入学式優先を肯定する理由と見え隠れする背景

子供の入学式に出席するため、自身が担任を持つ学校の入学式を欠席した女性教員について賛否が分かれています。

公に尽くす精神を重んじる右側からすれば、論外と断じることでしょうし、有給休暇を取得しており、それをもって労働者の権利だという左巻きの意見もあります。

極右雑誌「WiLL」を愛読するほどですから、右旋回気味のわたしながら、本件については女性教員の行動を肯定します。

理由を述べる前に、事件の全体像を見ていきます。

主役となる女性教員は50代と報じられています。そして、勤務先は「埼玉県立松山高校」。これは騒動に火をつけたひとり、埼玉県議会議員の江野幸一氏(刷新の会)のFacebookへの投稿からの参照です。

事件を報じる左傾化推進洗脳番組 テレビ朝日の「モーニングバード」では、

“高校にもなれば副担任などもいて、分担することで機能する(要約)”

と識者の言葉として紹介しますが、発言者は埼玉県教育関係労組の人間。さらっと左へ舵を切るのがこの番組の特徴です。

たしかに小中学校と比較して、「保護」の面から見た担任の重要性は低いとは言えますが、思春期も終盤を迎え、人格形成において、公的な大人の代表とも言えるのが高校においての担任教員で、わたしの同学年のあるクラスは、まもなく30年が過ぎようとしているのに、当時の担任を招き「クラス会」を開いています。

教員が仕事を休んで駆けつけた、愛息の入学式とは・・・高校です。それも日時が重なるということは、同じく公立高校の可能性が高いといえます。そもそも「受験」、いやそれ以前に「志望」の段階で、今回の事態は想像できたはず、というのは一般的社会における常識的見解。

事件を報じるワイドショーや、そこに居並ぶ電波芸者=コメンテーターも、発言に苦慮していたのは、「高校の入学式」だったからで、街角の意見としても、小中学校ならわかるというものがあったようにです。

親なら行きたい。なるほど、これを否定はしません。入学式に参加したい「親心」は、子供がいないわが家でもわかります。実際に甥を預かっていた頃は、彼の高校の入学式に参加したものです。

甥の晴れ舞台を見るというより、彼の入学した高校はちょっと変則的な定時制だったので、どんな客層・・・もとい、ご学友かとチェックするため・・・とは、これも一種の親心なのでしょう。

ただし、仕事を休んでではなく、スケジュールを調整できる自由業の強みを発揮してのこと。仕事と天秤に掛けるほどではない・・・とはわたしの価値観、それを押しつけはしません。志望した時点、つまりは、半年以上は前に分かっていたことならば、それは確信犯と言うことで、そういう価値観の50代の女性なのでしょう。

先のモーニングバードでは、ネットで物議を醸す名人、岩上安身氏がもったいぶって、事件の背景として、母親がシングルマザーかどうかも重要だと語ります。文脈から見れば、片親なら、ふたり寄り添って生きてきた証として仕方がないというもの。

ところが両親が揃っている一人っ子。父親は仕事で入学式に行けないので、母親だけでもとなったとのこと。岩上安身氏は二の句が継げずにおりました。

岩上安身氏が語るところによれば、彼の両親はともに大正生まれの教員とのことで、公職を優先する「時代だった」とのこと。

とても重要な指摘です。そう時代が変わった・・ようなのです。

余談ながら同番組出演していた、これまたトンチキな発言に定評のある高木美保氏。もしかしたらと断りながら、50代の女性で一人っ子ということは、これが

「最後の入学式になる」

という思いから駆けつけたのではないかと。でも、それは小学校でも中学校でも幼稚園でも同じです。馬鹿ですね。どうせなら、子供が不治の病に冒されていて、晴れ姿を見る最後のチャンスだったのではないかとまで言えば良いのに。

個人的な事情は報じられていませんが、公益より私益を選択する教育方針で、母親は高校教師の公務員、すると推測に過ぎませんが、父親が同業の可能性も捨てがたく、ならば進学は射程にはいっているのではないかと。

ま、なにをいっても私益を優先させる風潮も、岩上安見氏が述べるように時代によるのならば・・・いいじゃん。というのが女性教員の行動を肯定する理由です。

つまり、教員は「(教)師」ではなく、授業をナビゲートする添乗員であり、バスガイドさんと同じサービス業。ならば私益のための有休取得は労働者の権利です。

職業に貴賎はなくバスガイドさんを馬鹿にしているつもりは毛頭ありません。教員を日教組が目指すような「労働者」の地位に再定義しているに過ぎません。

労働者だから私益を優先させるというのではありません、私益の優先も公益の優先も個人に委ねられており、どうぞご自由にということであり、但し、尊称とも言える「先生」などの肩書きは利用せず、サービス業の従業員として、それはマクドナルドのスマイル0円のお姉ちゃんのように、あるいは「ワタミ」の店員のように接すれば良い時代になっただけのことです。

バスガイドやマクドナルドの接客担当者に「先生」とつけるのも面倒なので、ならば教員からその呼称を免除するほうが、合理性は高く、ついでに彼らを特別視する世間の価値観打破を目指すということです。教員が聖職でないなら、入学式に有休を取得しても責められることはないでしょう。

私益を優先すると広言するものに、人を導く資格などありません。愛息の入学式が大切であるように、勤務先の高校に入学した生徒の親御さんにとっても入学式は大切で、そこに思いを馳せれば行動は自ずと制限され・・・ないのでしょうね。

なぜなら、己の権利は主張し、他人の権利に鈍感とは、この女性教員の行動そのままだからです。

校長、教頭(副校長)、担任の存在はどうでもよく、我が子だけが存在すれば良いのなら、それは「入学式」ではありません。子供から見ればどうでもよい「来賓挨拶」にしても、その学校のOBや関係者など、いわば「支援者」であり「応援者」をほったらかす人物像です。

ちなみにこの「来賓」とは「本業」を休んで駆けつけるノーギャラの大人たちです。名を売るための議員もいますが、町会長やPTA会長のなかには仕事を休んでいるひとも少なくありません。

女性教員は50代ということですから、ざっと見積もっても四半世紀前後の教員生活を続けており、こうしたセレモニーへの敬意をもっていないということ。わたしの常識においての人間性を疑うわけですが、日教組の組合員ならさもありなん。

一部には有給休暇を受理した校長を非難する声もありますが、本当に日教組の組合員なら、校長如きに拒否することは困難です。

一止羊大さんの『学校の先生が国を滅ぼす』に詳しいので、興味ある方はご一読を。
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4819110721

この騒動で報じられない重要なファクターは「組合(日教組)」です。

人を教え導く立場には、一定の責任が求められます。その責任において私益が制限されることは、職務上致し方ないことです。それはアイドルが食事を制限し、スポーツ選手が筋トレをするのと似ています。

教師が特別な職業であるのは、教え子の人格や人生にまで影響を与える可能性があるからです。その役名として「先生」を与え、20代半ば前後の小僧、小娘にまで、保護者はうやうやしく接していたのも今は昔。

教員は労働者。ここに立てば、入学式に休む担任など批判することすら論外です。

副担任を組み合わせて「シフト」を組めば、教育というサービス提供が損なわれることはない、というのなら中学以上は「教科担任」ですから、ローテーションを組むだけで、校長の仕事はマクドナルドの店長レベルとなり、ついでにその程度にまで人件費を削減すれば自治体の財政負担も軽くなるでしょう。

というか、「教員シフト」は機械的に組めるので、セールスフォースあたりがクラウドにてアプリを提供すれば人手は不用です。

授業のコマ数だけ、教科をナビゲートする・・・というより、これもすべて、学習指導要領に沿ったアプリに置き換え、タブレット端末を生徒に配布すれば、そもそも教員の存在も不用でしょうし、通学の必要性すら疑問となります。

体育についてはそもそも論で不用という意見もありますが、GPSと心拍数を記録する装置を内蔵した、腕時計型のウェアラブル端末を支給して、規定時間をジョギングさせればカロリーを消費させることは可能で、サッカーなどはそもそもその競技の嫌いな生徒に強要するのは人権侵害ですから即刻中止します。

私益が優先されるのです。生徒の私益だって保護されなければなりません。

だから生徒の「自主休校」だって立派な権利です。実際に都立高校ではざっくりといって、規定の出席日数の3分2が進級や卒業の条件となりますが、裏返せば3分1は自主的に休めます。

成績が伴わなければ、落第や退学となりますが、多くの都立高では、追試や補習という手厚い介護によりフォローしています。同じことをタブレット端末経由にすれば事足ります。

修学旅行はもちろん、そこでの行動の自由も生徒の権利です。いや、むしろ修学旅行は自主参加にすべきで、むろん、教員には出張を拒否する権利が与えられるので、プロの添乗員を雇います。

もちろん、民間ですからリスクに応じた費用請求がなされることでしょうから、費用は高額となり、数年と経たずに修学旅行というイベントが廃止されることでしょう。それも「時代」ということです。

担任を持つベテラン教師が入学式に欠席する行為を権利とし、時代で説明するのならば、教員が聖職でない事実も時代によるものであり、彼らの職務放棄が労働者の権利の範囲内なら責めることもできないのですから、旧態依然としたカリキュラムはもちろん、大人が振り返り懐かしむ各種イベントも見直すべきです。

ある種、教師の負担により実現していたイベントは数多く、私益を優先する教員が多いなら、心ある教師ばかりの負担が増し、それは労働環境における「平等の原則」から逸脱するので、日教組はなによりも攻撃すべき悪しき習慣です。ま、彼らの活動により、心ある教師に負担をかけているケースはいまでも多いのですが。

イベントと言えば「体育祭」などは、すべてバーチャルな世界で完結させ、先のウェアラブル端末と体感型ゲーム機「Wii U」を組み合わせた

「ハイパーオリンピック at ○○中学校」

で競えばOKです。

すると、いよいよ学校も不用でしょうね。その用地は売却するなり、地域のコミュニティにするなり再活用します。

学校の意義のひとつに挙げられる「集団生活」については、そもそも私益の優先を見逃している教員に指導することなどできません。

集団という公益のために、一定の私益は犠牲にされるものであり、その反対は絶対に成立しないことは、ソビエトの失敗が雄弁に語るからです。

担任が入学式に出席する。これすらできぬものに、集団生活など教えることもできず、つまり先の県立高校において、公益という概念は教えられることはないといこと。

これから人を雇うとするなら、出身高校にその名を見つければ色眼鏡で見るのは、わたしは教育者でなければ慈善活動家でもないからです。

というか、引いては「埼玉県」の公立高校出身者を色眼鏡で見るかもしれません。ヘイトスピーチはしませんが、警戒をするということです。自衛手段を講じるのであり、レイシスト(差別主義者)の批判は当たりません。

わたしが「埼玉県」を色眼鏡で見る理由とは、自動車の運転が荒いから。足立区も粗いといわれますが、粗いではなく荒い。一時停止はとまらないどころか、一時停止している車両を追い抜いていくのが埼玉県民・・・と、コホン。これは別件。

一年前、埼玉県を賑わせたがの

「退職金問題」

です。このときも担任を持ちながら、生徒の卒業を待たずに退職し、割高の退職金を手にしたのは埼玉県の教員たちです。不祥事の殿堂が神奈川県警なら、私益の優先が埼玉県の教職員ということです。

たった2事例ながらも、というより去年の今年で

「公益より私益」

を優先させるのは県民性(ではないと思います。友人達を見ていて)か、埼玉県の日教組によるモノかはわかりませんが、

「私益マジ リスペクト」

という傾向は明らかで、その教員に教えを受けた生徒に思想が滲むのは避けがたく、そういえば古市憲寿なる馬鹿も埼玉県民というか、埼玉県立越谷北高校の卒業生でしたね。本旨とずれるので深掘りしませんが、新年度も絶賛馬鹿拡大中の古市憲寿については、あとで「ブログ」で紹介しておきます。

話をまとめます。

教師が教員に、つまりは労働者であるなら、マクドナルドの店員と同じであり、ならば効率化を目指し合理化の対象となるのは世の常で、その過程で品質の劣化がかならずしも起こるわけでないことは、ファストフードの品質からも明らかです。

もちろん、好みはありますが、最大公約数で一定の満足を提供できているのは事実であり、教育もそれに習うなら、寺小屋から連綿と続く、学校という形態にこだわる必要はさらさらなく、ましてや労働者に「先生」という敬称は不用ということです。

昨年はカネ、今年は入学式。どちらも埼玉県でのできごと。

だから埼玉県はもっとドラスティックに「教育現場改革」ができるというイヤミを込めて、わたしはこの50代の女性労働者同士を責めるつもりはないとするのです。

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