「龍馬研究」が進んだ現在では数々の指摘がありますが、どれも
「へへん、俺の方が龍馬をしっているんだぜ」
的な臭いを感じてしまうのは私だけでしょうか。
踏み込んでいえば司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を中心に、その
周辺を巡る惑星や衛星です。
いや「書類」などを揃えて並べたモノが「歴史」だという前提
ならば司馬遼太郎こそ夜空に浮かんだ三日月でしょう。
あえていいます。
「だから歴史嫌いができる」
歴史とは人の営みを重ねた地層で、後生の人間が顕わになった
断面を見て関東ローム層のように時代に目印を付けて分類するこ
とはできますが、しかし、時代を生きた人の心の動きまでは
断層をみるだけでは分からないのです。
平易な言葉にすればこう。
「龍馬の気持ちが分かるか」
年号はわからなくても「人の気持ち」なら、時を越え、
平成JKにも草食系男子にも理解できることでしょう。すると
歴史は退屈な授業から「物語」というエンターテーメントに
変わります。
司馬遼太郎「翻訳」の龍馬の心に触れることで、幕末という
混乱期にも目を輝かせて「日本国」を作ろうとした若者達が
蘇り、そんな国に生まれたことを少し自慢したくなります。
ただし、一つだけ問題が。
いま、文庫本版で最終刊を呼んでいるのですが、龍馬はついに
大政奉還を成し「近江屋」に泊まってしまいました。歴史の難点
は結論がでてしまっていることで、ページをめくる手が最近
ストライキをしています。
■竜馬がゆく
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