リベラル氷河期と胃袋の音

 近所の蕎麦屋で「朝日新聞」を手に取ろうとしたら、マガジンラックの最下段に見つけたのが「サンデー毎日」。10月中旬の日付に躊躇しましたが、普段は接しない媒体をみつけたときは積極的に選択するようにしています。

 ページを開くとでるわでるわ「進歩的文化人」やその近しい人々で、なんだか「懐かしい」というのが率直な感想。

 もちろん、「朝日新聞」を定期購読していれば、いまも現役バリバリの人間なのでしょうが、高橋源一郎氏などその最たるものです。

 物書きとは存じ上げていましたが、

“室井佑月と結婚して離婚した人”

 ぐらいの印象しかなく、結婚を5回、離婚を4回と忙しい人生だとはウィキペディアにもありますが、朝日新聞で大活躍の文化人を毎日系列で見つけて「紐帯」をみつけます。

 パラパラとページをめくると、深掘りした記事はなく、最大2ページ程度の「コラム」が並ぶだけで、週刊誌としては上品と言うより手抜きです。

 そこにジャーナリストの青木理氏の名前を発見。青木理氏といえば、共同通信出身というところで、松島みどりにおける「朝日新聞」のような位置付けで、色分けがくっきりできている御仁。

 この日の蕎麦屋は「生ビール半額」だったがために、昼食ながら中ぐらいに楽しんだわけで、記憶力も曖昧ながらも青木理の主張はこんな感じ。

“ものが言いづらい世の中になっている”

 日曜朝のTBSによる反日プロパガンダ番組「サンデーモーニング」でもたびたび耳にする主張です。

 特に「特定秘密保護法」と絡め、先日も毎日新聞の岸井成格(きしい しげただ)が口先をとんがらせ、

「廃案にしなければならない」

 とアジっていました。

 京都大学へ無許可で立ち入った公安警察が、学生に取り押さえられた事件に絡めての発言です。

 こう書くと朝日新聞みたいですが、報道ベースの情報を「翻案」するとこうなります。

“デモに参加して逮捕された京大生の奪還を呼びかける団体の覆面調査にはいった、素性非公開のはずの公安警察官を「発見」した「京大生」が、それを取り押さえ、大学側も一緒になって3時間にわたり「軟禁」した事件”

 不審者を取り押さえたのなら、その場で警察を呼ぶか、敷地内から追放するのが「一般人」ですし、大学の「自治」を叫びますが、法治国家では「私的報復」を認めておらず、「まんだらけ」の万引き犯公開事件で、被害者であるはず「まんだらけ」の罪が問われる可能性がそれです。

 また、公安警察の「顔」を覚えているということは、常日頃からその手の活動をしている可能性が高く、 奪還を目指した「学生」とは「中核派」のメンバーとはネット情報。

 大学職員が公安警察の私的な「取り調べ」に立ち会っていたと言うことは、大学側がそれを「容認」しているということで、たしか京都大学は「国立」だったはずですが、つまりは、官営で反国家集団を養成しているということです。東大も似たようなものですが。

 中核派とは「革命的共産主義者同盟全国委員会」とのこと。

 「サンデーモーニング」でも、他の報道でも「大学の自治」を匂わせつつ、お茶を濁したコメントばかりでしたが、典型的な日本型リベラルの誤謬で、

「個人の権利は国家を上回る」

 とは、「甘え」からの発想です。

 京都を訪れた際、寺社仏閣には足を運んでも、大学を訪れることはなく、ネット情報にすぎませんが、キャンパス内は自由に出入りできるとあれば、公安の警察官であっても、それが「公務」か「非番」かの区別を、京大の学生達はどう区別をつけて「取り押さえた」のでしょうか。「警察職は立ち入り禁止」なら職業差別ですが、差別はリベラルと左翼の特徴なので、これが「馬脚」。

 一定程度の大学の自治は守られるのは結構ですし、学問の中身そのものは、例え国家であっても手を出すことに自制的でなければなりません。

 しかし、自治は日本国の平和という土台の乗っかる「上物」に過ぎません。さらに大学は、特に国立大学は、税金が投入されており、独立独歩の自営業者ではありません。

 つまり、ビルの屋上に置かれたプレハブ小屋のようなもので、プレハブ小屋の中の自治権は認められても、そのプレハブ小屋に犯罪者の影があれば、大家が立ち入り検査をするのは当然のことです。

 大家にはビル全体の安全を管理する責務がアリ、プレハブ小屋の住民が優先されるという発想はやはり「甘え」によります。

 学問の中身そのものについても「自制的」としたのは、国家転覆のための「研究」や、社会常識が許容しない狂気の科学は、学問の自由で野放しにすることなどできないという意味です。

 自治を自由に置き換えても、まったく同じことが言えますが、

「自由とは野放しではなく、自治とは聖域ではない」

 ということ。いわば「箱庭の中の自治」を認めているのであり、それは

「ジオラマの自治」

 といってもよいでしょう。

 京都大学が公開している決算に関するPDF資料によれば、

運営費交付金            56,061(百万円)
施設整備費補助金          12,678(百万円)
補助金等収入            13,776(百万円)
国立大学財務・経営センター施設交付金  148(百万円)
産学連携等研究収入及び寄付金収入等 35,335(百万円)

 この合計が117,998(百万円)。
 一方の「自己収入」は53,534(百万円)。3割に過ぎません。

 交付金や補助金は、研究成果によるものがあるようで、盲目的に資金が供給されているわけではなく、一部には民間からの寄付金もあるとはいえ、国や公的機関との「関係性」がなくなれば立ちゆかないのは明らかで、その京大生が、「革命」を夢見てキャンパスの施設を利用して活動しているとはコントです。

 それを「大人への反抗」という青春の1ページと笑うことは、その青春の時代すでに働き、税金を納めていたものとしてできませんが、多数決で皆が許すなら、それもそれと苦虫を噛みしめるのも、民主主義の真実ではあります。

 ただし、京都大学のそれは、外形的に見れば「思想活動」であり、その思想とは「国家体制の転覆=革命」であり、現体制を支える警察組織が動くのは、治安という視点からは当然のことであり、なぜなら警察は「防犯」を行動の原点としているからです。

 これが「オウムの活動拠点に公安警察が侵入」していたとすれば、むしろ私有地であるそちらへの立ち入りの方が問題なのですが、だとして「特定秘密保護法」と絡めて批判することなどなかったことでしょう。

 日本型リベラル陣営(もちろん左翼も)は、都合の良いときだけ「国家の暴走」を嘆くのです。

 そして青木理氏の

“ものが言いづらい世の中になっている”

 も同じです。はてさて、リベラル陣営は口を閉ざしているでしょうか。むしろ、声高になってはいまいか。と問います。

 特定秘密保護法はもちろん、集団的自衛権にしても、安倍政権批判は「第一次安倍内閣」に比べれば「おとなしい」にしても、それは前回が「異常」だっただけで、因縁レベルの批判は一切止んでいません。

 むしろ「戦争をしたがっている」など、論拠も根拠も「妄想」を下敷きにした言論が放置され、週刊現代など「安倍軍事政権」と、根も葉もないデマを大見出しにするほど、好き勝手に発言できているのが我が国における現状です。

 青木理氏も出演するテレビ朝日「モーニングバード」に、同じコメンテーターで出演する岩上安見氏などは、不確かなネット情報公共の電波で拡散し続けているのは、番組としても局としても容認しているということで、さらに岩上安見は、昨日の放送で、

「放送ネタをディレクターに前日確認」

 と、舞台裏まで披露する体たらく。当意即妙に応えている体が、ワイドショー番組におけるコメンテーターの役割ながら、前夜にネタを知っていれば、いくらでもカンニングができるというものです。

 カンニングをしても「あの程度」とはご愛敬としても。

 事実を指摘すれば、なんら「いいづらい」世の中になどなっていません。「報道ステーション」で能面のような古舘伊知郎は扇動を繰り返し、「サンデーモーニング」も以下同文。隙あらばNHKは脱原発派の言い分を垂れ流しています。

 朝日はすっかり「論調」を取り戻し、毎日と東京新聞は相変わらずです。また、朝鮮日報やニューヨーク・タイムズが虚言レベルの報道をしたからと、彼らの東京支局長を起訴することは韓国ではないのでありません。

 一方、いまだに「言いづらい世の中」であるのはむしろ保守や右派でしょう。一例を挙げます。

・戦争は外交手段のひとつ
・軍隊は必要
・核保有の是非ではなく必要性の議論
・社会保障費の適切な削減

 これを堂々と語れるのは「WiLL」や「SAPIO」ぐらいではないでしょうか。週刊誌ではいまだに、正面切って論陣をはってはいません。そして、いつの号かは失念しましたが、20世紀末、当時防衛政務次官だった西村眞悟議員から「核武装」発言を引き出した「週刊プレイボーイ」の左傾化の激しさに笑ってしまいました。昔からでしたっけ? 愛読していた頃は「グラビア」を見ていただけで、読んでいなかったことを反省したものです。

 その「週刊プレイボーイ」の発行部数を見てみます。ABC協会により直近に当たる、2014年7月〜9月期のデータで、195,000部となっています。

 それでは「政権交代」という喧噪の最中にあたる2009年7月〜9月期の部数はというと、298,182と端数付きの数字。そこで正確を期すなら103,182部減少しています。割合にすると34.6%の減少です。

 21世紀に入った頃から、紙媒体の退潮は叫ばれており、グラビアなどは、ネットの無料エロ動画にすっかり負けていますが、「週刊プレイボーイ」は「一般雑誌」に分類されており、エロ本ではありません。

 エロも主軸のひとつである「週刊アサヒ芸能」を同時期で比較すると202,287部から195,613部と、同じく減少していますが、3.29%で踏みとどまっています。

 同時期の「部数減少率ランキング」は以下の通りとなります。週プレを上げたのは偶然でしたが、減少率1位です。そして「アエラ」「週刊朝日」と続きます。

週刊プレイボーイ -34.60%
AERA(アエラ) -32.16%
週刊朝日 -32.14%
ニューズウィーク日本版 -31.27%
SPA! -31.02%
週刊大衆 -26.41%
サンデー毎日 -14.61%
週刊新潮 -14.24%
週刊文春 -7.09%
週刊ポスト -3.89%
週刊アサヒ芸能 -3.30%
週刊現代 16.34%

 ニューズウィークに関しては、海外情報がネットで入手でき、ネット情報をテレビで入手できる時代に、苦戦はやむなしでしょう。

 そして減少率ランキング4位に「週刊SPA!」がランクインしているのにも注目です。かつては小林よしのり『ゴーマニズム宣言』が話題となり、「週刊サンケイ」が母胎となっていることもあってか、保守的な印象もありましたが、最近の号を開くと、サブカル的な要素を突き抜け、リベラル陣営とアナーキー(無政府主義)が散見します。

 そして青木理氏の「嘆き」と重なります。

 つまり、リベラル的な論陣、論法、主張を取り上げている雑誌の退潮著しく、ランキングにした週刊誌の、平均減少率は17.87%で、それを上回るのは6誌中、朝日新聞系列が2誌、リベラル化が目立つ「週プレ」と「SPA!」を加えれば、4誌が減少しているのです。

 これを「右傾化」とするのは短絡的。韓国からは「極右雑誌」と呼ばれる保守的な論調の「週刊新潮」も部数を減らしているからです。

 また、唯一の「増加」している「週刊現代」は「老人とセックス」が当たったのかも知れませんが、しかし、実売では週刊文春が首位を走ります。

 実数で見ると同日発売の「週刊ポスト」と「週刊プレイボーイ」の減収数が約8万部で、「週刊現代」が7万部強の増加なので、

「コンビニの棚の占有率」

 とみることもできますが、雑誌の売上解説は本稿の目的ではないので、ここまでとしますが、週刊誌の売り上げから「右傾化」は必ずしも当てはまらないということです。

 しかし、「リベラルの退潮」だけは明らかです。

 すると、リベラル陣営による「日本の右傾化プロパガンダ」の正体とは、「リベラル論壇の弱体化の言い訳」とみることができます。

 リベラルの弱体化の詳細な見解については、別の機会にしますが、ざっくりといって2つ。

・若手論客の底の浅さ
・戦後リベラル(日本型リベラル)の論理の破綻

 若手論客とは本稿で度々紹介するトンチキ達ですが、どの業界も新たな「スター」が登場しなければ、新陳代謝が生まれず、よどんでいきますが、ざっくりとこの20年、これは私が大人になってからの体感値としての歳月で、次々と「若手論客」が登場しましたが、体温を感じないというか、年々顕著になるのが

「オタク化」

 で、

「オタクでなければ批評家にあらず」

 とは言いすぎでもないでしょう。オタクを否定するつもりはありませんが、専門性というか執着性が強いから「オタク」であり、彼らの思考回路は一般の支持を集めません。

 そもそも専門家とはそう言うもので、だから活躍は論壇誌や専門誌、同人誌にあるものだったはず。しかし、彼らを「一般」の世界に引きずり出したのは、

「一億総ワイドショー化」

 のひとつです。アニメやライトノベルの専門家が、仲間内で政治を語るのは楽しい余興でしょうが、慣用句ではなく「額に汗したことがない」ものの発言を拝聴するほど、日本国民は情報に飢えてはいません。

 また、情報過多の中から、目新しさをもとめるメディアの習性が、「若手論客」を作りだそうとし失敗しているケースもあります。

 ゴミと珍味の区別がつかないのです。

 なにより、戦後リベラル、その一部を取り上げれば、護憲派の念仏

「憲法9条があれば戦争が起こらない」

 というもので、この破綻に、日本人もようやく気がつきはじめた・・・残念ながら、まだこのレベル・・・のです。

 そしてリベラル派にとっては、

“ものが言いづらい世の中になっている”

 とは、

“仕事が減っている”

 ということ。仕事場が減れば、世間を世知辛く感じるのは、ジャーナリストでもねじ切り職人でも同じです。

 また、青木理氏のような売れっ子ともなれば、活躍の場はまだまだあることでしょうが、そのとき、

「お得意のフォーマット」

 が受けなくなれば、編集者からテコ入れを迫られ、それが

「言いづらい」

 と表現につながることは想像に難くありません。物書きも人気商売で、いまさら

「恐怖の大王がふってくる」

 とノストラダムスの大予言により警告を発しても誰も振り向かないように、戦後日本を支配した反日を基調とする「日本型リベラル」に頷くのは常連客だけです。そして論壇にもイデオロギーにも少子高齢化の波はおとずれ、新たなヒーローが生まれないということは、新しい客も増えることはなく、市場が縮小していく。

 これが左翼やリベラルの言う、「右傾化」の正体でアリ、つまりは言論活動で飯を食っていた人間が、職にあぶれ空腹に泣き出したぐぅぐぅと鳴く胃袋で、それをかつて「就職先がない」と嘆いた大学生になぞれば

「リベラル氷河期」

 ということ。あの「就職氷河期」でも求人誌は潰れず、むしろ求人サイトは急成長し、仕事は余っていました。足りなかったのは、「自分の欲求を全て満たす就職先」だけです。

 いまのリベラルと同じです。

 例えば青木理氏は「ジャーナリスト」のはず。事実を丹念に取材し、ありのままの事実を世に問うのが仕事なら、論がリベラルでも保守でも「言いづらい」ことなどありません。

 仮に社会が「保守化」するなかで、「言いづらい」とするなら、単純な話し「イデオロギー」の告白で、こうした事実上の泣き言によるカミングアウトは見ていて不愉快です。

 それは被害者ヅラするから。反日侮蔑のときは、正義の側に立ち加害者になっていたのにね。

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