来週発刊予定の『食べログ化する政治〜ネット世論が間違える理由と、幼児化する政治(仮)〜』の仕上げに追われ、各種連載の締め切りに追われ、もろもろバタバタしているのですが、今朝のツイートについて論拠を記しておこうかと一筆啓上。
広島のLINE殺人事件(仮)。現時点では未成年の集団による遺体遺棄事件について、産経新聞は社会面で津田大介氏に意見を求め、津田氏は以下のように回答します。
≪無職少女が「LINEに悪口を書き込まれたので殺害した」と説明したことについては、「LINEだから起こった事件ではなく、コミュニケーションのツールが増え、きっかけが増えているだけだ」と言い切る。津田さんは「コミュニケーションの食い違いが原因という面では(インターネット上での書き込みが発端になった)長崎・佐世保の小6女児殺害事件と構図が似ているのではないか」と分析した。MSN産経平成25年7月19日(金)より≫
津田大介氏がどれだけの情報を持って回答を寄せているのかわかりませんし、記事のため主張の全部が掲載されたのでもないでしょう。しかし、不思議な論理構成です。というより、警告を発しているのでしょうか。ならばつまりはこういうこと。
「コミュニケーションツールが増え、きっかけが増えている。比例して凶悪事件が増えていくだろう」
ならば納得できますが、ならばそう断言すべきではないでしょうか。率直に言ってLINEを庇っているようにしか見えません。ネット系の犯罪が起きたときに持ち出される「包丁論」と同じで、包丁に罪はなく、悪用されたから殺人事件が起きた。だからといって金物屋やホームセンターを閉鎖しろとはいいませんよね? ネットも同じです。だからネットには罪がないのです・・・という主張です。これには同意します。しかし、報道から分析するにLINEだから起きた事件とわたしは断じます。
なぜか? 同調圧力とリスキーシフトです。リスキーシフトとは集団極性化現象。集団の意見が極論に流れる現象で、深夜に及ぶ長時間の会議などでも起こります。無茶な意見、無謀なアイデアにイケイケとはしゃぐアレです。この呼び水となるのが同調圧力で、LINEにおいてはグループチャットにより醸成されます。発言を共有するのはメーリングリストでも同じですが、メッセージの既読未読を確認できるLINEにおいては、集団(グループ)への帰属意識を試す踏み絵となります。些細なことでも繰り返すことで集団への帰属意識が高まり、そこから外れることを怖れるのは人間がもつ本能レベルの社会性です。これがLINEの躍進の原動力でもあります。
外部性の高いツイッターや、身内でかたまることができるとはいえ、外部との接点もあるフェイスブックとの違いです。もちろん、LINEが悪いというものではありません。しかし、LINEだから過激が加速して制止するものなく起きた事件なのです。
また津田氏は「コミュニケーションの食い違いが原因という面では(インターネット上での書き込みが発端になった)長崎・佐世保の小6女児殺害事件と構図が似ているのではないか」といっていますが、これもどうでしょう? 学生時代に喧嘩したことがないか、不良という生き物の生態に疎いのではないでしょうか。それは恵まれた人生です。端的にいいます。思春期の半グレが喧嘩をするときは相手を殺すつもりでやるものです。コミュニケーション? はっ! がたがた言ってねぇでかかってこいよゴルァって感じです。それでは殺人事件ばかり・・・おきやしません。不良もバカじゃありません。実際の殴り合いの前に優位な立場に立って、話しを収めるのが上等な喧嘩のやり方だからです。平たく言えば「威嚇」と呼ぶのですが。厳密には威嚇のための喧嘩と、殺人意図を持った喧嘩があり、ついでにいえば自衛のための喧嘩もあります。お上品な人生を歩んだ方でも想像できるように説明すれば、「殴ったら怪我するかも、どうしよう」と考える人は人を殴りません。行動不能にしようとして殴るのです。怪我はおまけに過ぎません・・・と考えるのです。
ところがLINEはテキスト情報。威嚇にも限界があります。そして引っ込みがつかなくなり、数の多い側が同調圧力からリスキーシフトに傾斜し、殺意へと発展した。たぶん、暴行に加担した犯人も、取り調べにおいて殺意を否定するでしょうが、先に指摘したように喧嘩や激しいイジメに突入したときの精神状態は、相手を殺すつもりでやっているのです。残念ながら、日本の法律では刹那の殺意は認められず傷害致死なんかになるので、被害者を思えばやるせない話しです。
とにもかくにも。本件はLINEの人気=魔力により起こった事件です。