便利が素晴らしいという思考停止

先日、産経新聞の取材を受けました。特別なニュースでもないかぎり、今週の金曜日に「宮脇睦(42)」と掲載されることでしょう。容疑者名じゃありませんよ。多分。

リベンジポルノとネットの規制に触れたマイナビの連載を見て、声がかかり、4時間を越える長時間の取材をうけました。主に雑談ですが。

本日は

「定期購読を止めた産経新聞からコーヒーおごって貰ったぜ!」

・・・ではなく、そのときの会話からのスピンアウト企画です。

「便利はすべてに優るのか」

ネットの規制に反対の立場を取る津田大介氏は、フジテレビの『Mr.サンデー』のなかで、「三鷹JK殺人事件」に代表されるLINEやスマホによる事件に対して、これらのツールの責任とするのはおかしいといったような発言をしていましたが、それから二週間後の同じく宮根誠司司会の『ミヤネ屋』に出演します。宮根氏におもねったのか、番組を見ていたミヤネ屋ファミリー(スタッフ)が声を掛けたか存じませんが、こうやって仕事って増えていくんだと感心すると同時に

「テレビがつまらなくなる理由」

を見つけます。仕事を身内で廻しだすと進化が止まるのは、どの業界も同じです。

それはさておき、自主規制について肯定的に発言しており、微妙に軌道修正を始めたところに、テレビ業界における処世術を発見します。まるで小泉純一郎。脱原発発言を繰り返し、晩節を汚す変人のはなしです。

考え方が変わることもある。

その通り。しかし撤回したからと前言の責任が免責されるものではありません。首相時代の言動への反省を口にせず・・・と純ちゃんの発言をまともに取り上げることが徒労であるのは、国会の場で

「人生色々、会社も色々」

と言ってのけ、国民を小馬鹿にする程度の人品骨柄だったことをわたしは忘れません。そして仮に政治の師匠であっても、今の国民を迷わせる発言を繰り返すなら、切って捨てるのがリーダーの仕事で、それができない安倍首相は、やっぱりその程度の政治屋なのかも知れないとは本稿においては余談。

『ミヤネ屋』において津田大介氏は、コメントの最後に「法規制される前に」のような発言をしており、やはり法的規制は嫌いなようですが、自主的な取り組みで解決できなければ法的な対応や、公的な枠組みによる規制が求められるのが現代社会です。

津田氏は『だから WinMX はやめられない』という著書があり、「ニコニコ大百科」にはこんな記述もあります。

“ネットランナー(雑誌名、筆者注釈)においてはWinMXやWinnyなどのファイル共有ソフトを使用して、コンテンツを「ぶっこ抜き(違法ダウンロード、抽出)」する方法の詳細を解説していたこともあり、当時を知る人間の中には良い印象を持っていない者がいる。”
(同「津田大介」より http://goo.gl/3JZcJ )

つまりネットの中でやりたい放題やるというスタンスに立っています。つまり、彼の利益と信条から、規制反対は下ろせない旗印なのでしょう。

十や二十歳の頃のわたしなら頷いたことでしょう。なぜなら、知見の浅いものは、己の了見を世界の全てと信じる傲慢さに溢れ、それが故に世間の多様性を知っているつもりで真実を見ようともしません。世間には底の抜けたバカや、悪意だけで構成された人格も存在し、無邪気な冒険心がそこに重なったときには、犯意のないまま巨悪に手を染めることもあることに盲目です。

平易な言葉に置き換えればこうです。

「俺は大丈夫」

おまえが大丈夫でも、おまえは世間の全てじゃない。のにね。

津田大介氏に代表されるネット言論界が「自己責任」を好むのは、尊大なまでの自己肯定によります。これはネットに接続することで、常に最新情報にキャッチアップし、不足している情報を埋めることができるという錯覚からおこる自己肥大です。

大人になれば分かることです。自分は所詮、社会の一部でしかないことを。そして多様性を守るためには、規制が重要性であるのは何も野生動植物の話しだけではありません。安易な規制を是とするものではありませんが、社会規範に照らし、害が強いと明らかになったとき、個人の権利は一定程度侵害されることは、社会システムの上、やむを得ないことだということです。ところが、自己肥大した彼らは、自分だけは特別と考えます。

これも平易な例えで説明するなら「信号」です。

「俺は大丈夫」

と赤信号を渡る小僧だったのはわたしです。JR浜松町駅から芝大門へ向かう途中にある、片側4車線、都合8車線もある第一京浜を、平気なツラを装いながら信号無視して渡り歩いていたものです。

信号とは一種の規制です。「青信号」は通過して良いという前提で社会が成り立っています。通過する車両がいなければ、赤信号を横断しても良い。一見合理的に聞こえますが、車両の有無を確認するのは警察でも評論家でもない独断です。「見落とす」ことの予見可能性は高いといえるでしょう。

反対のケースを考えてみましょう。実は我が町、足立区では最近、自動車、バイク、ついでに自転車による、信号無視が街角の体感値として増加しております。都内100カ所目となる「竹の塚警察」ができてから、状況は悪化の一途を辿っていると断言できるのは、抜き打ち的な取り締まりや巡回パトロールを見る機会が減少しているからです。

愛犬の散歩に、ほぼ毎日通う見沼代親水公園は東西に長く、公園には一方通行の側道が併設されています。わが家からは、この一方通行路を越えて公園に辿り着くのですが、ここが信号のある交差点で、早朝昼間を問わずに信号無視をする車両がいます。

一度などは横断歩道を渡るわたしを避けるように、信号無視しようとした土木作業員風のオッさん(同年輩)と口論になったものです。明らかに横断歩道まで乗り上げているので

「信号無視はダメですよ」

と注意すると

「してねぇよ」

と回答。

「いや、しようとしていましたよね」

「ちげーよ、バカ」

「バカとはなんですか」

という問答で、私の発言に一部脚色があるのは、いま流行の誤表示です。文章にすると品性を疑われるようなやり取りを午前6時まえからしており、オッさんは最後に

「そのうち刺されるぞ」

と捨て台詞を吐いて逃走。こんなとき、暴力が許される社会だったらなどと夢想だにしません。と言っておきます。

犯罪者(信号無視、道交法違反)の論理はこうです。

「誰も渡っていない」

そしてこう補強します。

「誰にも迷惑を掛けていない」

違います。

「誰かが渡ってくるかも知れない(危険予見性)」

「誰かに迷惑を掛けているかも知れない(未必の故意)」

に目をつぶっているだけに過ぎません。

車両は鉄のかたまりです。E=mc2は知らなくても、速度が出ている原付バイクだって凶器になることは常識です。だから「信号」という規制が存在するのです。

闇雲な法規制にはわたしも反対します。しかし、闇雲に法規制に反対することは、鼻持ちならない自尊心と傲慢の発露です。

と、そこまで自覚的に規制反対論者が言っているとは思えません。国家による規制を「軍靴が聞こえる」と、なんでも戦中の体制に結びつける思考停止の連中を除けば、奴らの発言の底流に見つけるのはこれです。

「すこしぐらいいいじゃん」「俺だけなら大丈夫でしょ」

甘えです。幼さです。幼児と同じです。こうした主張をネット関係者に散見することをわたしは「幼児化」とし、ネット選挙に絡めて指摘した拙著『食べログ化する政治』はキンドルストアにて絶賛発売中です。・・・失礼。

都合良く主張を左右し、立場を前後させるのも規制反対派に多い特徴で、先のニコニコ大百科を再び引用すれば

“WinMXやWinnyなどのファイル共有ソフトを使用して、コンテンツを「ぶっこ抜き(違法ダウンロード、抽出)」する方法の詳細を解説していた”

ということはコンテンツの著作権という概念そのものに反対の立場であったはず。にもかかわらず津田大介氏の「著書」は紙媒体で販売され、印税分を値引きしたという話しは寡聞にして知りません。これはかつてネット業界のオピニオンリーダーだった梅田望夫氏に通じる、

「他人の権利はフリーへ。自分の権利は確保」

という日本型社会主義者(これは日本の識者の大半なので、津田氏や梅田氏だけの特徴ではありません)によくみる姿勢です。

さて、「便利」はすべてに優るのか。脱線したのではなく、規制を反対する際に用いられるとき、反対派がすらりと抜く伝家の宝刀が「便利」だからです。

スマホにしてもLINEにしても「便利」は止められないという前提に立ち、彼らは発言します。三鷹JK殺人事件にしても、以前の広島高専生集団リンチ殺害事件にしても、LINEがあったから起きた犯罪と悲劇です。

ところが「いまどきの学生はLINEの便利さを捨てられない」となにより「便利」が素晴らしいものであるという思考停止の上で議論するので、正しい結論などでるわけありません。議論の初手に思考停止しているのですから。

冒頭の記者との雑談・・・取材の中で、

「紙かデジタルか」

が争点となりました。わたしは、紙はなくならないという立場。いまとまったく同じ風景が100年後にも存在するというほどセンチメンタルでもありませんが、特に日本においては

「狭い国土に狂気の物流網」

が構築されており、書籍や雑誌だけでなく、ノートやコピー用紙も容易に手にでき、千年を越える紙文化があります。

「グローバル化=米国化」に過ぎず、米国における1書店がカバーする面積は、東京都に匹敵するという統計もアリ、書店は衰退傾向ですが、コンビニ、キオスク、古書店に加え、新聞宅配網という手元に紙媒体が届くシステムがある日本において、そう単純に紙がデジタルに置き換わることがないというのが私の主張です。

ついでにいえば、わたしが浜松町駅前で信号無視をしていた四半世紀前から「ペーパーレス」と叫ばれていましたが、いまでもオフィスは紙の山で、半世紀後も減ってはいてもゼロにはならないと睨んでいます。

記者はこう反論します。

「デジタルネイティブの時代になったらわからない」

記者は同学年で、彼のほうが半年ほど年長で、人生において一日の長はありますが、一流新聞社にはいったということからも大卒は明らかで、低脳の高卒社会人デビューのぼんくらながらも、社会に関しての洞察力には少し自身があります。

なるほどと間を置きます。たしかに飛行機で人が空を飛べるようになることを知らなかった江戸時代の人々が、現代社会を創造するのは困難でしょう。だからテクノロジーの発展により訪れる社会を、現代の価値観で判断するのは間違いだという主張に一理はありません。論理的なようですが、実はこれ「過去は低脳、未来は優秀」という進歩史観という前提に立ったひとつの見解に過ぎません。

ギリシャ神話のイカロスのように、人類は物心ついた頃から空を目指しており、ジェットエンジンの原理は分からずとも、空を飛んで移動するという現実を目の前にすれば、江戸時代の人々でも、高所恐怖症を除けば、現代人が思う以上にすんなりと事実を受け入れたことでしょう。

すでに日本国が証明しています。当時の日本人にとってはオーバーテクノロジーだった「鉄砲」の効用を理解し国産化し、世界に名だたるバルチック艦隊を撃破したのは、半世紀前には黒船に怯え、ちょんまげを結い、チャンバラをしていた日本人です。

つまり、逆も真成りで、オーバーテクノロジーにより、全く別の社会が生まれるということはないのではないかと見ることもできるのです。着物が洋服に代わり、釜戸が電気ジャーとなり、米食がパンやグラノーラに変わるコトはあっても、食事を取るという習慣はなくなっていないように、未来とは過去から現在を経由して、到達する延長にしかないということです。

食べなければ死ぬ。だから未来でもご飯を食べている。そりゃそうです。しかし、昭和時代の子供達は、未来の食事は「カプセル型」になると夢想していたものです。ひとつぶで栄養を補給できるから、食事の時間が減り、またとても美味しいので満足もする。小学館の学年誌かなにかで見た記憶があります。

いまの「サプリ」はこれに近いものがありますが、それではサプリだけを選択する人がどれだけいるでしょうか。百歩譲って「カロリーメイト」だけを死ぬまで食べ続ける人だって、そうはいません。

やはり大多数の人は、いまでも時間を掛けて食事を摂取しているのです。

実際の会話では数秒後に、デジタルネイティブ発言について、わたしは記者に聞きかえします。

「それでは究極のウェアラブルデバイスなんだと思いますか?」

ウェアラブルデバイスとは身につける入出力装置のことで、メガネ状のグーグルグラス、腕時計型のサムスン「ギア」など次々と登場するなか、究極となればこれしかないと間髪いれずに自作自演、自問自答で答えます。

「脳波」

便利の究極とは「脳波」による機器の操作であり、さらに踏み込めば「脳波」を直接「入出力デバイス」とするのです。

「考え」ただけでネット検索を始め、頭に浮かべただけでメールが送信されるのが「出力デバイス(装置)」です。もう、マウスもキーボードも不用です。

入力デバイスもやはり「脳波」です。視床下部に届いた情報と同等の電波を脳に送ることで、映像を直接脳神経に送り込みます。文章も同様に言語野ないし、前葉頭にダイレクトに流し込みます。ディスプレイが不用となれば、デジタルネイティブもペーパーネイティブも関係ありません。

すると昭和時代の「カプセル型食事」出良いでしょう。栄養を補給すれば良いので、エナジードリンクのようなタイプが合理的かもしれません。味覚を楽しむのも、脳に直接その刺激を送ればよいので、ガチョウを土に埋めてフォワグラを作る必要もありません。※いまはこの作り方はしていないそうです。

運動も同じ。感覚全てを脳内にダウンロードできるので、代表選手の視点や感覚、もちろん疲労感や痛みという情報はカットして、ワールドカップを体感できます。

こんな便利な社会はありません。もちろん、勉強する必要はありません。古今東西の「叡智」を直接脳に取り込めるのですから。知識だけでなく「判断」は、脳波でネットに接続して過去のデータベースから最適解をダウンロードすれば解決します。これまた「集合知」と呼ぶのでしょう。人は類型化した答えを選択するだけで生活することができるようになります。

そして便利を追究した先に待っているのは

「究極の規制」

です。類型化=パターン化からの選択とは、それ以外の破棄をい意味し、限られた選択肢の中からしか選択できない究極の規制です。

本稿においては「自我とは何か」と取り上げると、議論が拡散しすぎるので、あえて置き去りにしますが、はてさて「脳」へのダイレクトアクセスという究極の「便利」を得た人類はどこへ行くのか。

脳波と聞いた記者はなるほどと頷きます。そこでいま挙げた一連の説明をしてからマッチポンプに否定します。

「人はそこまで便利を望んでいない」

代表例が

「骨伝導スピーカー」

です。いまは亡きキャリア「Tu−ka」で発売されたガラケーに搭載された機能で、骨を通して音が聞こえるので、騒々しい環境でも相手の声がしっかりと聞こえるというものです。あたまの内側で響くや、体から聞こえてくると言われていました。

キャリアとしてのTu−kaの実力不足もありましたが、人が便利を無条件に望むなら、すべての端末に採用されたことでしょう。いまはイヤホンなどで提供されている程度です。

冷静に考えれば分かります。

「嫌いな上司の声まで体の内側から聞こえてくる」

のです。大好きな異性の声、目に入れても痛くない愛娘の声なら最高でしょうが、伸びっぱなしの鼻毛を想像する上司のだみ声が体に響くのです。嫌です。営業マンなら、客からのクレームの電話を文字通り「体で受け止める」など洒落にもなりません。

便利というのは必ずしも正しいとは限らず、すべての人が望むものではないということです。ちょろちょろテレビに登場する津田大介氏や佐々木俊尚氏は、ネットを肯定し便利を前提としての語りが多く、それが一般人に支持が拡がらない理由です。NHKの深夜枠といったマニア向け時間帯なら需要はあるでしょうがね。

いきつけの眼鏡店では、希望の強制視力にしてくれません。例えば0.1を切っているような視力の人が、はじめてメガネを作る場合、0.6〜0.7ぐらいといったような矯正視力を奨めています。

それでも日常生活には充分で、反対に急に「見えすぎる」ようになると、目が痛くなったり、頭が痛くなったりするというのです。どうしてもと言えば、商売ですから矯正視力を上げることは可能ですが、「見える便利」とは人それぞれ違うのだというのです。

「便利はすべてに優るのか」

ネットはそろそろ規制すべきという立場。だからネットの便利はすべてに優ることはない、と提言します。

というより、そもそも便利は人により基準が異なる曖昧なもので、これを基準に社会システムを捉えた先に待つのは恐ろしいまでの全体主義で、社会の多様性などなくなります。一般的な便利の定義とは最適化、効率化されていることを意味するからです。

コンビニとファミレスという便利の前に、街から食堂が消えたように、大規模ホームセンターの登場により金物屋は店を畳みます。

八百屋なども青息吐息。これを時代の淘汰と呼ぶ人もいます。ならば、誰もがイトーヨーカドーやイオンに雇われる社会が健全な未来だというのでしょうか。すべての飲食店はガストとなり、街のパン屋はセブンイレブンに吸収合併されることがこの国に明るい未来をもたらすのでしょうか。

規制=官僚の既得権というのは思慮の浅い思考停止に過ぎず、規制とは弱者保護の性格を持つこともあり、ネット規制、スマホ規制は青少年の保護育成のためにおいて実施すべきなのです。

この視点に立てば「便利」はなにより優先されるものではないという結論が自明となります。

そして最後に「デジタルネイティブ」が社会の大半となったら・・・そのとき「本」を読む人がどれだけ残っているか。

読書離れはデバイスの問題ではありません。時間を潰し、余暇を楽しむのに「便利」なテレビやDVDにゲームに淘汰されつつあります。

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