御嶽山が噴火しました。自然の驚異をまざまざと見せつけられた思いがします。
犠牲者とその家族にかける言葉が見つからないのですが、こうした自然災害を前に始まるのが「責任追及」です。
特にワイドショーと、出演するコメンテーター達は、自らを正義の側に置くことで、上から目線でしったかぶりを拡散することでギャラを得ているわけですが、さすがに突発的な自然災害への批判は難しく、気象庁が会見で、2週間前から地震活動が活発になっていて、それが噴火の予兆だった可能性があることを認めると、そこに少しだけ噛みついていました。
わたしは「ビッグデータ」なるものを信用していません。一過性のブームというより、それを売りたいIT業界と日経新聞による「バズワード」とみているからです。
しかし、医療と気象についての「ビッグデータ」、すなわち「膨大なデータ」を集めることには大賛成であるのは、いまだに人類はこれらのすべてを解明していないどころか、解明の入口に立ったに過ぎないからです。
例えば薬ひとつとっても、私が子供の頃は「漢方薬」を民間療法とみる風潮がありましたが、いまでは西洋医学でも処方されていますし、「風邪の特効薬ができればノーベル賞」と言われ続けています。
気象も同じです。温暖化を理由とするゲリラ豪雨などは些末なことです。地質学的アプローチから、過去の気温変動は大づかみに解析されてはいます。
しかし、仮に2500年前の東京都足立区舎人で、北部を流れる毛長川が洪水したと古文書にあったとしても、そのときの詳細な気象条件までは特定できません。
古代エジプトやギリシャの石版を辿ったとして、4千年ぐらいはさかのぼれるかも知れませんが、それは「人間が住んでいた地域」の記録に過ぎず、千年単位で見たときの「新興集落」の記録は残されていません。
おおよそ地球の年齢は45億年とされ、海が生まれたのは42〜43億年前。そのとき、「雨」は千年にわたり降り続けたと考えられています。
現在に至るまでに、何度も氷河期を経験してきましたし、異常気象が日常だった時代もありました。
現在を迎え、気候は安定している、とは寿命の短い人間の錯覚に過ぎません。
どれだけ長生きしても、100年ちょっとの人間ひとりが活動しているときに「偶然」、人間が生活しやすい気象条件が続いたのかもしれません。
むしろ、いま長生きできる環境があるのは、科学文明の進歩だけではなく、安定した気候のお陰とみることもできます。
それが明日からも続くとは保証されていませんし、これまで安定していたのなら、不安定になる可能性が高いと考えることもできます。これも実は科学的な発想ではないのですが、丁半博打で丁が続けば半がでやすいのではというアレです。
もっと端的な言葉にすれば、
「分かっていない」
ことの方が多いのです。つまり膨大な情報という意味においての「ビッグデータ」は、役立つかどうか以前に集めなければならないということです。ただし、そこにはコストが発生します。
私がビッグデータを信用しない理由のひとつで、果たして膨大なコストをかけたとして、その費用に見合った効果をだすことは難しい、というより大抵の販促の現場では不可能と考えます。
データ収集コストは、分母に比例して拡大し、データの分析・解析コストも加えれば指数関数的に増加します。つまり、ビッグデータは、データが集まれば集まるほど、コストが嵩む構造になっているのです。
技術開発で解決するという楽観論もありますが、そのとき、ライバルも同じことをしていれば、ビッグデータの優位性は失われ、残されるのはコストへの支払いだけです。
御嶽山の噴火において、公的機関の責任追及が困難となると批判は「予知」へと向かいますが、これまで述べてきたように、予知のための基礎データが不十分です。自然災害におけるデータ収集は、いまだ「ビッグ」と呼べないデータ量だからです。
それは3才児の初恋の相手を特定することは比較的容易でも、白寿を数えた人生の達人の恋愛遍歴を辿るのが困難なように、対象のタイムスパンにより、必要となるデータ量が変わるということです。
地震の予知とて、本来の目的の「予知」ではありません。緊急地震警報が発するのは
「特定の状況下における地震」
だけです。9月16日のお昼休みの地震では、東京では警報がならず、うたた寝をしていたので不確かな記憶ですが、テレビは速報として警告していたのは、すでに揺れた後でした。
また、日常的に警報が鳴らず揺れることは多く、そもそもこの警報や速報も、
「地震が起きた瞬間」
を捉えて、揺れを推定し、揺れが到達したときに、身構えるための刹那を与えるもので、未来予測という意味での「地震予知」ではありません。
噴火の予知も「地震」を追います。マグマが地中を移動する際に、周囲の岩盤を壊していくときの「震動」から予測します。
しかし、「独立行政法人防災科学技術研究所」のホームページにこうあります。
“すでにマグマの通り道(火道)がある場合や、高温のため地震が起こりにくい場所でマグマが移動した場合、地震観測点が近くにない場合などは、地震が観測されないこともあります。
http://vivaweb2.bosai.go.jp/viva/v_explain.html”
専門家ではないので、的外れかも知れませんが、地中にあった空洞の下にマグマが走り、そこに地下水が流れ込み、熱せられた水は蒸発し、空洞の許容量の限界に到達して爆発したならば、事前の地震は起こりません。
TBS「ひるおび」の説明では、地下水にマグマが近づき、水が沸騰し以下同文とのことでした。
それよりも重要な指摘は「地震観測点が近くにない場合」です。
同ページにも説明のためのイラストがあり、そこでの計測装置は火山において、一定の存在感を示しています。仮にイラストにおける火山を、富士山級の3000mとすれば、地震計の大きさは、縦横500mはある巨大施設となるほどです。
これはデフォルメというか、便宜上のことで、巨大な「山」に対してみれば、観測装置は塵芥の類です。
ゾウを山とすれば、観測装置はアリやノミ。
観測精度を上げるためには、ゾウの表面を覆い尽くすアリの大群が必要となり、計測装置を同様に配置するためには膨大な費用が必要です。
日本には活火山が110あります。昭和の時代、休火山とされていた富士山が活火山となったのは、1万年以内の噴火まで定義に含めたからで、そこからも火山を観測するタイムスパンが分かるというものです。
スキー場で名高い「乗鞍岳」も活火山で、「蔵王山」も同じくです。と、いうより「温泉」で有名な地域の大半は火山の側です。
予知の精度を高めるためには、そのすべてを網羅する数の計測装置と、観測する人員の確保が必要となり、その費用を誰がするというのでしょうか。
噴火予知について、民主党政権時代の「事業仕分け」と、そこで大活躍した「勝間和代」氏が、ネットで晒し者になっています。
「大規模噴火は数千年に1度なのに24時間の監視が必要か」
と、仕分けでの発言から、
「この仕分けがなければ、今回の被害は防げたのではないか」
という批判がネットで炎上しています。
しかし「事業仕分け」という「政治ショー」の醜悪さは脇に置けば、この批判はさすがに無理筋です。
いわゆる「事業仕分け」で御嶽山が、火山監視の対象から外されたとするのは事実誤認だからです。
勝間和代氏は自身のサイトにおいて、彼女の所属事務所の代表を勤める経済評論家の上念司氏の名義で、以下のように発言趣旨を釈明します。
“火山の噴火を人工的に止める手段がない上、いくら精密に監視をしても噴火を100%予測することは不可能である以上、噴火による被害を減らすために、産学連携などで噴火予測により効果的な費用配賦方法があるのではないかという問題提起です。この点をぜひ誤解なきようにお願いいたします。
http://www.katsumaweb.com/news.php?id=1902
勝間和代オフィシャルサイトより
”
う〜ん。苦しい。上念司氏は「保守」の側での発言が多かったのですが、なんだか左のそれというか、朝日新聞と同じ匂いを感じてしまいます。
YouTubeに一連のやり取りが公開されていたので見てみます。
問題提起というより、吊し上げです。
ここでの勝間和代氏の発言要旨はこんな感じ。
“素人のアタイにわかるように説明しろよゴルァ”
揚げ足取りというか、「論破」を目指していることは明らかで、やり込めてさらに名を高めようという野望の有無は存じ上げませんが、斜に構えた姿は出入りのヤクザが長ドスを構えるように攻撃機会をうかがっており、ときおりみせる上目遣いは媚びの対極にある臨戦態勢です。
ふんぞり返ってみせ、小馬鹿にした笑みを浮かべ、とても態度は宜しくなく、チラ見した程度なら、勝間和代の発言趣旨をくみ取れない側に同情してしまうほどです。
先の「釈明」は後出しなので理路整然となっていますが、実際のやり取りでは
“300年間で9回の小規模の爆発で、それも水蒸気爆発なのに24時間観察しなければならないのか?
(同動画より要約)”
水蒸気爆発の危険性も知らないで、予算を仕分ける傲慢さが透けて見えます。粉塵でも水蒸気でも「爆発」が怖いのは、その場にある物質を飛散させることにあり、爆心地と自分との間にいる人間が凶器に化けることだってあるのです。
それに対して気象庁の専門家は冷静に回答し、むしろ「論破」された格好です。これが悔しかったのでしょう。
“300年で9回の小規模な水蒸気噴火しかなく、大規模な噴火は数千年前にあったと「言われている(スタッカートで強調)」ぐらいの記録しかないんですけれども、それでもやっぱり100年間のうちに、その噴火する確率(は:?聞き取れず)非常に24時間監視をしないほど高いという理解を非専門家の私たちもしなければいけないんでしょうか?”
可能な限り書き起こしましたが、とても「フレームワーク思考」を啓蒙する方の発言でないのが残念です。
300年で9回とは33年に1回。それがすべて小規模だったとして、次からも小規模と信じた議論を是とするなら、ルーレットは永遠に赤がでつづけることでしょう。
繰り返しになりますが、地球のタイムスパンでみれば300年に9回は「しょっちゅう」のレベルで、小規模が繰り返されたのは偶然に過ぎません。
勝間和代氏が火山に対して無知であるのは一向に構いませんが、
「非専門家の私たちも」
というのが論外。自然現象は専門家と非専門家を分け隔てなどしません。予算執行の適正性を問うのが目的なら、具体的事例を指摘なければならないはずが、非専門家が専門家の見解に従うべきかとの問いかけは、
「先生の授業を信じろというのか?」
と反論する児童レベルのいちゃもんです。わたしが気象庁の説明員ならこう切り返したことでしょう。
「非専門家なら専門家の指摘に従ってください」
勝間和代により御嶽山の監視装置が外されたという事実もなく、事業仕分け(正しくは行政事業レビュー)でそれを迫った事実も映像からは確認できませんでした。
だから騒動そのものは、まさに「流れ弾」です。
だから流れ弾にご愁傷様と手を合わせるも、そこにノコノコでていって、民主党の書いたシナリオを演じた粗忽さに責を求めるのは残酷すぎるのかも知れませんが、上念司氏の署名入り釈明コンテンツの回りくどさにモヤモヤ感が否めません。
それは「潔さ」の欠如で、最近の「保守」に見られる違和感をここにも見つけます。
釈明の締めくくりにこうあります。
“登山者への噴火被害をゼロにするためには、完璧な噴火予測を追い求めるより、より厳しい入山規制などソフト面での対応こそが重要であると思われます。前掲の勝間の発言はこれらの論点を踏まえた上での発言です。(同)”
少なくとも勝間和代氏から、そのような趣旨があるとは、YouTubeに残された映像からは確認できませんでしたがね。
事実無根ならそう述べれば良いだけですし、YouTubeで公開されている映像がある限り、言葉のやり取りも明らかで、事実関係もその通りです。
先の「釈明」がやっぱり「残念」であるのは、説明に論理のすり替えが目立ち、その様が「朝日新聞」だからです。これが「左翼」や「リベラル」の活動家の名前で発せられていたら「やっぱり」としか感じないのでしょうが。
ちなみに先の映像は1時間ほどあり、全て見るのは大変ですが、4分ちょっとのダイジェスト版もアップロードされていました。
勝間和代、民主党政権時代の事業仕分けが話題に【御嶽山噴火】
とはいえ、勝間和代の非専門家の視点と、事業仕分けからの結論は、東日本大震災、そして今回の御嶽山の噴火と、伴う犠牲を前に、再び議論されるべきと考えます。
震災前とはいえ、勝間氏は300年という時間単位を「長い」と感じていた節があります。同じく事業仕分けで話題となった「スーパー堤防」は200年に1度の水害の対策に、400年かける事業を蓮舫がストップをかけようとしていました。
そして1000年に一度の震災を経て、御嶽山が爆発します。
防災を考える際、どこまでが「行政」の責任となるのか。
1000年なのか、10年なのか。
これこそが
「財政健全化のための更なる消費増税」
のまえに求められる「国民的同意」なのではないでしょうか。
人の命はお金では買えませんし、代えられるものではありません。しかし、そのための予知には、お金の問題が必ず発生し、「無駄な予算を削る」という「事業仕分け」のスローガンに頷く国民も多かったことでしょうし、スローガンそのものは間違ってはいません。
しかし、その「無駄」とは何か?
今月号の「WiLL(2014年11月号)」の曽野綾子ちゃんの連載を引きます。少々長いですが、尊敬する彼女の文章を要約する僭越さは持ち合わせていないのでご容赦願いします。
“(前略)砂嵐がいつ来るか、誰も天気予報で教えてくれたりしない。と言ったら、いつか若い人が、「どうして天気予報がないんですか?」と聞いた。
天気予報を人々に伝えるためには、まず最低そこに住んでいる人が要る。人が住まない土地で天気予報をしたって誰も聞かないからだ。しかも天気予報をするのに、複数の地点に観測のための設備が要る。それらすべて電気で動く。電気もなく、人も住まない、そんな空間に誰も金を掛けて、そんな設備を作らない、ということを理解することのできない人がいるようになったのだ。
■WiLL 2014年11月号 121ページより
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=B00NJ13G6M
”
このまま引き続けると盗作レベルになるので、僭越をしてしまいますが、この若い人は、コンビニで乾電池を買えば良いと反論を試みますが、そもそも砂嵐が吹く砂漠に店はありませんとぴしゃり。
「コンビニ一軒建てたら・・・」と食い下がる若者に、「あなたが建てたら?」と問いかけると言葉を濁しました。
“あまりうまそうに見えない話しは、人がやればいいが自分はイヤなのである。(同122ページ)”
と結びます。火山の完璧な予知を求める声に重なります。
流れ弾ついでにご登場ねがいますが、先の「事業仕分け」で勝間和代氏は、予知のための計測にかかる費用を、「ベンチマーク」という単語を用いて外国との比較で求めました。
これについて気象庁は、金額としての比較データをもっておらず、費用の検証という一点において、勝間氏の追究は意味を為したでしょう。しかし、
「火山の側に人が近づくか否かは国の方針で異なる(意訳)」
と気象庁が説明したように、山岳信仰と温泉という、日本人の生活様式を加味した上でなければ、国民の利益という視点からの費用対効果は測れません。
ベンチマークにおいて重要なことは、評価の基準を明確にすること、そして公平に実施されることです。
「無駄」の基準、噴火頻度、被害想定などなど。
基準を定義せず、「ベンチマーク」を求める姿に、コンビニを求める若者を見つけました。それは勝間氏だけではなく、日本人全体に言えることではないでしょうか。もちろん、自省を込めて。
最後になりましたが、民主党がむきになり否定しているのも、勝間和代氏の一件で、これについても「誤報」であり、民主党は本件に直接の関与はありません。だからといって、事業仕分けが免罪されることはありませんがね。