キチガイの喪失とありのままの自分による猟奇的殺人

 創刊間もなく(たしか5号だか7号)から3年近く、『月刊ムー』を愛読しつつ、全冊をストックしていた私としては、失われた古代文明なるものに多大の興味があり、与那国島の海底遺跡は、ムー大陸の所在を証明する痕跡と声高に叫びたい気持ちはアリアリながらも、声高に主張しないのは、キチガイと呼ばれるのを避けるためです。

 かつて「キチガイ」という言葉がありました。いまでは佐高信あたりの左翼が、保守陣営の攻撃に使うぐらいしか見かけなくなりましたが、確かにあったのです。

※本稿では「キチガイ」を多用しますので、どうしても気になる方は、今回はパスされるか、本文をコピペして「キチガイ」を別のキーワードに置換していただけると幸いです。

 キチガイとは何か。

 あらかじめ断っておきますが、知的障害という個性を持つ人や、発達障害を指す意図はありません。精神疾患の一部の症状とは重複しますが、本稿においては常軌を逸した発想や思想を持っているだけでなく、大多数が受け入れている社会のルールから逸脱するものを意味します。

 いわゆる先進国の価値観から見たとき、韓国人の「火病(ふぁびょ)」にも重なりもしますが、彼らの国民性なのでこれを指しません。

 当然ながら、多少計算が苦手であったり、言葉が不明瞭であったり、さらにはオンチや運動音痴などの、キャラクターをあげつらうものではなく、社会のルールとの接し方をもって「キチガイ」と本稿では仮定します。

 その「キチガイ」が街中から消えて「キチガイ」が増えたように感じています。

 とくにTwitterでは大量繁殖しています。主に脱原発、反政府色の強い自称ジャーナリスト、事実上の政治活動家なのですが、批判に一貫性がないのはキチガイの特徴です。

 本人特定とは、日常生活において戸籍謄本や住民票ではなく、見た目も含めた「一貫性」により担保されます。ところが一方では黒と主張し、別の事例では紫と強弁します。これが「キチガイ」です。

 例えば彼らの多くは、原発事故時の東電の経営者を、検察審査会が起訴相当としたことについて称揚します。

 その大半は、小沢一郎氏が同様に検察審査会に起訴相当とされたとき、推定無罪を掲げ、あるいは検察による横暴だと非難していたのです。また、検察審査会の制度そのものへの暴言も目立ちました。

 あちらはNGで、こちらはOK。まっとうな社会人なら信頼を疑う発言を恥じない人を、かつては「キチガイ」と評したのです。わたしがムー大陸の存在を声高に主張しないのは、ただでさえ少ない信用をなくしたくないからです。

 昭和時代、こうしたいい加減な発言者を、キチガイと評価したとしても、差別することはありませんでした。ただ、まともな大人なら相手にしなくなっただけのことです。いわば「区別」です。

 社会とは信用・信頼の上に成り立っており、特別な信念もなく、この崩壊を怖れず、あるいは信用の定義を、社会通念上のそれではなく、己のその場限りの発言のために弄ぶ種族を「キチガイ」と定義します。

 ところが、いま「キチガイ」という言葉が消え、こうした自称ジャーナリストを評価する術を我々は失ってしまいました。

 「キチガイの死語化」による社会的損失はこれだけではありません。むしろ、被害を拡大させています。

 佐世保の女子高生同級生殺傷、遺体損壊事件です。

 加害者はみごとな「キチガイ」です。成績優秀とあったのなら尚更です。天才とキチガイは紙一重というように。

 先に定義したように、本稿におけるキチガイとは、自分の価値観と社会の常識をすりあわせないものを指します。

 だから「殺してみたかった」を実行してしまったのです。

 本事件において、加害者の父親の責任は重大です。報道を時系列に並べれば「予兆」は数多く、充分に防げる事件だったとあえていいます。

 俗に言う頭の良い子供というのは「死」に興味を持つと言われています。空腹や痛みなどの刺激は、子供ながらも経験からある程度の推測を立てることができます。

 ところが「死」とは想像の限界を超えているのです。平凡な子供なら想像の限界で思考停止します。思考を継続するのが重労働であるのは、ブログや反省文などで、書き出しの1行に苦悶した経験があれば理解できることでしょう。

 その苦行を厭わぬ、または思考停止により脱落できないのが、頭の良い子供なのです。ちなみに幼児の頃から、親や周囲の影響がないのに「ドクロ」が好きな子供は、知能指数が高いという説もあります。

 自分を天才と評するほど傲岸不遜ではありませんが、小学校の頃は、かなりにそれに近いと自負していました。勉強しなくても良い成績を取ることなど簡単でしたし、小学生らしからぬ人生に対するある種の「諦観」があったからです。小学校4年生の頃から、サラ金の督促電話に対し、母親の「居留守」を手伝っていたからでしょう。

 やはり「死」に捕らわれました。ただし、虫も殺せなかった軟弱さが、遙か彼方の究極の真理へと向かわせました。それをひとことで言えばこう。

「宇宙の始まりと終わり、そのとき命は」

 小学校5年生から悩みはじめ、6年生のころには「十円ハゲ」ができるほど悩んだものです。

 この悩みを打ち明けた亡父がこういいます。

「あんまり考えるとキチガイになるぞ」

 これはいまでも妻が眉間に皺を寄せるエピソードですが、さらに幼い幼稚園から小学校低学年頃、父はわたしをこう呼びました。

「言語障害」

 吃音になったり、途中で言葉が止まったりしたことからの表現ですが、振り返るに、思考の早さに、言語能力が追いついていなかったからなのでしょう。

 幼き私を不憫に思い、妻が憤る気持ちはありがたいとは言え、そういう家で育ち、言語障害と呼ばれないために、必死で論理を組み立てる練習をし、発言の直前に口中でリハーサルをしたことが、原稿もなく人前でスピーチできる能力となり、今の仕事に役立っているのですから、差別は悪いことばかりではありません。これも昨今語られることがなくなった人生の真実です。

 キチガイに話を戻します。キチガイとは差別用語というより、侮蔑、侮辱語でした。

 だからそう呼ばれたくないと、必死に「考えていないふり」を身につけ、そうして世間との距離感を覚えていったのです。

 後にキチガイと呼んだ亡父に感謝することになります。二十歳も過ぎた頃でしょうか。こうした世間との距離感をつかみ取る能力が、私は人より劣っていることを自覚したときのことです。

 鈍感というか傲慢というか、他人の評価は気になりますが、それが行動を制限はしません。集団行動が嫌いで、多数派の意見だからという理由で同調などできません。

 性根においてキチガイ体質だと気がついたのです。

 仮に十円ハゲができたときに、父がキチガイと評していなければ、

「ありのままの自分」

 で生き続け、いまごろ社会に迷惑をかける人間になっていたかもしれません。少なくとも、自分は人と違うこと、多数派と相容れない性質があることを自覚したことで、コントロールする術を身につけたのです。普通の人のふりをする技術といってもよいでしょうか。

 ちなみに十円ハゲが解決した理由は、宇宙の真理を悟ったからではなく、究極的に死を怖れる理由とは、自我という思考が停止するからだと気がついたことです。問題解決には至りませんが、人の心とは面白いもので、原因がわかるだけで安心するものです。それがキチガイの死語化により、キチガイを助長させることになっていることについては後ほど。

 そしてこの時に知った、もうひとつ重要な真理は

「人間は全てを理解できない」

 ということです。

 佐世保の加害者に話を戻します。

 仮に「キチガイ」という言葉があったのなら、同級生の給食に洗剤や消毒液をスポイトで混入させ、ネコを殺しては遺体を解剖していた彼女は、そうカテゴライズされていたことでしょう。

 周囲の同級生が警戒するには充分なシグナルです。あるいは加害者が自らにつけられたレッテルを嫌い、社会との距離感を模索したかも知れません。

 究極的に言えば「普通の人」はおらず、統計における平均値が存在するだけですが、それでもキチガイと呼ばれるほど乖離していれば、他人との差異を見つけることは困難ではありません。

 頭の良い子供なら尚更です。普通の人の振りをして過ごすことだって不可能ではありません。どちらを選ぶかは、加害者ですが、少なくとも周囲の罪なき人々へ警鐘を鳴らすことはできます。

 ところが「キチガイ」という言葉の消失が、他人の生命を脅かすことを厭わない異端児を野放しにしました。

 ありのままの自分。自分探し。世界に一つだけの花。これらすべてが、キチガイを助長していることに、加害者に優しい日本人は気づいていません。

 そしてワイドショーは探ろうとします。

「加害者の心の闇」

 キチガイと天才が紙一重と言われるのは異常性において近いからです。夜空の星を見上げ、隣り合う恒星を「近い」と表現するのと同じです。それぞれが何万光年も離れていても、地上にいる普通の人からは同じように見えます。

 しかし、星々の心など普通の人に分かるわけがありません。普通の人に理解できるのは、普通の人の心だけです。それは菅直人の思考回路が理解できないようなものです。

 それなのにワイドショーや報道機関は、加害者の闇に無理矢理迫ろうとします。

 するとキチガイ、及びその予備軍は、自己を正当化する武器を得ます。自分が異常なのではなく、「心の闇」と名付けられた外部要因こそが問題であり、自分は自分のままありのままに、つまりはキチガイのままでいて良いと誤解するのです。

 テレビに登場する普通の人々が、テレビを見ている普通の人々に対して、「心の闇」を解読してみせようとするのは、連中の思い上がりです。科学への傲慢さといって良いでしょう。

 あるいは鳩山由紀夫(バカ)の友愛から

「人は必ずわかり合える」

 と信じているのなら、イスラエルとパレスチナの現実を知らない痴れ者です。あるいは

「人間は全てを理解できない」

 という謙虚さを持たないキチガイです。

 こうして猟奇的な犯罪は、一般市民の方が正確な反応をするものです。街頭インタビューでも、わたしの周囲の調査でも、帰ってきた事件の感想はこうです。

「わからない」

 はい、正解。キチガイのすることを理解するのは困難なのです。

 キチガイという評価があれば一刀両断に下せた結論を、心の闇という言葉で一般化しようとするところに間違いがあるのです。

 そしてキチガイという言葉がなくなったがために、キチガイが野放しにされ、善良なる普通の人が犠牲になる事件が増えています。

 いわゆる「理解しがたい犯行理由」のかなりの割合は「キチガイ」という言葉があれば、抑止あるいは防止できるのです。

 それではキチガイをどうするか。「キチガイ」というレッテルを貼ることにより、自覚を促し更生・・・というか、社会と自分のズレを自覚させなければなりません。

 するとやはり親の責任です。我が子を観察し、どういった属性や資質を持っている子供なのかを見極め、指導し矯正しなければなりません。

「ありのまま」

 で育てた末の結論が今回の事件です。

 この視点に立ったとき、盗人にも三分の理的に加害者に同情するのは、父親の行動です。

 事件発覚からしばらく、弁護士で地元の名士と報じられる加害者父はノーコメントを通しました。一週間が過ぎ、ようやく発言を始めると、発せられるのは自己弁護ばかりです。

 一例を挙げます。

 事件直前に父親が、精神科医に相談し、娘を入院させたいと願い出るも却下され、精神科医のすすめにより児童相談所に相談するも、規定時間を過ぎていると週明け以降の面会になると告げられる。

 後に日曜日にも相談窓口があるので、結果的には事件の翌日、加害者の好きな焼肉を食べにいこうと誘い出して、相談に連れて行く予定だった。

 また、ひとり暮らしさせたのも、金属バットによる殴打などがあり、父親のみの危険を案じた医者の奨めだった。

 ・・・断片的に伝わる情報を総合するとこんな感じ。ついでに書面で発表した謝罪にはこんな一節もありました。

“複数の病院の助言に従いながら夫婦で最大限のことをしてきたが、私の力が及ばず、誠に残念”

 さすが弁護士というか、ズルイというか。なぜか? すべて医師の奨めに従っている、つまり刑法犯でいえば主犯ではないと主張している自己弁護です。

 仮にこれが事実だとしても、最終判断を下すのは保護者である父親という視点を、これらの「説明」に見つけることは困難です。

 そもそも、精神科医、心療内科医には守秘義務がアリ、診療時の患者との会話を公開することはできません。また、ニュアンスの違い程度のことなら、あるいはプライバシーに関するやり取りについては、患者が「嘘」をついていたとしても、治療の妨げになるので否定することはありません。

 つまり、「説明」を見る限り、精神科医が反論しないことを見越した上で、すべての責任を精神科医に押しつけている・・・のではないかと見ることができます。

 そこから見えてくるのは、加害者の父親もまた

「ありのままの自分」

 で生きてきており、そのありのままとは、自分が思い描いた人生しか認めないタイプということです。キチガイとまではいいませんが、常に外部に責任を求め、自分を正当化するタイプの人種です。

 あくまで報道ベースですが、親子であっても傷害事件は成立します。ましてや金属バットで殴打し、一部報道によれば頭蓋骨陥没するほど大怪我しているとあります。

 その子供を「野放し」にすることの危険性を、まさか弁護士が知らないはずがありません。

 しかし、それは父親にとって、受け入れがたい事実でもあります。まさか自分の娘が「キチガイ」だなんて。警察など公権力の介入は、キチガイと認めることであり、それは父親にとって許しがたい辱めだったのでしょう。

 児童相談所の窓口が閉まっていた・・・ことは理由になりません。佐世保の児童相談所は存じませんが、東京都において緊急性の高い事案はいつでも動いてくれますし、警察がその窓口になることもあります。

 繰り返しになりますが弁護士です。我々一般人以上に、その手の情報に明るいはずです。仮にそれを「知らなかった」というのなら、自らに都合の悪い事実に対する思考停止です。

 加害者に同情するとしたのは、この父親、そして亡くなった実母により、自分が社会的にどういう存在か、つまりはキチガイ気質をもっていることを知らされずに、または

「キチガイの才能を伸ばされて」

 育ったと見ることができるからです。

 また、事件直前のカウンセリングへの道すがら、継母に対して加害者は「人を殺してみたい」と告げたというのは、自分の中でどうしようもなく大きく育つ狂気への恐怖からだったのかもしれません。

 これに対して、医師は時間がないからまた今度、とは、これまた加害者父母の発言ですが、本当のカウンセリングの場で、時間切れの打ち切りはちょっと考えづらいものがあります。

 医師と家族、カウンセリングの内容・程度などが公開されていないので、医師を責めることはできませんし、そうした願望を持っている子供をひとりにするのは、殺人鬼を野に放つのと同じで、不幸にも現実になってしまいました。

 キチガイの死語化と、ありのままの自分の肥大化。

 佐世保事件を筆頭に、自分勝手な猟奇的犯罪が増加している本質は、この両者にある気がしてなりません。

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