明日は阪神淡路大震災から18年目。
発生時刻から数えれば、もう24時間を切りました。
わたしたちは忘れてはいないでしょうか。高速道路がたおれ、ビルが傾き、長田が炎に包まれたことを。
人は悲しみすら歴史として刻み生きていくものです。
しかし、忘れてしまっては同じ過ちを繰り返します。
とかく、戦争やら軍隊となると、同じ過ちを繰り返さないとかまびすしい連中が、たった18年前のことを声高に叫ぶ姿を見たことがありません。おなじく脱原発とこれみよがし騒ぐ連中も以下同文です。
阪神淡路大震災は家屋の倒壊や家具の転倒などによる被害者が多く、津波による被害が大半を占める東日本大震災とは異なります。
我が国では、そのどちらも起こりえる、と我々はもう知っています。そしてどちらの被害の場合も、被災地に求められるのは救援物資だけではなくボランティアです。
そこで1月17日と3月11日は、全国の公立学校において
「ボランティアの日」
として地域ボランティアと、防災と被災後のサバイバル術、さらに震災後の美談などを教える機会にあてるべきだと考えます。
受験の迫った小中高の最高学年は除外する・・・というより、受験に「震災」とひと項目加えるというのも「教育」の方向性を示すものでしょう。
地域ボランティアを推奨するのも震災からの教訓です。阪神でも東北でも「地域の絆」が命を救った例は枚挙に暇がないのです。
しかし、都会ではそれが失われつつあります。
小さな話しをひとつ。一昨日の豪雪・・・とすると、東北、北陸、北海道のかたに笑われる程度に過ぎませんが、しかし、都市機能を麻痺させるには充分な量がふりました。わが家の周辺も例にもれません。
わが家の接する道路は私道で、公道からはいり90度に右におれ、奥は行き止まりとなります。雪の翌朝、行き止まりの通りに属する世帯は、各自人手をだして目の前の道路の雪かきをします。
通りが日陰と言うこともあり、放置しておいてはいつまでも雪が残るという事情もあるのでしょうが、みなの協力する姿は美しいものがありました。
そこから手前というか公道に向かう直線のほうが道幅が広く、除雪の面積が広いという点はありますが、誰もここでは雪かきをしません。ところがわたしが犬の散歩を終えて帰宅すると、珍しく隣家が除雪をしています。
珍しくと言うのは、転居した最初の冬に、やはりけっこうな雪がふり、翌朝、わたしが除雪していると
「ほおっておけば溶ける」
と、それが徒労かのようないいぐさで諭したご仁だからです。
もちろん、無視して除雪を続行しましたが。
珍しいこともあるものだと、儀礼上の挨拶だけをして、こちらも雪かきを開始するとこう話しかけてきます。
「ウチの周りだけで良い」
だれに命令しているんだこの野郎、とはいいますまい。仮にも年長者。価値観はそれぞれ。
そして彼はきっちり、玄関先とガレージを人が通れるぐらいの箇所のみ除雪して終了。
わたしが除雪するのはわが家の都合だけではありません。私道とは権利関係を脇に置けば、接する世帯との共有物、というのがわたしの価値観。だから、多少でも便が良くなればと、自宅が接するのとは反対側を主に除雪しました。あとは郵便や新聞配達のためにポストの前とか。
大袈裟に言えば「公共の精神」です。
そしてどちらが美しいでしょうか。いや、それは価値観により異なるので設問が間違えていました。こう問います。
どちらが震災時に人の命を救う姿勢か。
自宅前しか除雪しない彼はもう還暦は過ぎたかどうか興味もありませんが、つまりはそういう年齢で、例えば
「トシだから自分ちのまわりしかできない」
といったのではありません。換言すれば自分の利益の得る範囲しかやらないといったのです。そしてそれを隣家のわたしにも強要します。もちろん、これも価値観。わたしには否定するほどの興味もないことですが、しかし、子供達が将来に出会った災害において、彼らの命を救う確率を高めるのは、彼の価値観ではないと、ふたつの震災・・・いや、すべての震災が教えてくれているのです。
だから「地域ボランティア」で、助け合って生きていくということを学ぶ機会に明日、そして3月11日を「活かす」というのはどうでしょうかという提案。もう、育ちきった年寄りに期待などできません。
さらにです。佐々淳行さんがこう指摘していました。
「弱いリーダーの時に国難が訪れる」
阪神淡路大震災のときは社会党の村山富市さん。
東日本大震災ではペテン師菅直人。
いま、仮に震災がおきれば、なんとか対応できることでしょう。
安倍晋三さんに心酔しているということではなく、まだ震災の余韻も色濃く、失敗の記憶が生々しいからです。つまりは菅直人からはじまる復興対策の失敗の逆をやればよいだけのことです。
次の震災が何年後かは誰にもわかりはしません。しかし、唯一はっきりとわかっていることは、阪神から東日本までは16年ですが、その間、その前にも大規模な地震や、台風被害は起きており、この国で暮らす以上、自然災害は避けて通れず、かならず「経験者」が生きているということです。この悲しい現実を活かすのも人の知恵というものです。
そこから、災害対策の「制度化」が喫緊の課題となります。
例えば直近の大災害に接し対応した政治家、官僚などを軍隊で言うところの「予備役」として任命し、いざ緊急事態が発生したときに官邸の危機管理センターにオブザーバーとして招集し、必要に応じて現場に派遣し陣頭指揮を執らせるといった仕組みを制度化するということです。
阪神淡路大震災のとき、対応の遅れを追究された村山富市さんは「初めてのことだから」と言い訳をしました。ペテン師菅直人は未曾有の災害として辛くも逃げきりました。
しかし、もう「はじめて」ではなく、これ以上の「未曾有」は・・・あるかもしれませんが、平時の想像を超えた災害が来ることだけはわたしたちも知っています。
だから、どんな阿呆でもペテン師が、そして人でさえないドジョウが首相であっても、機能する「制度(仕組み)」が必要なのです。
そしていま、東日本大震災の被災地ではボランティアが激減しています。すべて行政で賄うには被害は甚大に過ぎます。
ボランティアブームが去ったとは言いませんが、その面は否めないでしょう。ましてや強制できるものではありません。また、ボランティアにでることで、自分の生活を犠牲にするのは本末転倒です。
そこでどうでしょうか。経団連やそうした経済団体にこう呼びかけるのです。
「採用要件にボランティア経験をいれる」
四年制大学を卒業見込みで、ボランティア経験3週間以上、被災地ボランティア優遇。と、募集要項にいれこむのです。
いま大学3年生の12月から就職活動がはじまります。過剰な就職活動を懸念して、昨年からこの活動が短くなったと言いますが、我々の頃は大学4年生の8月からだったと記憶しています。
大学は事実上、2年ちょっとしか通わずに就職を目指すということです。
少し穿った・・・いや、事実を指摘します。
「税金を貰って私腹を肥やす」
大学には公金、税金が投じられています。就職活動は私財拡大のためといってよいでしょう。税金で援助されながら、私財を肥やすためによりよい就職先、つまりは美味しい条件の企業を廻っているのが、現在の就職活動です。
大学生を責めているのではありません。そうした仕組みを野放しにしているのは大企業と役所、そして政治の問題です。
とはいえ、この流れを急激に変えることは難しいでしょう。それならせめて「ボランティア」として社会に労働力で還元させてもよいのではないかということです。
あるいは就職試験の一環として被災地でのボランティアを加えるというのも一手です。
できることはまだまだあります。
やっていないことがまだまだあります。