ステレオタイプな「日本人卑下」

「叡智から遠ざかるばかりではないか」

取材に当たり一次情報や出典に目を通すことは基本事項と
駄文書きの末席の立ち見席にエントリーする私でも心がけて
いる基本です。

引用されている新潮を購入し拝読。

水村美苗さんの論文を読んだ上で記したしたら産経新聞と
して悲しい限りです。朝日新聞ならいつものことですが。

私自身は拙著にも記したように梅田氏の論考に批判的なのは
恵まれた一部の人々とシリコンバレー的価値観を最上とする
思想に基づいた楽観論の危険性を危惧するからです。
語弊を怖れずに例えるなら

「日本はダメでグローバルは最高」

というステレオタイプな「日本人卑下」をそこに見つけ
さらには

「若いときは何でも経験と暴走族も容認する親」

という無責任さを感じるからです。もちろん、彼個人の立場
としての発言は、それを啓蒙しようというのは彼のビジネスに
絡んでいるのか趣味か思想かはわかりませんが、自由な言論が
認められているこの国おいて「だまれ」というものではありま
せんし、「否」と思えば反論をすれば良く、幸いブログでも
メルマガでも南の島の小島でつぶやくぐらいの影響力しかなく
ても可能ですしするのもまた責務と考えます。

悲しい理由を述べます。

「梅田氏の都合の良い一部引用に同調し日本を嘆く産経新聞」

ということ。朝日の常套手段を産経が1面でしたこへの悲しみです。

水村氏の論考もこの秋発行の書籍の一部とあったので、
最終的な考えではありませんが、280枚という長篇評論にて
氏は「憂国」を小説家の立場からアプローチしており、それは英
語で叡智が集積されることへの礼賛ではありません。

また梅田氏の指摘する「英語になってしまう未来」とは掲載
された本文の結びでほのめかしているものの、彼の解釈です。

論考の中で英語を「普遍語」と位置づけ展開するのは、それに
より失われるかもしれない「文学」との対比のなかで水村氏の
ペシミストぶりが遺憾なく発揮された表現です。さらに言えば
現代日本の「文壇」への苛立ちというか悪口です。

全編を通して日本文学への愛を感じ、故に苦言を呈そうと
しているのではと全7編のうちの新潮に掲載された3編を
私はそう読みました。

さて果たして「産経抄」は、吹き替え版を読めない若者を
捉えて日本語の話し言葉で楽しむ若者はと嘆くのですが、
梅田抽出文で自己解釈したと思われる水村原文にはこうあります

「叡智を求める人であればあるほど、日本語で書かれた
文学だけは読もうとはしなくなってきている」

また、この前段では水村氏が崇拝する日本近代文学を賛美し
ていることからみても、梅田氏の引用の仕方から紐解くには
無理があります。

そして何より、梅田氏のコラムの冒頭をみれば、若者非難は
なにも話し言葉だけではありません。これは梅田氏の記事からの
引用です。

<シリコンバレーを訊ねた若者を食事に連れ出し、話しと食事に
夢中な学生に頃合いを見計らい>

「ちょっとまわりを見渡してごらんよ、と促す
彼ら彼女らは、一様にはっとする。こんなに色々な人種の
人たちが混ざっている中で、日本人ばかりで話していたのかと」

・・・日本人に会いに来てその流れで食堂に行き、廻りと
会話を始めるものを日本語では「無礼」といいます。好意的に
解釈して「多様な人種」の存在に気がつかないとしたら、
そちらのほうが危険ですし指摘されるべきでしょう。

「水と安全がタダの国」

と、今の学生が「9.11テロのあったアメリカ」に足を
運んでいるのにです。吹き替えで映画を見る若者と、著名人に
案内されたとはいえ「知らない店に警戒せずにはいる若者」なら
どちらが間抜けかと言えば後者と断じます。店に入った瞬間に
驚いたというエピソードなら梅田氏のその後の「いいたいこと」
も多少の理解は示しますが「結論ありき」で、どこか日本人を
馬鹿にしている・・・と、感じます。

水村原文には「憂国(文学の世界においてですが)」に触れ
ており、こう引用されることをどう思うのでしょうか。

文学者でない駄文書きの街角のおっちゃんの意見としては
言語とは文化であり歴史です。海外で多く使われている言語が
あり、それを「道具」として利用することに異論はありませんが
自国の文化をなおざりにして道具に振り回されるような論調に
唾を吐きます。

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