「リベラル」がうさんくさいのには理由がある

 イデオロギー的にいえば私は「アナーキスト」、無政府主義者です。あるいは「リバタリアン」。日本語にすると完全自由主義となりますが、要するに全部自由、自己責任の世界。

 アナーキストの自覚は十代の頃からありましたが、リバタリアンは、『Web2.0が殺すもの』の編集者が「今後、こちらの方面での執筆は」と勧められた書籍で気がつきます。

 いま保守系雑誌で執筆しており、個別案件において「保守派」に近い指摘をしているのは、偽装とかビジネス保守などではなく、どちらも「無理」だと知っているからです。

 いわゆる「共産主義」の理想と同じく、すべての国民が、相応の知識と倫理観、そして責任を覚悟しなければならず、いや、そりゃ無理だって、という話し。

 とりわけ起業して、より自己責任で生活するようになってから、日本社会の仕組みを体感し、問題は多くありながらも、それなりに上手く、つまりは「日本人に最適化」する社会の仕組みができており、変えるべきは変えても、守るべきは守る、と保守的な視点を持つに至った次第です。

 昨今、「リベラルの退潮」は著しく、そちらの陣営を気取る有識者の怨嗟が響きますが、冷静に見れば退潮ではなく「劣化」です。

 三浦瑠麗氏が「ワイドナショー」にまで呼ばれるのは、まともなリベラルがいなくなったからで、保守論壇が彼女を取りあげたのも、まともな議論ができる相手がようやく現れたからでしょう。オジサン好きするという理由もあるでしょうが。

 数少ないまともなリベラル陣営と目する橘玲氏の『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』は、週刊プレイボーイの連載を再編集したもので、若干古い内容も含まれていますが、リベラルの立場からリベラルサイドの問題に切り込みます。

 橘玲氏らしいシニカルな視点は面白く、見出し優先や言葉遊びなど、週刊誌連載ベースの弊害はありながらも、次々と話題が展開されるスピード感が、それを引きずらせることはありません。

 なるほど、と唸り、ニヤリと片ホホが緩むことも多数。

 歴史認識や日本社会についての見解の相違、とりわけ「天皇制」などはイラッとしつつも、ひとつの意見として受け止められるのですが、各所に見える保守や右翼への敵意や悪意が、劣化リベラルのようで残念です。

 多様な価値観、そのための多様な言論を標榜するリベラルが、保守や右翼を多様な言論のひとつと許容するのではなく攻撃。本書のタイトルにある「うさんくさい」に、自らも引っかけている可能性も否定しきれませんが。

「リベラル」がうさんくさいのには理由がある
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