」だけが大事だと教えられているのですから。

 これが冒頭の「過去を否定するものは、未来に復讐される」の意味。出典があればゴメンナサイ。先日、みかけたレストランでの、親子三世代の家族をみて思いついた言葉です。

 そしてそれは社会制度でも、極度の軍アレルギーなどもみな同じなのだと。

 先進国のなかで、マナーも含めた伝統を、これほどあっさり自ら捨て、さらに否定しているのは日本だけです。

 ま、子に恵まれなかった非国民たる「末代」の我が家が心配することではありませんが。

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