演歌と駄洒落こそ日本人の心

歌は世に連れ、世は歌に連れ。

和歌に川柳、狂歌を振り返るもなく「真理」を表す言葉かと。

先日とある会議にて「私はオジサン」という発言に「いやいや」
と社交辞令でしょうが参加していた女性が訂正します。

なぜでしょう。私はオジサンであることを喜んでいるのに。

14才から造型上は、ほぼ今の顔となり、映画館では中学生から
大人料金を払い、18才で社会人となるも子供扱いされ、団塊世代
がその席を禅譲しない社会においては30代となっても

「ミヤワキさんはまだ若いから」

といわれ続けてきたので「40」が視野にはいった今、

「オジサン宣言」

を胸を張ってしているのです。
しょぼくれ背中を丸めて社会への繰り言を呟く「オジサン」では
なく、社会の担い手として「若造」とは一線を画すという意味です。
齢を重ねただけではなくという意味も込めて。

はてさて。
そんなオジサンですから最近のヒット曲が分かりません。

最近は便利なものでカラオケ屋さんには

「80年代にヒットした曲」

と選べるので特に不自由はしていませんし、若者に迎合する気は
さらさらありませんが、しかし、聞いていて「入ってこない」のです。

はい、今日はオジサン的に「近頃の曲は」という話。

とはいってもこれは常に穏やかな「世代交代」として連綿と続
いてきたものでもあります。

私の知る限りでは「フォークソング」は、亡父の世代にはいま
ひとつ理解しがたく「軟弱」だと評していました。
父はボブ・ディランもエルビス・プレスリーもビートルズも

「英語の歌」

とカテゴライズしていたので、四畳半フォークを指すと思われます。

その後「ニューミュージック」へとバトンが渡され、歌謡曲の
中での「イノベーション」はサザンオールスターズの登場です。

「何歌っているのか分からない」
「英語かぶれ」

などなど。今でこそですが、「大人」の悪評が多かったことは
歴史に留めておく必要があるのではないでしょうか。

「たのきんトリオ」のトシちゃんこと田原俊彦さんの歌唱力が
切り開いた地平は、浅田美代子さんで途絶していた一族の繁栄へ
とつながります。この一族は電子機器の進化と、カラオケ文化の
浸透でボーダーレスな混血を生み出し、現在CD等の

「レコーディング音源」

からは判別が難しくなっています。腹式呼吸で歌わない歌唱法で
もどうにかなるということです。

余談ですが、めざましテレビの芸能コーナーで、アーティストの

「ライブ映像」

に軽部真一アナウンサーの声が「かぶさる」時の多くは、
BGMとなったライブ音声のボーカルの音程が揺らいでいます。

余談ついでに音楽がファッションに与える影響もあります。

「チェッカーズ」

シャツをイン。格好が悪いというベクトルで使われることが
増えましたが、チェッカーズ以前は

「だらしない」

とたしなめられたものです。今から24年ほど前の話です。

話を戻します。

バンドブームなるものもありました。
当時は

「ブルーハーツはパンク(ロック)かフォークか」

という議論もありました。ロックは青春を歌わないという
不成文法を信じるものが多かった時代です。

暴威・・・もといBOOWYについては楽曲に傾倒してい
るファンも多数いましたが、

「(バンドで)コピーしやすい」

という学園祭バンドの粗忽者とに分かれていたのですが、
最近ではすっかり伝説となっているのもみていて楽しいも
のがあります。特に「BOOWY芸人」と称して語る某お
笑い芸人の底の浅さなど。

ちなみに私は「アースシェイカー」のファンでした。

時代は前後しますが、佐野元春、浜田省吾、尾崎豊という
潮流もあったと記します。

この後、ビーグラムに小室哲哉などなどあるのですが、
常に一世代、二世代と重ねる毎に時代を反映し、歌は形を
変えていきます。

特に「歌詞」に現れます。
最近の曲が「はいらないなぁ」と感じた理由のひとつです。

歌詞を引用するとJASRACが恐喝に、もとい大長編と
なるので記憶を辿って欲しいのですが、かぐや姫の「神田川」、
歌謡曲からはジュリーの「勝手にしやがれ」、季節ものから
尾崎豊の「卒業」。

曲の好き嫌い、賛否はともかくそこには「風景」があり
ました。洗い髪が芯まで冷えたら風邪ひくだろうなぁという
二人がいて、不器用な男のワガママとやせ我慢に馬鹿だなぁと
つぶやき、窓ガラスを割ってはいけないと苦言を呈したり。

いつからかと区切るのも難しいのですが、私の仮説として
は「小室哲哉」氏が一区切りとして、風景描写の少ない歌が
多くなったと見ています。

そして「近頃の歌は」。
独白と妄想と空想と思いこみに終始します。

もちろん、曲の選び方にもより、サザンオールスターズの
「愛しのエリー」やBOOWYの「ONLY・YOU」など
は風景もなく恋人への独白でしかなく、最近のヒットチャー
トに登る曲の中でも「風景」を描いているものあるにはあり
ます。レッドデータブックにのるぐらいの少数派です。

多数派はどちらかということです。

「状況」「関係」が明記されていません。

今風の言葉にするなら「空気を読めよ」で展開されている
ということです。

関東地方ではヘビーローテションで流れ、飽き飽きしている
NTTドコモのCMにも使われている青山テルマさんの

「そばにいるね」

の中には「思い」と「つぶやき」、または「告白」以外に
登場する「リアルな物質」は

「アルバム」「携帯電話」「letter」

の3点です。このうち、アルバムとレターは詩的表現とみれば
実質「携帯電話」だけが歌詞の中の世界を第三者が正確に再現
できる物証です。

この曲には感謝しています。ようやく「入らない理由」を
整理できたのですから。

「シチュエーション(状況説明)がなくても、愛している
で通じてくれという話だから理解できない」

そして、

「恋愛は十人十色。他人の色恋の“思い”はわからん」

分かれたという事実をひとつとっても、そこに横たわる事情や
背景により評価は異なります。長すぎた春なのか、青春時代が
夢だったのか、はたまた、若すぎる二人だったのか。

酸いも甘いも鑑定できるようになると「惚れたはれた」で
空気を読めといわれてもそんな暴挙はできません。

これを「超自分主義社会」と呼ぶことにします。
自分がこう思っている。だけで成立している社会で、
それが流行歌となるということは「受容」されているという
ことです。

歴史を知るものとして今の流行歌を卑下も否定もしませんが、
世に連れるということです。

世代間格差を煽り、不安を扇情するつもりはないのでひとつ
「つながり」を。

歌詞に注目すると

「待つ身の女」や「未練がましい男」

が登場します。「演歌」です。

そして、日本人の場合、ラップとヒップホップの区別も
よくわからず、ミクスチャーにリスペクトとそれはなんでもあり
の歌謡曲ではないかと指摘したくなる気持ちをグッと抑えて、
仮に「ラップ」とすると、そこでは韻を踏むというのか「ライム」
なのかは分かりませんが

「レインボーで隠れんぼう」

といったファンシーな「駄洒落」が。

演歌と駄洒落こそ日本人の心なのかも知れません。

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