後藤健二氏のシリア行きと、湯川遙菜氏を巡る、ジャーナリストも含めた世論とに強い相関関係がある気がしてなりません。
なぜシリアに行ったのか? という素朴な疑問から「自己責任論」が巻き上がるのは致し方がなく、それは本人が映像に残した通りです。ただし、自己責任とは自分で責任がとれる範囲に限定されます。
今回のダーイシュ・・・とは、イスラム国の蔑称ですが、という呼称は定着しなさそうなので政府と自民党に習って「ISIL」と表記しますが、脱線ついでに言えば、いまだ「イスラム国」と表記するテレビメディアは、テロリストに汲みしているという自覚がありません。
それは「オウム真理教」における麻原彰晃こと、松本智津夫死刑囚を、連中の主張通り「開祖」や「教祖」と紹介するようなものだからです。
後藤健二氏の業績を称えることを、彼のファンや関係者がすることは当然ですし、日本人の宗教観からみても自然の流れではあります。
しかし、過ぎてはいないかと首をひねることもあります。特に「ジャーナリスト」や「報道」を自称する人々がです。そして残念ながらというか、その性質上、彼らの発信力は強く、歴史が上書きされていきます。あえて「神格化」と呼びます。
既存メディアへのカウンターパートとして「ネット」が存在し、井戸端会議や床屋政談レベルの話しが、ネット上に刻まれ、必ずしも「ジャーナリスト」の主張を支持していないことは随所で確認できることは救いではありますが、同時にネットを中心に、政権批判へとつなげようという動きは、私が直面している「名誉毀損訴訟」にも通じます。
政治活動もまた思想信条の自由と、表現の自由ですが、それを批判することも否定することも、また同じ憲法により保護されています。
ところが左翼は排他的な原理主義者で、自分の自由は最大限に保護されるべきと考えながら、自らへの批判は色をなして反撃を試みる可能であれば弾圧を試みるのは、民主党政権が残した、数少ない歴史の教訓です。左翼とは思想家や政治家ではなく「活動家」だからです。
話しを後藤健二氏に戻します。彼はどうしてシリアを目指したのか。湯川遙菜氏の救出と、これまた「美談」のように語るものもいます。
昨日、立ち止まって考えてみました。
湯川遙菜氏が拘束されたとき、彼の来歴について調べてブログにまとめました。
同情しづらい経歴もあり、当時のネット界隈でも「自己責任」とか「自分探し」などが拡散され、なにより「世論」も沸騰せずというか、「ジャーナリスト」の多くは
「危険で無謀、でも無事を祈る」
とお茶を濁していなかったでしょうか。
今回の後藤健二氏のときのように、執拗に繰り返し多方面の識者をかき集めて「奪還策」をさぐるメディアは皆無でした。
それは人間の価値でしょうか、自己責任の軽重の違いでしょうか。
本稿では結論を留保します。
一方で、そうした湯川遙菜氏奪還への低体温な世論が、後藤健二氏の使命感に火をつけた可能性を、彼を神格化するジャーナリストらが語る人物像から想像してしまうのです。
戦争の犠牲となる女性や子供といった弱者への優しい目線。
戦場ジャーナリズムがスポットを当てない人々への取材。
使命感のある人。
公開されている情報からの推論に過ぎませんが、関係者が語る彼の人物像を素直に統合したとき、ふとこの考えが浮かび消えなくなりました。
国民ひとり一人を問うているのではありません。日頃は世論を喚起したがる人々が、いままた政権攻撃にしようとしている人々は、何をしていたのでしょうか。
端的に言えば左翼やリベラルな人々を指しますが、もちろん、自己責任論にたつ私は彼らを責めはしません。しかし、仮に・・・いや、それもまた自己責任に過ぎないのですが、いつもの調子で「人権」という武器を手に政権攻撃の材料に使っていたのならという空想が、昨日から消えてなくなりません。。