これは採用する新聞にも問題がありますが、2014年4月7日の日経新聞が、新社会人に向けたメッセージとして、
「社会学者」
と名乗る古市憲寿はこう断言します。
「3年間くらいは給料泥棒でいい」
前置きも紹介しておきます。
“大人たちは、しばしば自分たちが若い頃のことを忘れて、新入社員に過剰な期待をしてきます。しかし、仕事は徐々に覚えていくしかありません。”
古市憲寿に多い論考なのですが、前後の文章の意味は実のところ接続されていません。最初の文書も支離滅裂。若い頃を忘れた大人が、過剰な期待とはなんでしょうか? ステレオタイプというより、昭和時代からあったカビの生えた「分かっていない大人」の典型で、古市憲寿の言葉を信じた新社会人は不幸になると呪っておきます。
過剰な期待とは「俺の若い頃はもっと仕事ができた」と解釈できますが、これがあったとするなら団塊世代が上司だった我々、そのジュニア前後のころで、いまの新社会人の上司は
「新人類」「バブル世代」
と卑下された時代で、古市憲寿の指摘は一般論になりえない、彼の脳内現実で、一般的には妄想と呼ばれるものです。
そもそも論でいえば「大人たち」とありますが、社会人は末席ながら大人です。曖昧な表現により、対大人という対立軸を作ることで、自分は読者の味方だよと思わせようという姑息さが見えます。
基本的に古市憲寿の論は、大人は分かっていないよね、というバイアスをかけないと理解できません。
でも古市憲寿はウィキペディアによればすでに29才。もうオッさんの手前、つまりは大人です。馬鹿がいいます。
“3年くらいは給料泥棒でいい”
ダメです。給料泥棒は首になります。これが通じたのは昭和時代、終身雇用を前提とした時代なら見逃されましたし、正確に言えば植木等が映画の中で演じた役柄か、あるいはバブル期の広告代理店のような極一部の企業に生息が観測された珍獣に過ぎません。
どの時代においても給料泥棒が生息する余地はありません。古市憲寿の論を信じる者が不幸になると呪う理由です。
さらに、もっとも大切なそもそも論。
「古市憲寿は就職していない」
就職していないモノが給料泥棒で良いとは、童貞が夜のテクニックを滔々と語るような愚かしさで、但しこれは古市憲寿論考に通じるもので、今話題の小保方晴子博士と同じくAO入試により慶応に進学した彼の実力を感じさせてくれます。