ゆっくりとしかし確実に日本社会は変わりつつあります。それを感じた2014年です。
アベノミクス解散による自民党圧勝も慶事であれば、アナウンス効果により「勝たせすぎなかった」ことも、民意のバランス感覚という点ではよかったといえます。
低投票率が嘆かれますが、それは国民が政治に関与せずとも暮らしていける「善政」の証で、反対の国はデモや抗議活動、果てはテロにまで発展するのですから。
また低投票率=政治不信とは短絡的。投票にいっていないものは、
「俺は投じていない」
を、行動はネガティブでも、ポジティブな精神的自己防衛をしているものだからです。
そんななかでも2014年の最たる慶事といえるのが、日本型リベラルの欺瞞に多くの国民が気づき始めたこと、それが形になりつつあることです。思想の違いはあって然るべきですが、彼らの「卑怯」なやり口が白日の下に晒され、万年布団に生えた毒キノコがしなびるように、力を失いつつあることを喜びます。
それは右傾化ではなく正当化です。自虐史観の反対に愛国心があるのではなく、愛国心は国民が抱く自然な感情であるということ。
愛国心=天皇万歳。という批判の何が悪いのかは私に分かりませんが、必ずしもそれは愛国心を意味するものではなく、思想信条の自由が認められている我が国においては、必ずしも万歳をすることはなく、十人十色の「愛国」が認められています。
自虐史観をもちながらの「愛国」もあるにはあります。しかし、自虐の度が過ぎ、中国韓国北朝鮮の主張をすべて丸飲みし、日本を卑下した時点で愛国ならぬ「反日」です。反日とは日本国の利益を損ねることを目的とする行動と位置づけています。
いやいや、日本が間違っていたのだから・・・と、この発想はそもそも間違いで、当時の価値観を現代のそれで評価するなら、光源氏が、ただの好色オヤジになってしまい、磯野家の波平がカツオを正座させ説教する様は、児童虐待と国連に通報されてしまうことでしょう。
自虐嗜好とは、謙遜とか献身からくるところもあり、一定程度は日本の非を前提としたとしても、一方で、中国や韓国の主張に一編の悪意も捏造がないかといえば、それを否定できないというのが、国民のコンセンサスになったことが、日本が変わってきている証拠です。
朝日新聞が、いわゆる「従軍慰安婦」へと繋がった「強制連行」の証言者と騙った「吉田証言」を取り消したことは、遅きに失したとはいえ当然のことながら、8月5日の「慰安婦問題を考える」という謝罪どころか反省すら見えない記事への、国民・・・読者の反発も同じくです。
一昨日、朝日新聞が招聘した第三者委員会による「報告書」が発表されましたが、特段見るべき箇所はなく、むしろ週刊誌の「既報」を裏付けるだけでした。やらないよりはマシとみるか、お茶を濁したと言うべきか迷うところです。
しかし、当該記事を書いた植村隆元記者は、
「強制連行とは書いていない」
と文藝春秋への寄稿で反論します。
確かに「文字」として「強制連行」とは書いておらず、
「女子挺身隊の名で戦場に連行された」
とあります。「女子挺身隊」が国家権力による強制でないことは遙か昔に明らかになっていますが、これを今年になって改めるまで、朝日新聞は「放置」していました。
朝日新聞的には「女子挺身隊=強制力」なわけです。これに「連行」を接続すれば、「強制連行」となるわけですが、こうした文意や文脈というものを朝日新聞の記者はもっていないという驚異の告白です。
潮匡人 拓殖大学客員教授は『正論11月号』で、
「2014年大学入試 出題数No.1 朝日新聞」
「242校 437問題 473記事」
と紹介します。
つまり、文脈からの理解という小学生レベルの一般常識すらもたない、朝日新聞記者の記事を使って、大学入試の査定をしているのですから、
「大学生の劣化」
もすすむわけで、潮原稿のタイトルも
『崩れゆく《知のブランド》 それでも入試に朝日を使いますか?』
です。
これは今月の『WiLL(2015年2月号、)』で、前回より引き続きの元朝日新聞編集委員 山田厚史氏と、櫻井よしこ氏の対談
『朝日問題で問われる日本のジャーナリズム』
からも明らかです。
今回は福島第一原子力発電所における「吉田調書」を中心に展開しますが、この山田・・・さん。思わず敬称略になりかけるほどの屁理屈の達人。
櫻井よしこ氏が朝日新聞の当該記事を引用し、印象操作を指摘するとこう返します。
“
山田「逃げた」なんて書いていないじゃないですか。
この記事のどこにそう書いてあるんですか。
”
これも植村隆式です。確かに書いていませんが、櫻井よしこ氏は見出しや記事を用いて反論します。
“
桜井 朝刊の一面トップで「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一所員の9割」、二面では「葬られた命令違反」などの見出しを大々的に掲げ、「11年3月15日朝、第1原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反して、10キロ南の福島第2原発へ撤退していた」と書いた。事実上、「逃げた」と紙面全体で言っている
”
悪意ある印象操作だと結んだ櫻井よしこ氏に、山田厚史氏は
“それは印象であって、印象で人を批判するのは良くない”
このあと「撤退」の文言を巡ってやり取りするのですが、読みながら怒り沸騰。実はこのやりとりの直前に、櫻井よしこ氏は
“私はいま、お話を伺っていて正直、腹が立ちました。”
と山田厚史氏の不誠実な・・・というより屁理屈への感情をあらわにします。
印象で人を批判するのは良くない。訳がありません。風聞による印象で判断するのは良くないですが、見たまま、話から受けた「印象」で人は、相手を評価するのです。
まして山田は「人を批判」とすり替えていますが、対象は「記事」です。文章です。末席の売文稼業としても、文章が印象を持つのは当然で、それを避けるか、強調するかで用いる文言が変わるのは、イロハのイですらありません。
ちなみに山田厚史氏の氏を省略したのは、私の感情を読者に伝えることで、彼への印象をつけるための選択的敬称略で、櫻井よしこ氏の「怒り」を、わざと話を前後させたのは「印象操作」です。仮にファクトの通り、掲載するならそれは「コピペ」というか「盗作」になってしまいます。
整理すれば、印象だけで他人を批判する問題と、印象操作を目的とした記事をすり替えて論じているのが、元朝日新聞編集委員の山田厚史氏ということです。
さらに元朝日新聞のスター記者、本多勝一氏(ヅラ愛用)にご登場願います。「中国への旅」など「南京大虐殺」を喧伝した御仁です。
週刊文春が一連の朝日新聞糾弾(バッシングではない。根拠も必要性もあるので)のなかで、
「サンゴ事件 女性戦犯法廷…松井やよりと3人のホンダの遺伝子」
と題する記事で、本多勝一氏を「南京大虐殺30万人説」を流布させた人物として紹介し、朝日新聞で連載した「中国の旅」の一節を紹介します。
“歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで二ヶ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された”
そしてこれに対して、この問題を追及し続けている拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏が
“この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者三十万人などは、まったくのデタラメです”
と断じます。
ちなみに日本軍の攻略が始まる前の南京の人口は20万人。そこで語られる「虐殺」の方法は、中華文明圏ではよく見ますが、日本史において見つけるのは困難です。そしてこれはいわゆる「従軍慰安婦」への扱いや、関東大震災における朝鮮人虐殺説にも通じます。
藤岡氏の指摘に「週刊文春」が本多勝一氏にコメントを求めると
“私自身による調査結果としての数字を書いたことはありません”
と回答を寄せたと、ここまでは2014年9月4日号(8月28日発売)。
本多勝一氏のコメントは、一見して反論しているようですが、藤岡信勝氏の指摘を追認しているに過ぎません。
つまり何が言いたいのかといえば、
「“本多勝一調べ”、と表記していないのだから、三十万人という数字を報じたことに責任はない」
ということなのでしょう。こう断じる理由は、先の藤岡氏のコメントに対して、「週刊金曜日」の編集部から届いた公開質問状にあります。
全6項目からなる質問の前半分は、中国人からの聞き取り調査であると記していたことを知っているかというものです。
藤岡信勝氏は「裏付けもなく執筆」と指摘しており、聞き取り調査の明記は筋が違います。藤岡氏は「新聞記者・新聞報道として裏付け取材の不備」を批判しているのであって、聞き取りだからと見逃されるのなら、井戸端会議を裏付け取材をすることなく、一面トップにでも掲載するのが朝日新聞だという告白となります。
もっともこの姿勢は、福島第一原発の事故における「吉田調書」報道で、現場の作業員への裏付け取材をしていなかった事実から、社の体質とみるべきで、本多勝一氏が悪びれもしないのは、裏付けを取らないのが朝日新聞の報道姿勢だという、すなわちこれが
「ジャーナリスト宣言。」
の正体です。あるいは語句の有無を問う間違い探しです。
いや、これすらも「そうは書いていない。言っていない」と否定するのが「朝日新聞流」なのでしょうが、普通の読解力をもっていれば理解できることです。
公開質問状を受けて、藤岡氏と本多氏は「往復書簡」において、議論を深めることとなり、前後編の2回にわたり「週刊文春」に掲載されましたが、このやり取りが実に卑劣。日本人がここまで卑怯になれるのかと感心するほどです。もちろん、本多勝一氏への賞賛(笑)です。
都合の悪いことは「週刊金曜日 編集部」で、主張は編集部の本多勝一担当のA記者に語らせ、本多勝一は相づちを打つだけで、操り人形というより、当事者でないはずが積極的に議論に参加するその姿は、民間人を装い銃を放つ便衣兵のようです。
A記者とは「朝日新聞記者」で、それは「元朝日新聞記者」である本多勝一氏のメタファーが生み出したバーチャルな人格、すなわち「自作自演」ではないかと睨んでいます。
これについてこちらで詳しく解説しております。
『本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺』の真実』に露呈する朝日新聞の読解力
http://www.miyawakiatsushi.net/?p=3348
本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺』の真実<完結編>
http://www.miyawakiatsushi.net/?p=3422
取材を通じて何人かの朝日新聞記者を知っており、熱意と情熱と相応の日本語力を持つ若者も知っています。その一人など、
「貴紙と考えが異なりますが」
と取材依頼を断っても、そこはそれとして、お話を伺えないかと食い下がる厚かましさはむしろ頼もしく、ネット関連は明るくないと恥じながらも、私が話した内容の裏とりを丁寧に行い、可能な限りの真実を記事にしていました。
ここでいう可能な限りとは、ネット関連は民間事業者による営業活動の領分が大きく、グレーゾーンが実に多いのです。それを灰色とはいいませんが、グーグルの検索結果など、一民間企業の「内規」です。
またグレーながらブラックと断ずる法律がないものが多く、「ファクト=事実」を捉えるにも、守秘義務や内規で規制されており、最後の一歩はウィキリークスのような手段を使わないと白日の下に晒すのは困難です。
数々のネット関連におけるメディアの取材を受け、その記事を見てきましたが、どれも踏み込みが浅いなか、ほぼ満点をつけてもよい、と上から目線で評価できるほどの記事を書いた朝日新聞記者もいました。そこでは当然グレーについては、「文脈」からの攻撃も忘れていませんでした。
しかし、一方で朝日新聞社内から、現役の朝日新聞記者から、植村隆元記者が、文藝春秋に寄せた手記へ
「それは屁理屈」
と断罪する声が上がらないところにこそ、朝日の病の根深さがあります。
このように一般的な読解力をもっていれば、理解できることすらできないことを「恥じ」とせず、往生際の悪いOBらを、その紙面を使って断ずることができない朝日新聞ならば、もはや報道機関としての幕を下ろすべきでしょう。それを2015年に期待します。
あるいは「朝鮮日報新聞」と看板を掛け得て再出発なら、コメディー映画でもサイバー攻撃で封殺しようとする、彼の国らしい「報道機関(プロパガンダ)」としての活路が開けることでしょう。
来年の朝日新聞に注目です(笑)。