山梨県の中央自動車道笹子トンネルで天井板が崩落し多数の犠牲者がでました。被害にあわれた方のご冥福を勝手に祈るとともに、突然の悲劇に接する近親者を思えば言葉が見つからないのですが、原因究明が進むなか、点検の不備と同時に「経年劣化」の可能性が挙げられています。
古代ローマ人はとにかく道を作った国家でした。塩野七生さんによれば、古代の舗装道路とは現代の「高速道路」に値するもので、軍の移動に商取引、また情報伝達に役立ち、これこそがローマの覇権の基礎となったと言っても良いでしょう。
古代ローマ帝国は、軍をすすめる際に、特に戦略的意味がない限りは、同時に道路も敷設していきました。いまも軍隊の重要な仕事のひとつに道路造りがあります。進軍も撤退も容易となり、敷かれた道は補給路にもなるからです。
軍が利用しないときは民間が使います。これがヨーロッパ各都市の「ローマ化」を助けます。
そして古代ローマの最盛期、新路線の敷設はもちろん、彼らが重視したのは「メンテナンス」でした。往時を偲ばせるイタリアの石畳は、「メンテナンス」をサボったなれの果てで、古代ローマ人がみれば子孫のずさんな管理に嘆息することでしょう。一種のコンクリート舗装が施されたり、通行しやすいように絶えずメンテナンスされていたのです。
で、当時は金持ちや有力者、もちろん皇帝などが、私財を投じて行われており、名誉を得て社会に還元する行為でした。しかし、キリスト教が台頭するにつれ、私有財産や公共財への考え方がかわります。
古代ローマ人は人が統治する世界を生きましたが、キリスト教は神が支配する世界を説きます。すると公への奉仕より、神へ奉仕が正しい行いとなるのは自然な流れです。
帝国の崩壊を宗教だけに求めるには無理がありますが、公への概念の変化というのは21世紀のいまに通じる教訓であるということです。
中央自動車道の笹子トンネルは昭和52年に開通。いまから35年前となります。いまのところ、ここだけの事故ならイレギュラーケースということもいえるでしょう。
しかし、コンクリートにも耐用年数があることを忘れてはなりません。鉄筋コンクリートの住宅で47年が税法上の「資産価値」が認められている期間で、48年目から「無価値」となります。
もちろん建物が倒壊したり蒸発したりするわけではありませんが、資産として勘定できないということです。また、現場の声としても50〜60年程度と言われております。こうした数字はコンクリートが風化していく性質からの概算で、空気に触れる面の塗料の有無や、設置されている環境で大きく変わります。
ただ、湿度の多い日本では、海外ほどの耐久性をコンクリートが発揮することは難しいといわれています。
そしてコンクリートが使われているのはトンネル内部だけでないことは誰もが頷くところでしょう。
すぐに連想できるのが「高速道路」の本体です。阪神大震災をうけて橋脚など、耐震補強工事が行われましたが、コンクリートそのものの劣化に耐えうるかには疑問の声が上がっており、今年の3月から都心を走る首都高速を中心に議論が進められております。
「安全が第一」
この言葉を真っ向から否定することはナイーブな日本人には困難です。
わたしなどは生きていく上にリスクはつきもので、それをコミとして損得を計算するという立場に立ちますが、世論(せろん)がそうでない以上、フワッとした民意の導く結論に落ち着きます。
トンネル事故の原因は特定されていません。しかし、より安全と安心を求める声は高まるでしょう。
さて、この費用はどこからでるのでしょうか。これまたフワッとした民意が花開いた小泉純一郎内閣時代に、民営化された道路公団から中日本高速道路株式会社(ネクスコ中日本)が生まれ、管理運営を行っています。道路の持ち主は「独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構」です。
議論が分散するので費用負担をネクスコ中日本だとします。費用は料金に転嫁されます。安全のためなら仕方がありません。その費用は高速道路の利用者だけではなく、高速道路を利用する物流網の輸送コストとして家計を直撃します。
ことはトンネルだけではありません。建設から40年を超えた首都高はもちろん、地域にかかる橋や道路もコンクリートを用いていないものを数える方が早いでしょう。
いわずもがなで安全が第一。首都高は首都高速株式会社が負担するなら首都高料金で、公共道路なら税金となります。
かつて、コンクリートから人へと叫んだ政党がありました。フワッとした民意は彼らを絶賛しました。
で、コンクリートは風化していきます。批判するのは容易いことですが、戦後復興は彼らのお陰とわたしは手を合わせます。
風化したコンクリートが刃となって21世紀の我々を虎視眈々と狙っています。
それではどうするか。メンテナンス費用を誰が負担するのか。
ところがフワッとした民意は、自腹を切るのが苦手です。
そこで安全のために「取り壊す」というのもひとつの選択肢としてあがることでしょう。どうせ人口も減っていくのです。道を減らし、橋を減らせばメンテナンス費用を圧縮し、事故のリスクを大幅に減らせます。
都心を走る高速道路がなくなることで、あぶれた車両は地上に流れ渋滞は激化し、環境悪化が起こったとしても、それは先の話でアリ、眼前のコンクリートが落下よりはマシと考えるのがフワッとした民意です。あるいは環境悪化が起こらない自動車の開発・・・目下の最右翼である電気自動車が普及するから問題ないのかもしれません。
それではその電気について「脱原発」を争点と真剣に語る政治家がいます。この主張を共産党にだけは認めています。ぶれないという点において、主張が間違えていてもぶれないという一点においては正しいという、レトリックの教科書のような党で、最近つくづく考えるのはいまだに共産化を画策する彼らは
「世界文化遺産」
として登録すべきではないかと。
話を戻します。脱原発がなっても電気は足りる。現時点においてはわたしはこの主張に汲みしませんが、電気自動車の普及はより電気を消費するライフスタイルへ移行することを指します。
余剰電力を利用するから・・・という主張は論外。太陽光発電が夜間に向かないのは小学生でもわかる話です。また太陽光発電は雪や雨にも弱く、補完する意味で夜間の余裕ある電力を使い、水を汲み上げて、日中の足りないときにそれを落として水車を廻して発電する揚力発電の重要性は今後より増すことでしょう。
また日中だけしか自動車は使わないということはありません。物流網は24時間稼働しています。
つまり単純な話しです。
電気自動車の普及は電気消費量の総量を押し上げるのです。
マイカーを規制すれば良い。もちろん、これも論外。便利な都会に住むモノの傲慢です。
先の主張を仮に「脱コンクリート」とします。脱コンクリート社会では橋は撤去され、高速道路が次々と閉鎖されていきます。より不便になる交通網の上に、超高齢化社会が訪れます。
政治家がいわないのでわたしが代弁しますが、これからの50年は「自助」の時代に突入します。行政が回す手がなくなるからです。自分の身は自分で守り、自分の力で生き抜いて行けという時代です。もっともこれは「当たり前」の話しですが。
そのときの足回りとして「マイカー」の重要性はより増すでしょう。国交省が「超小型モビリティ導入に向けたガイドライン」を発表したように、シニアカーと軽自動車のあいだぐらいのイメージのものとなるかも知れませんが、いずれにせよ老人が病院に通うにも「自力」が求められるようになり、すると
「電気の力」
はより重要性を増すのです。ついでにいえば、介護補助や自立補助のギミック(外部装置)の研究は普及段階にすすんでおり、もちろんこれも電気で動きます。
先日ラジオ番組でこんな話がありました。
「契約アンペアを下げたから、計算しながら電気を使う」
節電やエコというポジティブな論調での紹介でしたが、はるか昭和を知っている身としてつましい話しです。電子レンジどころか、電気ストーブと一緒に炊飯ジャーのスイッチを入れると、ちょうど炊きあがる直前にブレーカーが飛んだ記憶が蘇ります。
若いウチは良いでしょう。年寄りになり、立ち居振る舞いすらおっくうに感じても、アンペアの計算を続けるのでしょうか。いや、そうしなければならない世の中になることをいま、フワッとした民意は選択しようとしているのです。
しかし、脱原発も脱コンクリートにもわたしが汲みしないのは
「豊かさに浸っている側からだけの視点」
だからです。いまの豊かさを前提にすべてを論じます。アンペアの話しも豊かな元気をもっている自分が前提です。
安倍自民党政権誕生を期待して円安に進んだこともあり、日経平均株価は堅調に推移しています。製造業にとっては朗報ですが、円安とはエネルギーの購入価格の上昇を意味します。どっちが勝つかの綱引きですが、原価は必然的に上昇しますので、企業の利益が削られれば、国民の生活が圧迫されるのは必定です。
そして貧しくなってからでは遅すぎることを、いまだに中流の呪縛から逃れられないフワッとした民意は気づいていません。
時々テレビ番組では「貧乏」をテーマにした家族の特集がなされており、まともなかたからみれば、どうしてと思う場面も多く、それが制作者の意図なのですが、どうして? とは豊かな側からの発想なのです。
貧乏人ほどサラ金・・・消費者金融でお金を借りるのと同じです。大銀行は貧乏人にお金を貸してくれません。目先の小銭に困っているので、中長期の視点でお金の流れが見えなくなるのは、川の流れに似ています。
その流れに身があるときは、次から次へと押し寄せる水のちからにあらがうことがすべてで、わずかなさざ波さえも生死を分ける激流に思えるものです。
ところがボートに乗り、橋の欄干から川面を眺めれば、穏やかだったりもしますし、すぐ脇にある浅瀬に対比すれば死ぬことはない。これが豊かな側からの発想。
卑近な例えをするなら、ボックスティッシューは5個パックで買えば一個あたりはお得に買えるというのが豊かな側からの発想で、まとめて買う金がなければ、割高でも一箱ずつ買わなければならないのです。
ここで駅前で配っているポケットティッシュを貰えば良いというのも同じ。地方都市では配っておらず、数年前の製紙価格の高騰の際は街中からポケットティッシュが消えたことがあります。このときは「買い負け」ですが、貧しさとはものがなくなる状態と同義です。
脱原発、そして脱コンクリート社会で貧しく不便になる・・・とわたしは見ています。橋下徹日本維新の会代表代行は、市場原理に任せれば脱原発となりフェードアウトと強弁しますが、脱原発が参考と挙げるドイツの高い電気料金については言及は意図的に避けています。
そもそも少子高齢化で日本が貧しくなることは誰もが認めることです。生産人口が減少し、社会的負担となる老人が増えるからで、これを人口オーナスといいます。原発とは関係がありません。
わたしは貧しさを知っています。そして貧しさにも「程度」があることも知っています。
脱原発を叫ぶ人はこういいます。
「未来の子ども達のために」
同じ台詞にわたしはこう付け加えることでしょう。
「どれだけの貧しさで留めるのか」
悲観論ではなく現実からの推定で、超豊かな国からそこそこ豊かな国を維持できるのか、かなり貧しい国になるのかの選択こそが政治の現実。
なのですが、各党政策を読んでいるとライトノベルを読んでいる気分になると言ったらライトノベルに失礼ですね。