テレビはどうしてつまらなくなったのか?

いまさらの感も拭えませんが、

「テレビはどうしてつまらなくなったのか?」

甥の中学進級を言祝ぎ、初心にかえる意味も込めての「マスコミでは言えないこと」です。

ネット用語でいうところの「オワコン」。おわったコンテンツの略称でしょうか、とにかく終わったといわれて久しいテレビ。

しかしこれが朝日新聞における、特定秘密保護法を巡るアジテーションと同じであることは昨年の

「あまちゃん」「半沢直樹」

が証明しましたし、通年なら“相棒”が、そして直近では

「笑っていいとも」

により、嘘だと結論がだされました。3月31日、最後の通常放送で視聴率は16%を越え、夜に放送された特別版は、週間視聴率ランキング1位に輝き、瞬間ながら33.4%を記録します。

テレビが「終わった」などと言うのは、一部を見て全体論にあてはめる幼稚な議論で、クラスの出来事が社会の事象のすべてと錯覚する中学生と言うより、砂場という社交場で人生を語る幼稚園児と同じです。

では、面白いのか? と単純な二抗対立に落とし込むのも幼児性の発露です。

「つまらない番組が増えた」

のは事実です。ただし、「オワコン」とまで言われる最大の理由は

「記憶に残る番組が減った」

ということ。

つまらないとは「主観」に過ぎませんが、残念ながらすべての娯楽は「主観」でしか評価できず、むしろ数字に馴染まないことも多いという「当たり前」を置き去りにしたことで、つまらないテレビ番組が増え、記憶に残る番組が減ったのです。

その理由は凡庸ながら「視聴率至上主義」に帰結します。そしてネットがテレビの堕落に拍車をかけています。

昭和時代のテレビ番組のすべてが面白かったわけではありませんが、とりわけ「記憶に残る番組」が多かったとわたしは考えるのです。

なぜか? 娯楽の多様化により、興味の対象が分散し、刺激に麻痺していることもあるでしょうが、なにより「最近のテレビ」に限定したときに「いいとも」がヒントになります。

記憶に残らないのは、生活とリンクしていないから。

いまなお、生活とリンクしているテレビ番組名を挙げれば、理解できることでしょう。

“サザエさん”と“笑点”

このふたつのうちのいずれか、あるいは両方のオープニングテーマ、出演者・キャラクターの声を耳にしたとき、

「日曜日の終わり」

を体感します。どちらも腹を抱えて笑うことは、それほどある番組ではありません。しかし、サザエさんは特に、季節の雑感をリアルタイムにネタにしており、生活とシンクロすることが多く、実生活の記憶と寄り添うのです。

むしろ、面白い、つまらないという議論ではなく、サザエさんという日常がそこにあるということです。先週の週間ランキング4位が笑点、サザエさんが5位である理由のひとつでしょう。

そして「いいとも」もそんな番組のひとつでした。月曜日から金曜日までのお昼、そこにタモリがいたのです。午前と午後に線を引く存在です。

バイト先の休憩室、外回り立ち寄った食堂のテレビで、毎日バカバカしいタモリがありました。それは安心感といっても過言ではなかったのでしょう。

人の記憶のメカニズムは、アクセスログのように正確ではありません。誤認、錯覚は当たり前で、視聴しているときの感情や体験と、番組の印象を重ねることは想定の範囲内です。

昭和時代でいえば

「家族揃ってみていた番組」

は記憶に残るもので、その大半は「楽しい」と彩られていることでしょう。

日本人は「習慣化」を好みます。ハプニングより予定調和を大切にし、ルーチンワークに心の平和を見つけます。

「サザエさん」や「笑点」のように、かならずその時間に放送される番組とは、予定調和であり習慣となり、生活に溶け込んでいきます。そして「記憶」に残りやすくなるのです。

ところが今、テレビ番組は「特番」ばかり。毎週、毎日の視聴者の感覚をテレビ側が切り捨てているのです。新しい設定、新しい企画を押しつけられる視聴者は、仕事帰りに疲れた体で、さらに頭を使うことを強いられます。しかし、視聴者には拒否権が与えられており、

「見ない」

をチョイスします。あるいは同じく「あたま」を使うなら、スマホのゲームに興じ、「ニコ動」で毒を吐きます。

テレビはその最大の顧客属性である「怠惰な視聴者」を追い込んでいるのです。

始まりがあれば終わりがあります。タモリは去りました。余談ながら「タモリ倶楽部」で彼を見つけてホッとしたのは私だけでしょうか。

後番組の「バイキング」など、先の「習慣化」という日本人の民族性を切り捨て、さらに視聴率至上主義から来る劣化の極みです。

「日替わり企画」

はともかく、

「日替わりMC(司会者)」

に追い打ちをかける、属性の異なる

「日替わり出演者」

により、視聴者は毎日、学び直さなければなりません。

というより、一般的にそれを「別番組」と呼びます。

さらに、番組の最後に出演者のひとりが「カラオケ」を歌う馬鹿馬鹿しさは見逃しても、先週木曜日の放送の回で、フットボールアワーの後藤輝基が歌う際に、同局同社の社員、「あやちんこ」こと加藤綾子社員は、

「歌ってくださる」

と後藤を紹介します。演者と観客の意識の区別すら、フジテレビにはありません。その証拠に、この共演者によるカラオケ大会は点数制で、成功得点をとると

「金一封」

がでるとかで、他の企画でもとにかく

「金一封」

で、それなりのギャラを貰っているタレントが、また公共の電波のなかで、さらにカネを支払うとは、どこのアベノミクスでしょうか。これで視聴者の共感が得られる分けがありません。

最近・・・といっても、結構前からですが、新番組に当たり企画より前に出演者を選ぶ傾向にあり、キャスティングの専門家まで存在します。

誰と誰を組ませると話が弾むとか、このタレントは座を盛り上げるのが得意だとかで組み合わせるのですが、そこでも「視聴率」が指標とされます。

タレントひとり一人が持つとされる、「潜在視聴率」と呼ばれる指標で、CMのギャラの算定基準になりますが、新番組のキャスティングでも重視されます。要するに、このタレントと、この女優を組み合わせれば、何パーセントぐらい見込めるという取らぬ狸の皮算用です。

そして「バイキング」はこれの最悪の発露です。最近の番組では多く見られる傾向で、平日お昼の裏番組の「ヒルナンデス」も同じですが、何かと言えば

「出演者が多すぎる」

の一語に尽きます。

端的に言えば

「数を出せばどうにかなる」

という発想。潜在視聴率の足し算です。

そしてどうにもなっていません。「いいとも」の晩年もこの病に冒され、タモリの「雑談」という「至芸」を抹殺しました。わらわらと二流芸人と三流タレントが画面をうろつき、失笑をギャグと勘違いしていました。

バイキングはその悪化系です。

EXILE(の誰か)、江角マキコ、すみれ、友近、平成ノブシコブシ、小藪千豊、そしてビッグダディ。火曜日の出演者です。

誰が仕切り、なにをフォローし、どう進行するのか不明確で、グダグダです。約1週間見て、一番面白かったのが先週の木曜日の放送で、ちなみに出演者は

フットボールアワー(後藤輝基、岩尾望)薬丸裕英、有村昆&丸岡いずみ、アンガールズのふたり、Ami(E-girls)、山本涼介

で、番組の大半が、薬丸裕英さんと、かつて番組で共演していた岡江久美子さんによる「ロケVTR」。そう、その前週に17年半の放送を終えたばかりの「はなまるマーケット」です。

あさましい、と詰るのか、必至さの表れとみるかの評価は分かれるかもしれませんが、「愚か」なのでしょう。なぜなら、かつて日本テレビが、月曜日から金曜日の、夜7時から8時までに放送していた「サプライズ」が、日替わりMCと企画で、苦杯をなめているのです。

小手先で「はなまる」のエッセンスをパクリながら、根本で他局の失敗の轍を全力疾走しているのですから。

そして面白いといっても、株式用語で言う「寄りつき天井」。最初がもっとも高いというこの言葉が脳裏をよぎります。

どうみても、キャスティングの時点で「失敗」なのですが、この企画が通る理由が先の「視聴率」です。

つまり、タレントそれぞれの「潜在視聴率」の足し算により、机上の空論で成功するような勘違いが起こるのです。馬鹿ですね。いまどき、タレントが出演するからと、昼飯を抜いてでもテレビの前にかじりつくファンも少ないですし、そもそもそれ級のタレントがキャスティングされていません。

EXILEが「視聴率」は弱いことは、彼らの冠番組の放送時間の変遷からも明らかで、パフォーマンス集団としての評価と視聴率は別物で、むしろ彼らの真骨頂はテレビ向きのコンテンツではありません。ついでにいえば、AKB48における物販の販売力と、視聴率も別物です。

しかし、「足し算」すれば嵩が増します。
しかし、曜日毎に品質が揃わないので「日替わり企画」にして、視聴者の記憶から遠ざかります。

むしろ「日替わり企画」という言葉の響きは魔物です。いわば、「日替わり定食」で、月曜日がパスタで、火曜日が鯖味噌煮定食、水曜日がサンドイッチならば、木曜日はラーメンとなり、金曜日はハンバーグ。

この流れもどうかとは思いますが、お客を飽きさせない工夫だと強弁はできます。ところが、パスタの付け合わせにラッキョと奈良漬けが添えられ、サンドイッチの具は「ちくわぶ」で、ラーメンのおかずとしてサンマの刺身が提供されていたらどうでしょうか。

つまり、それぞれの食材はしっかりしたものであっても、肝心の料理としての完成度が低ければ、日替わりどころか、むしろ「記憶に残したくない」と客離れが起こるのは必定です。そしてこれは「特番」も同じです。

これが「視聴率至上主義」からみたテレビの劣化です。

「あまちゃん」にしろ「半沢直樹」にしろ、こうした潜在視聴率からのキャスティングの影は見えません。「あまちゃん」など、小劇場から漂う演劇屋の匂いがぷんぷんとしていましたしね。

この事実から見えてくるのは「視聴率」とは、面白い番組作りには害悪となる指標・・・なのは当然。過去のある時点の評価に過ぎず、今日から明日へと放送される、未来の指標ではないからです。

さらなるテレビの劣化に「ネット」が拍車をかけます。

ヤフーが提供する「急上昇ランキング」とは、急激に増えた検索キーワードの集計で、ネットの中で何が話題になっているかを見るための指標とはなります。

それは井戸端会議や、茶飲み話に連動しており、

「サンプル 福山」

が2014年4月7日の夜に急上昇したのは、福山雅治が音楽番組で、無料のサンプル動画(アダルト)みていると告白したからで、「テレビ発」のキーワードというより、ネットで話題となるキーワードの大半はテレビ発です。

これをテレビが利用するのは、半歩譲って良しとしましょう。一番の問題・・・というより懸念は「ネットの有名人」を登場させることです。

もちろん、その道の専門家としてなら異論はありません。ところが近頃、ちらほら見かけるのが、

「炎上系」

のテレビ進出です。

正しくは再進出といえるのが、元NHKアナウンサーの堀潤氏。ネットでの凶状・・・もとい行状はここでいちいち上げませんが、真贋怪しい情報をネット内で拡散していることはつとに有名です。

本人の名前で検索すると「デマ」と候補が表示される、岩上安見氏も、フジテレビの「とくダネ!」降板からしばらく、ネットで拡散していましたが、この春からテレビ朝日の「モーニングバード」で復帰していました。

キー局ではすっかり見なくなりましたが、ローカル局では元気に活動しているのが、同じく「デマ」の称号が冠される上杉隆氏で、ネットでは彼の「デマ」と称される発言が、数多く検証されています。

この流れで紹介するのは、すこし気が引けるのですが、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏も、在職時のスキャンダルの裏側をブログで告白し、ネットのネットスターダムにのし上がり、いま、東京MXでレギュラー番組を務めています。

東京MXでいえば、炎上系の代表格というより、昭和的言語表現が許されるなら「奇人変人」の類である、イケダハヤト氏は、先の堀潤の番組でご意見番になっています。

さらに、ネットのなか・・・でも局所的ですが、有名人である山本一郎氏が、「とくダネ!」のコメンテーターとして出演。

例えば、Twitterでひとやま当てた津田大助氏を、その専門家、拡大解釈してSNSの、あるいは

「SNSを利用したアジテーター(政治活動家)」

として出演させるなら理解できます。

しかし、先に挙げたのはもちろん、津田氏などもその範疇に含まれるのですが、

「ネットで人気がある人は、ネットという特殊環境だから人気がある」

のです。AKBのお嬢さん達が、鳴り物入りでゴールデン番組に出演しても、パッとしないのと同じ理由です。彼女たちは、AKB劇場のようなホームグラウンドで輝くのであって、ネット発の有名人とは、テレビサイズに馴染まないのです。

なぜならネットで(異常に)注目を集めるために不可欠な要素は

「極論」

だからです。エッジの効いた極だけでなく、突き抜けた異論や暴論、極度に短絡過ぎる論により、

「つっこまずにいられない」

と思わせる人々が、ネット上では人気者になります。

ところが彼らはその「極論(詭弁、暴論、デマ、嘘、妄想も含め)」をテレビにおいて一般論のように語ります。

当然のように視聴者の共感を得ることができません。

しかし、製作者サイドはそれを「ネットの声」として、ありがたがり、さらに視聴者から遠ざかります。

そして往々にして「古い」のです。

イケダハヤトは出演する東京MXの番組で、画面に流れるツイートをみて、

「もっとニコ動のように、沢山流せば良い」

といいます。それは「ニコ動」の仕事ですが、同様の主張はネットから有名になった連中の常套句で、津田大介氏などもほうぼうで語っています。

しかし、需要がないと結論が出ているのは、タイムラインを垂れ流す番組が一向に増えていないことが証明します。ネットと放送の融合をホリエモンが叫んでいた頃からの「課題」とされていますが、それは論外です。

なぜなら、ネット発の有名人は極論を述べるだけでなく、

「自分を有名にしてくれたネットを過大評価する」

からです。ネット=善、そしてテレビをオールドメディアとして悪に位置づけるのは、二抗対立にしないと理解できない彼らの幼稚さです。

さらに悪から救済されるには、善であるネットを活用しろ・・・まるでというより、そのまま「新興宗教」です。

その流れにある濱野智史も珍説を開陳します。すっかりプロパガンダ番組となった「テレビタックル」で、批評家を名乗る濱野智史はこういいました。

“昔は彼女いないというとオタクというイメージだった”

さらに、

“そういう人はフリーターや非正規雇用で、恋愛を完全に諦めている。今なぜアイドルが流行るかと言えば、『恋愛や結婚よりAKBと握手したほうが楽しい』から”

だって。非正規社員のなかには、契約社員、派遣社員がいて、この濱野智史の年齢は34才とのことですが、同年輩で結婚して子供がいる人々は掃いて捨てるほどいます。

さらに、対して美形でもないのに「イケメン」と呼ばれる時代になっており、「セフレ」なる性の乱れも散見し、なにより根本的な認識の違いは

「彼女いない=もてない」

に過ぎず、オタクであるか否かは別の議論です。

つまり、濱野智史が異性に持てなかった自分を正当化するための「珍説」に過ぎないということです。

視聴率至上主義が日替わり企画と特番を量産し、テレビを日常から切り離し、ネットという新興宗教にかぶれた司祭が、テレビの劣化を加速させています。

テレビっ子のまま、死を迎えるだろうと覚悟をしていたのですが、なんだか卒業できそうな気がしてきた春です。

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“テレビはどうしてつまらなくなったのか?” への1件の返信

  1. 実用面を考えるとネットより圧倒的に遅いんですよね。
    必要なときに最新の天気予報、自分で選択出来るニュース選び。
    独占的なメディアビジネスを展開していた昭和の時代と違い強大な外来種ネットがやって来たと言う意味ではオワコンは否定できないですね。
    時間の無駄であり必要性も面白さもないテレビなので見ることはないです。

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