憲法学者と経理のおばちゃんの相似形

 安全保障関連法案に反対するデモが、この日曜日に国会周辺で行われたものの、主催者発表で2万5千人。もはや主催者発表が実数とかけ離れた物であることは、誰もが知るところ。

 と、いうより交通至便な永田町を包囲するデモなら、平日のアフターファイブのほうが、野次馬が集まって、数字を水増し出来るだろうにとは余計なお世話ながら、各種世論調査で必ずしも賛意が多くないながら、反対の声が大きくもならないのは、正直、安保問題について

「わからない」

 という国民が多いからではないでしょうか。だから、アンケートにはネガティブに回答しながらも、具体的に声をあげることにためらいがあると。

 その点から、安倍政権の「説明不足」は非難されて然るべきでしょう。

 いまの標準的日本人は日教組の戦争史観、すなわちGHQの洗脳がばっちり効いており、それは安倍首相自身が唱えた「戦後レジーム」のひとつです。

 徐々に事実との整合性のなさから、違和感を覚える人が増えているとは言え、

「戦争は外交手段」

 といえば、人差し指でこめかみ当たりをクルクル回し露骨に侮蔑し、

「戦前の日本のすべてが悪いわけではない」

 といえば嫌悪感を隠さず、

「戦前の日本の占領政策は、欧米における植民地政策ではない」

 と語り出した刹那、歴史修正主義者と石を投げ出す日本国民をモデルケースとしたときに、やはり、説明不足としか言いようがありません。

 いささか誇張しましたが、戦争を絶対悪として、普遍で誰もが満足する恒久的な平和が存在するという幻想を信じているということです。

 ちなみに、この3点。少しでも歴史と外交を学んだなら、特筆すべき事ではありません。リベラルや左翼でも、個別事例においては認めることも多く、すべてを否定するのは脳内にお花畑がある理想主義者や妄想家か、あるいは日本を卑下することを行動原理においている活動家ぐらいです。

 なお、「戦争は外交手段」というと好戦的な人物と、これまた嫌われることが多いのですが、戦争を回避する為に外交を駆使するものながら、戦争をしないという前提に立つ交渉は、手札を1枚捨てて挑むポーカーです。それではワンペア、ツーペアのような同じ札を集める役しか作れず、最高役が4枚同じ札を揃えるフォーカードに制限されます。

 また、戦争=皆殺しというのも短絡的すぎ。実際に引き金を引かない「威圧」から、核戦争まであるなかで、どこまでやるか、やらないか、敵の殲滅は皆殺しか武装解除かと、どのレベルまでを目標とするのかを含めた駆け引きがあり、だから「外交」なのです。

 ポーカーにおいて最強の役である「ロイヤルストレートフラッシュ」になっていても、駆け引きにおいて「降りる(ドロップ)」ことはあっても、わざわざその可能性を放棄することは愚かだということです。

 だから「永世中立国」を宣言するスイスでも軍備はしっかりともっており、その武装から「ハリネズミ国家」と呼ばれていますし、日本の左翼が騒いでいる「徴兵制」も採用しています。

 そんな中、憲法学者が暴走しています。例の自民党の人選ミスによるオウンゴールをきっかけに、安保法制に違憲と述べるのは学者としての見解としても、倒閣運動まで呼びかけ始めたのです。

 憲法学者の長谷部恭男早大教授と小林節慶大名誉教授による外国人記者クラブでの会見です。

 ま、いいんじゃないの。というのが率直な感想。現政権が気に入らないなら、政権交代を求めるのは健全な民主主義です。

 しかし「学者バカ」とはよくいったもので、あまりの現実の見え無さ加減に笑ってしまいました。傲岸不遜な物言いはさておき、学者の呼びかけで、政局が動くわけがなく、また世論を動かそうにも、自民党の恫喝にびびっている今のテレビ局が、「倒閣」の呼びかけを、そのままオンエアすることは困難。

 学者にできることは問題点を指摘することだけ。決めるのは有権者で、世論をリードする為に、マスコミを利用したいのなら、マスコミを取り巻く状況を冷静に分析する戦略眼が必要で、専門バカとは言葉が悪いながら、専門分野に特化したが故の専門家は、己の庭(得意分野)から一歩足を踏み出すと、使い物にならないことを体現したお二人です。

 左傾のハフィントン・ポストには全文が掲載されていましたが、日刊スポーツのWeb版が発言の要旨をかいつまんでくれているので、こちらを引用します。

“小林氏は「憲法を政治家が無視しようとした時、待てと言うために学者がいる」

■日刊スポーツ
http://www.nikkansports.com/general/news/1492967.html

 「待て」と言うのは自由ですが、強制する権利も資格も理由すら持っていないのが学者です。自分たちを政治家より上位の存在に位置づけているのでしょう。傲岸というか妄想です。アカデミックの世界での権力闘争や多数派工作に勝った勝者だとしても、それは箱庭の戦争に過ぎません。

 学者が政治を動かすなら、政治に近づき洗脳するか、その考えを国民にレクチャーして世論を喚起すべきで、学者ごときに「待て」といわれ、止まる政治家など、むしろ指導者としてイヤです。

 学者ごときとは学問を卑下しているのではありません。これは「政治」を舞台にした話しで、アカデミックの世界の権威とは別の基準があるということです。

 また、学者や評論家など、政治のド素人が政治の中枢に関与して、混乱をきたしたのは民主党政権時代の悪夢で、失敗しても「政治的責任」を負わない学者に政治を任せてはなりません。

 小林節氏の発言は、まるで中小企業で経理を担当するおばちゃんです。お金の出入りを把握し、管理している立場から、己の実力を過大評価して、物言いが偉そうになり、仮払金をまるで自分の金のように渡す「経理のおばちゃん」と同じです。

 憲法という権力者を縛る法律を研究していることから、自らを権力より上に位置づけているのかもしれませんが、それを一般的には「錯覚」と呼びます。

 それでもあえて小林説を正しいとしたとして例えるなら、小林を運動生理学の医学博士と設定し、安倍政権を故障のリスクを抱えながら、試合に出ようとするサッカー選手だとします。

 医学博士の立場から「待て」というのは、職業倫理から発するアドバイスかも知れませんが、それはアドバイスに過ぎません。出場の決断は本人であり、監督であり、チーム事情により決定されます。

 その医学博士が「チームドクター」なら、発言に重みは生まれますが、批判的なポジションにいる人間の話を訊けというのは困難というかトンチキというか「わがまま」でしょう。

 現実を見れば、日本を取り巻く環境の変化については、国民の誰もが感じていることで、中国はもちろん、韓国への国民感情の悪化も、そのひとつです。また、「日本は戦争する国になる」という福島瑞穂ら、左翼のプロパガンダが国民の心に響かないのは、あまりに荒唐無稽な主張だということを理解しているからです。

 同じく左翼の日本共産党が、各種選挙で議席数を伸ばしているのは連中の珍説が浸透しているからではなく、民主党による国家破壊のダメージで、アンチ自民党の受け皿になっているに過ぎません。これも民主党による日本破壊計画の一端だとすれば恐ろしい話しですが、そこまでの計画性も戦略眼もあの党にはあるはずがありません。

 続いてこんな発言が紹介されていました。

“「憲法違反がまかり通ると、憲法に従って政治を行うルールがなくなり、北朝鮮のような国になる。絶対に阻止しなければ」(同)”

 本当に憲法学者としての見識でしょうか。
 高卒ぼんくら中年の私ながら、知っていることがあります。

 金一族による独裁国家である朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はもちろん、共産党による一党支配の独裁国家である中華人民共和国(中国)にしても、それぞれの国の「憲法」に従って運営されているということをです。

 少なくとも「ウィキペディア」による確認では、そうなっていました。もちろん、時の為政者、指導者、独裁者に都合の良い改定が成されていますが。

 そして論理的整合性が破壊されます。つまり、憲法に従う政治と独裁の有無は別の位相にあるということです。

 常識で考えれば当たり前の話し。社会制度が変われば憲法もそれに則し、文化の違いは法律に現れます。憲法に従ったとしても独裁を避けられるわけではありません。ナチス・ドイツを思い出すまでもなく、近代における独裁者は、独裁を国内法において合法化するのです。

 独裁を望むものは小心者で、彼らはいつも怯えています。そこで「賛成多数」という裏付けを求め、形式上でも「合意」を望みます。

 ワンマンオーナーの企業における役員会議において、社長の意向が「満場一致」となるのが常態化しているのとおなじです。

 また、「賛成多数」とは賛成に投じたものを「共犯者」にする効果もあります。そして反対意見の存在は、小心者の独裁者の不安の種となるので、反対意見そのものが存在できないような仕組みを、制度上と心理的プレッシャーからつくるのです。

 つまり、憲法に違反するからと独裁者が生まれるのではなく、独裁者は憲法すら意のままに改訂するのであって、むしろ「違憲」のようなあやふやな状態で危ぶまれるのは「法治国家」としての根幹です。

 安倍=独裁という左翼の主張を下敷きにしているという馬脚が見えてきます。憲法学者が法律の専門家なら、根拠のないレッテル貼りではなく、「法」という得意分野で正論を展開するほうが、原則好きな日本人の心に響くのですが。これも世間知らずでありながら、自分は偉い、自分だけは正しいと思い込んでいる「学者バカ」の限界です。

 一方で、政治に関係しているもの、おもに社民党や日本共産党、そのどちらかに親しい民主党議員らには、安倍首相を独裁者と位置付け、だから彼の都合の良いように変更するための「憲法改正」に反対するという主張もあります。しかし、むしろ現在の制度こそ、「独裁」を許す仕組みになる気がしてなりません。

 現在の日本国憲法を改定するには、提案にあたる「発議」について、衆参両院それぞれで、国会議員の3分の2の賛成が必要となります。無事に「発議」にいたって「国民投票」にかけられ、有効投票数の過半数で改定されます。

 まず国会議員の3分の2の賛成とは、とても厳しい条件で、国政選挙で圧勝し続けている現在の安倍政権でも実現困難です。

 これを恐ろしいと感じるのは、3分の2の賛成を得るほど、国会議員が「一方向」に向かっているときに、国民投票が実施され、憲法が変わる可能性が高いということです。

 あえて踏み込めば「国民的熱狂」や、その反対の「恐怖(パニック)」のときに「改憲」されるとは、まさしく「独裁者」を生み出しやすい世相であることは、ナチスドイツが歴史で証明していることです。

 はたしてそれが「健全」でしょうか。むしろ、国民の信を問う「発議」の用件を下げることで、そのときの「野党」の主張が国民の支持を集める可能性も残され、独裁阻止へと繋がるのではないかと考えるのです。

 日本共産党らは、これを「96条先行改正論」として否定しますが、多様な議論を起こすことが、「発議」のハードルを下げることの意味ではないでしょうか。

 小林氏の発言に続け、長谷部恭男早大教授の言葉を紹介していました。

“「今の法案は日本の安全を危うくする。日本の安全を守りたいなら、ぜひ学者の意見を聞いてほしい」”

 法律についての長谷部氏の見解はわかりました。続く言葉も字面からは間違っていません。

 なぜなら「安全保障を専門とする学者」に訊ねることは有意義だからです。しかし、安全のための意見を求めるのは、どう考えても憲法学者ではありません。

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