西川史子と江角マキコにみつける野蛮

 子供は犬畜生と同じ。

 いまは亡き亡父の20世紀の発言です。

「言いつけを守れない」「聞き分けのない」

 などが発言に接続されますが、いまなら人権侵害だと大騒ぎするでしょうか。主に説教の場で、繰り返された台詞ですが、わたしにはとても腑に落ちる言葉でした。それは

“話して分かるのが人間”

 ということだからです。余談ながら、愛娘…もとい愛犬(サクラ 柴犬♀3才6ヶ月)が粗相をしたとき、憤る妻を

「犬畜生だから」

 と諭します。わが家の犬は、相当程度に言葉を聞き分けている風で、言うことを聞かないのは「わざと」という疑念も持っているのですが。

 さて、ネットニュースを見ていると

「子供の躾」

 が話題となることが度々あります。先週取り上げた、子供の入学式に出席した埼玉県50代の教員(労働者)も同じです。

 いくつかの報道機関や雑誌が、賛否を問うていましたが、両者は拮抗し、むしろ教員(労働者)を庇い、問題にする方がおかしいとする主張が若干多いようでした。

 そういう「時代」なのでしょう。公益よりも私益を優先する時代になったということです。ひと言でいえば

「野蛮な時代」

 です。イヤですね。下品です。ケダモノです。

 法律とは公益を守る最低限の約束事項です。私益の優先とはそれを犯すと言うことです。

 教員(50代女性労働者同士)は法律を犯したわけではない。その通り。では、法律で禁止されていなければ、何をやっても良いのかにYesというのでしょうか。

 わたしがいまでもホリエモンこと堀江貴文氏を認めないのは、彼が創業したライブドアの株券をわたしがもっており、それが紙切れになったからではありません。法律に禁止されていないことは合法と、開き直り悪びれもしない人間性が、わたしの価値観では受容できないからです。発言を見る限り、出所後も彼の人間性はまったく変わっていないようです。

 先の労働者を巡る論争は、程度の差こそあれ「ライブドア騒動」と同じです。事件とせずに「騒動」としたのは、

「堀江逮捕=国策捜査=無罪説」

 の構図からです。彼らの説を端的に言えば、逮捕されるほどの案件ではなかったで、理由は額が少ないや、強制捜査は破綻企業に対して行うもので、営業している企業にはいったのはライブドア潰しの陰謀というもの。

 それはテクニカルの問題で、公益私益で言えば、彼らのやり方が公益を損ねていたのは明らかですが、狡いと検察を、ズルした本人やその応援者が文句をいいます。前例がないから逮捕されないはずだということです。前例を持ち出す時点で確信犯ということは棚に上げます。

 なんと自分勝手な、と憤る時代でないからこその野蛮です。

 法律は「良識」と「常識」を前提とします。そして些少のことを「あいまい」にしているのです。「あいまい」とは社会の知恵で、詳細を記すことにより生まれる「漏れ」をつくらないためでもあります。

 仮にすべてを明記するなら北朝鮮のような全体主義の社会の到来を意味します。というより不可能です。つまり、

「法律にない、違反していない」

 から、何をやっても大丈夫という主張は、不可能を求めているのと同義で、それは法律の喪失に到達します。なぜか? 森羅万象全ての出来事を法律に定めることはできず、そもそも人類が知り得ている知識や情報も、限定されているからです。

 例えば人を殺すことは罪になるとされています。しかし、殺害方法に至っては限定的です。南米の国の中には「呪い」を、殺害方法とみとめるところもあると聞きますが、これは日本ではいまだ認められていません。

 だから殺害方法の明記の有無、つまり「法律にない」からというのなら、仮に呪いを広言し、本当に殺してしまっても、罪に問うことはできないことになります。

 実際に日本の法律運用においては、「威力業務妨害」や精神的にも「暴行罪」が認められることがあるので、呪いに対してはそれを適用するのでしょうが、そこが法律の「あいまい」の利点です。類する法律を持って対処するのです。時に度が過ぎ冤罪の温床ともなってしまいますが、すべての「明記」が不可能である以上、現実的な対応とわたしは考えます。

 反対に成文化されていなければ、なにをしても良いという主張に立てば、良識と常識を下敷きにある法律が敗北するということです。法が支配しない社会が「野蛮」であることは、中国と韓国を見ればあきらかです。

 盗んだ仏像を返さずに、一度は放棄した請求権を蒸し返すことが、彼らの野蛮さを証明します。古代ローマにおいて野蛮とは、ローマ化されていないことを意味しましたが、それは「法=約束」に従うか否かと置き換えても遠くないでしょう。もちろん、成文法だけではなく「信義」もそこには含まれます。

 現代日本において、私益の優先を主張する人々の罪悪は、そこまで深く考えていないことにあります。

 平成26年4月21日(月)TBSのゴールデンタイムで放送されていた

「私の何がイケないの?」

 というバラエティ番組で演歌歌手の小金沢昇司さんが生け贄にされていました。タレントなのでオファーの中身を理解した上でのことでしょうが、スケープゴートという表現しか浮かばない扱われかたでした。

 番組として「些細」と断定したできごとにたいして、イライラして怒る小金沢昇司を「更年期障害予備軍」とするための、結論ありきで、BPOに苦情をだせるレベルの内容。

 この番組はデヴィ夫人が共演した素人(接客業)を平手打ちした事件の舞台とされ、素人に夫人を挑発するように唆していたという「やらせ」が疑われていますのでさもありなん。

 小金沢昇司さんと中高生の息子との生活を紹介し、ファミレスなどで「些細」なことで、苛つくのはやめて欲しいと息子に告白させます。イライラする「些細」な内容とはこんな感じ。

1)ファミレスでタバスコ頼んだらほぼ空の瓶を持ってくる
2)アイスコーヒーのストローが細すぎて飲めない
3)店内を駆け、騒ぐガキ

 さすが「やらせ」が疑われる番組・・と、これは明示していましたが、もちろん「やらせ」で、息子と二人ではいったファミレスという設定です。

 小金沢昇司さんの対応はこんな感じ。

→普通の口調で代わりを求める
→同席した息子に愚痴っただけ
→「ぼく静かにしようね」と呼びかけ、親が反応すると、子供を静かにさせなさいと普通の声のトーンで注意

 なんてことはない内容ながら、スタジオで陣取るバカ・・・ご意見番がスパークします。

 タレントの西川史子。代表作がないので「タレント」としておきます。

 騒ぐ子供を注意したことについて小金沢昇司氏は、

「ファミレスは遊園地じゃない」

 と主張します。

 そもそも小金沢昇司氏は、年齢によって対応を変えていると主張し、乳幼児が泣くのは仕方がないが、ならば親があやすなどの対応を取るべきで、話の分かる年齢になれば注意するといいます。

 これらを言下に否定し

「ファミレスはファミリーのモノ。行かなければいい」

 と西川史子は断罪します。

 バカキワマレリです。元旦那 福・・・とこれは伏せておきます・・・が、別れて正解だったと余計なお世話を焼いておきます。私益も個人の範疇にあるウチは些細なモノですが、公共の電波で拡散するにあたって西川史子は、国家を騒乱へ導く工作員です。

 ファミレスのファミリーとは、ファミリーのためだけのレストランという意味ではありません。ファミリーでも気軽に来店できるカジュアルさと、リーズナブルさをコンセプトとしたレストランです。

 海外では

「犬猫子供お断り」

 のレストランがあり、それとの対比で、接待などの社用族や、奮発したデートのように単価が張るものではなく、家族皆で来店しても財布に優しい価格設定というコンセプトからネーミングがファミリーレストランです。

 西川史子が論理破綻しているのは「ファミリー」の定義からも明らかです。先日、読売新聞の人生相談欄で

「ずっと我慢していたけど義母の嫌がらせに耐えられない」

 という68才の義理の娘からの投書がありました。義母は90代で、「あとちょっと」と我慢していたが、もう耐えられないという嘆きではじまり、おもわず「ご愁傷様」とつぶやいたのですが、この二人の関係性は「ファミリー」ではないというのでしょうか。

 ファミリーにおける子供とは、乳幼児や児童、中高生と限るのは視野狭窄です。そもそも小金沢親子とはファミリーではないのでしょうか。それとも脱退した「北島ファミリー」なら、ファミレスを利用できるというのでしょうか。

 なにより「小金沢昇司ファミリー」には我慢を強い、番組が仕込んだ騒々しいガキと、それを放置するファミリーの権利だけは保護しろというのならダブルスタンダードです。私益を優先することを当然とする連中は、こうしたダブルスタンダード、いや「矛盾」を放置します。

 騒ぐ子供と、それを放置するのはファミリーの私益の追究に過ぎません。ならば、小金沢昇司ファミリーの私益も追究されなければアンフェアです。一方に我慢を強いて、他方は野放し。基準は何でしょうか。子供の年齢でしょうか。ならば何歳からか、あるいは

「躾の行き届いた3歳児と、わめく3歳児」

 ならどちらが優先されるべきでしょうか。子供とはいえ一枚岩ではありません。静謐を好む子もいれば、わめくガキもいます。両者の私益を確保したまま、並び立つことは不可能です。すると常識的範疇の中における静かな環境で食事を楽しみたいファミリーは、ファミレスに足を運んではならないことになります。

 結論はわめく子と、その家族の私益だけが確保されます。この一時から見えてくる結論は、私益を優先させた先に待つのはカオス(混沌)だということです。西川史子を国家騒乱の工作員とする理由です。

 さらに経済面から見てみます。西川史子論を採用し、彼女の指すファミリーとは子供を含むファミリーとします。

 仮にそうなら「ファミレス」はみな、「ファミリー」の看板を下ろすことでしょう。レストラン経営おいて理想的な客とは、さっと食べてさっと帰り、他人に迷惑をかけない客です。

 子供を許容するのは親がセットでついてくるからです。「お子様ランチ」が破格値で提供されるのは、損して得取れの精神からで、子供だけを相手にしているなら、商売になりません。あるいは子供専用施設のように「それなり」の価格設定にするしかありません。ファミレスが

「子供のもの」

 ならば、経営が成り立たないのです。

 そのとき、リーズナブルさのシンボルとして冠した「ファミリー」の文字は消えることでしょう。

 先のライブドアのときにも盛り上がった議論ですが、経済のテクニカルで述べれば

「会社は株主のモノ」

 です。叙情的には

「会社はそこで働く従業員のモノ」

 でもあります。さらに

「会社はお客様のモノ」

 も間違いではありませんが、どれか一つでは成り立つモノではありません。ならば、投資した株主やオーナーのものであり、働くスタッフにより輝き、お客様が足を運んでいただけるから営業を継続することができます。

 株主は慈善事業で、自腹を切って投資しているのではありません。「子供」だけを相手に、低価格の料理と、一定のサービスを提供しては儲かりません。

 幼児ともなれば、一人前の座席を占拠しますが、彼らの落とすカネは成人より遙かに少なく、追加オーダーもさほど期待できません。食べる速度も遅く(当然ですが)、回転率もあがりません。

 ならば株主は価格を引き上げるか、資本を引き上げるかのどちらかを選択します。

 ビジネスの視点から、もっと端的に言います。

「子供は大人のオマケ」

 に過ぎません。例えば職業体験施設「キッザニア」や、子供向け写真館「スタジオアリス」において、メインターゲットは子供です。カネは大人が払うとは言え、主役は子供であり、泣こうがわめこうが走り回ろうが、興奮しすぎてひきつけを起こしてもしったこっちゃありません。

 しかし、ファミレスは食事の場です。小金沢昇司さんが指摘するように遊園地ではありません。ならば

「子供だから騒いで当然」

 ではないのです。公益のために私益が制限されることで、社会は成り立っているという考えに立て場ですが。むろん、西川史子が目指すような騒乱社会、いや

「野生の王国」

 を是とする人にとって異論があるでしょうが、わたしは文明人であり、文明人として生きたいと願っているので、公の場で周囲の人に迷惑をかける行為は子供であっても自重すべきで、それを守れぬモノを見つければ注意するのが、文明人の先輩としての責務と考えます。

 ファミレスではありませんが、近所のスーパーにてエスカレーターで遊んでいる小学校3〜4年生ほどのガキ・・児童が二人いました。2階に用事があり、のぼった先で遊んでいたので、

「あそぶな」

 とひと言だけ注意します。買い物を済ませ、ふたたびエスカレーターに向かうと、まだ遊んでいます。スーパーボールというゴムまりをエスカレーターで転がしているのです。

 まわりの大人は見て見ぬふり。ちなみにというか、ここは数年前に幼児が遊んでいて、1階の天井とエスカレーターの間に挟まれ転落した事故のあった場所。

 ガキどもより、店員やその場にいて何も言わない大人に怒り心頭。で、はけ口をガキどもに求めます。

「君たち、いい加減にしたまへ(音声と表現を変えています)」

 と、いささか感情を込めて伝えます。一人は2階に逃げましたが、残されたひとりを捕まえて、1分ほどの説教をかましました。

 西川史子流に立つなら、子供は遊ぶのが仕事です。ならばと見逃せというのでしょうか。エスカレーターは危ないから注意して当然というのでしょうか。一方、危なくないファミレスで大騒ぎするのは見逃せというのでしょうか。

 先の番組ではクソ餓鬼(仕込み)は店内を駆けています。これ、大変危険です。頭の上から焼きたてのドリアが落下すれば、子供の皮膚なら一生残る火傷になることもあります。

 そうなった暁に「自己責任」と、引き下がるのなら構いませんが、ファミレスで大騒ぎさせるような私益優先のガキの親は、被害にあったことによる私益の損失の補填を求めるから厄介です。

 なによりファミレスで働くアルバイトが、子供に怪我をさせたと背負う良心の呵責という「損失」は誰が補填するのでしょうか。

 さらにこの番組では小金沢昇司さんの息子が、

「夜7時の門限」

 を不満と語り、門限を破ったときに、

“おまえなにか勘違いしていないか。
(中略)
 俺はもうなにがなんだかわからなくなった”

 とメールがはいることを恐怖だと結びます。

 そしてこれに対して、女優・・・なのかな?・・・の江角マキコは吐き捨てます。

「まるで捨てられそうな男みたい」

 小金沢昇司さんが息子にしがみつき、束縛しているというニュアンスです。

 それでは問います。門限は誰が決めるのでしょうか? テレビでしょうか江角マキコでしょうか。教育委員会なのか、あるいは世論調査で決定するのでしょうか。それこそ「六法全書」に明記されているのでしょうか。

 一方で夜の10時、11時、さらには未明まで出歩き悲劇にあった女子学生の親を責める声は希です。悲劇を前に非難は難しいのかも知れませんが、公益を考えるなら「再発防止」が優先されるべきで、未成年どころか青年男子であっても、深夜の一人歩きには危険が溢れており、ならば「親の責任」という苦言を「私益優先派」の誰ひとりとして口にしません。

 そのくせ小金沢昇司を非難します。仮にこのご子息の門限を、夜の11時にしたことにより、息子が悲劇にあったとして、TBSはもちろん、江角マキコが責任をとることはないでしょう。

 門限は親、ないし家族で決めること。これは家族の私益であり、深い時間に子供を放牧しないことは公益にも叶います。犯罪において加害者が悪いことは明らかですが、被害者予備軍と接点がなければ発生しない犯罪も少なくありません。

 江角マキコは他人の家に土足で上がり込み、他人の私益を乱し、その結果、公益も侵害しているのです。

 そもそも「門限を破るほうが悪い」と誰も触れません。

 大なり小なりの違いはあれども、私益優先派の発言は西川史子と江角マキコに代表されます。そしてブログ、ツイッター、Facebookで拡散します。

「公益」という視点が欠けたまま、いやそれこそが正しいかのように振る舞う西川史子と江角マキコの声が、公共の電波で拡散される時代をひとことで表するなら「野蛮」。

 文明が確実に退化してみえてなりません。

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