若者の時給は500円でよい

先週の進まぬ復興については、下書きにおける5分の1に過ぎず、落語における「マクラ」の予定で書き始めたら筆が止まらず、とりあえず「前編」ということで結びました。

というわけで今回は「後編」。サクサクいきます。

復興について触れなければならなかったのはこの真理からです。

「復興は景気対策」

阪神大震災以後の復興特需をあげるまでもなく、被災者の悲しみに目をつぶれば、建築需要が景気を刺激します。いや、被災者の生活再建のためにと施策を急げば、それが結果的に景気を刺激するという図式です。

ところが景気は下向き局面に入ったなどと日経新聞は報じます。
被災地からは「いまだ進まぬ復興」と嘆き節が聞こえます。
その解決策として紹介したのが、自民党的な利益誘導型政治主導です。

被災者のために・・・とボランティアは考えるでしょうが、現場の人間は飯のためにツルハシを持ちネコを転がします。人はパンのみに生きるに非ずといいますが、パンがなければ飢えて死にます。そして多くの人間が欲望を満たすために生きています。社会的制約の中でと当たり前のことを断っておきますが、これが人間世界の現実です。

だから欲望を刺激する「利益誘導型」が起爆剤となり得るのです。

かつて敗戦の焼け野原から、いや、黒船襲来以後の日本では欧米との違いを見せつけられ、貪欲に坂の上の雲を目指して駆け上がりました。戦争へと突き進んだものと、奇跡的なスピードで世界第2位の経済大国に登り詰めたものは同根にあります。

それは飽くなき欲望です。そこには「誇りを満たす」という欲望も含まれますが、いずれにせよ果てなき欲望を満たすために必至になって働き学んできたのです。それを当たり前として、そういうものだと。

ところが21世紀にはいり、この考えが過ちであることが徐々に明らかになってきました。

「欲望には限りがある」

ことに我々は気づかなければなりません。

生まれたときから、食べるものに不自由せず、一人一台のゲーム機をもち、思春期になるとケータイをゲットし、同時に気になり始める衣服もファストファッションの台頭で、子供の小遣いの範囲で楽しめるようになりました。かつて一泊二日で1000円したレンタルビデオはDVDとなり、価格は一週間で100円に下落し、長電話による電話機の占有による家族からの苦情と、高額となった通話料も、スマホとLINEを組み合わせれば不要です。また、ネットにしてもディスプレイの大型化は今や昔。5インチにも満たないスマホの画面でもとりあえず見られれば良いと、更なる快適さを求めることはありません。

便宜上、「いまどきの若者」と表現しますが、実際には社会全般に言えることです。よりよいものを食べ、よりよい服を着て、大きな車に乗り、さらに便利な生活を・・・求めるために投じるコストと比較して、無理することなく入手できる便利で満たされているのです。

いまどきはそれで良いんだ。などと分かったふりなどしません。

わたしはわたしの都合でものをいます。

より高見を目指す社会的コンセンサスをいま再構築しなければこの国の没落は想像以上に早く訪れ、わたしの老後が不安です。

少子化で子供が減っています。つまり未来の大人が減っています。その少ない大人が「そこそこ」しか目指さなければ、社会はより低きに流れていきます。もちろん、人は幾つになっても変わるコトができ、社会の没落に気づいて、いまの若者が変革する時が来るかも知れませんが、その難易度は年齢を重ねる毎に高まるのです。

つまり、早ければ早い方が良いのです。

そこで提案です。

「時給を下げろ」

アルバイトの時給を一律下げます。いや「最低時給」を撤廃すべきです。

この10月になって、東京都では最低時給がまたまた上げられましたが、その理由がふるっています。

「最低時給でフルタイム働くよりも、生活保護世帯のほうが所得が多い」

日本はいつから共産主義国の宣言をしたのでしょうか。単純に生活保護の支給額を下げれば済む話です。すると貧乏人には死ねというのかと、北九州や札幌の悲劇を例に挙げるのですが、あえて問います。他にどれだけの悲劇があったのでしょうか。

ことしの5月で211万人を超える生活保護受給世帯、および断られたなかでの死亡者や、重篤な病気にかかった人はどれだけいるのでしょうか。

一方で、わが地元では生活保護を貰って優雅に暮らしているのはひとりやふたりではありません。彼らは買い物カゴ一杯に買い物するぐらいの余裕が余裕であります。

福祉は今回のメインテーマではないので、ここまでとしますが、感情論を先に立てると、事態の本質を見失うのは脱原発と同じ構造です。

時給を下げましょう。その理由に「労働強度」があります。

いまファミレスでは包丁どころか、火も使わずに料理を提供するところがあります。セントラルキッチンと電磁調理器の普及発展によるのですが、食器洗浄機もいまや常識です。そしてこの近所の時給ですが時給900円ぐらいは貰えます。

四半世紀前となりますが、今は亡き「すかいらーく」でわたしはレタスを切り、キャベツの千切りをし、フライパンをあふり、オーブンで火傷をしながら貰った時給は510円でした。食洗機の能力も低く、手洗いとなることもしばしばですし、覚えるのはマニュアルというより「レシピ」でした。

レジ打ちにしても今やPOSです。ピッピッとバーコードリーダーをかざせば集計し、最近レジは預かり金額を指定すれば、お釣りまで自動で用意してくれるきめの細かさです。

すかいらーくの次に、近所のスーパーマーケットのレジ打ちをしました。なぜか男子はわたしだけでしたが、配属に文句など言えません。そして「手打ち」です。遅ければ客のおばさまが舌打ちします。勤務の終わりに清算して50円以上の誤差があれば、すべての記録を確認したうえで始末書の提出を要求されます。それで時給は570円。

高校3年生の頃、洋食屋のような喫茶店では、開店前の仕込みを任されるようになっても時給は750円です。

「労働強度」とは同じ対価での仕事の難易度です。そこで比べれば、いまのアルバイトは時給を貰いすぎているのです。

しかも今は物価も下がりました。

かつて100円ショップは粗悪品しかなく、牛丼といえば吉野家の400円だけでしたが、いまはすき家なら280円。カラオケボックスに不良でもない中学生が小遣いでいける時代にいまはなりました。

すると先の「牛丼」を指数とし、事実上昭和最後の年となった昭和63年の750円と、現代の900円を比較すると、

昭和63年 750円÷400円 = 1.875
平成24年 900円÷280円 = 3.214

とう図式になります。この式は1時間労働して摂取できる牛丼量をあらわし、昭和時代には2杯目のお代わりを遠慮しなければならなかったものが、現在では朝昼晩たべても60円のお釣りが貰えるということです。

凍った海老を流水で溶かしながら皮むきをして海老フライの下ごしらえをし、牛刀を操りキャベツを千切りし、涙に濡れながらタマネギをみじん切りにしてハンバーグを仕込む技能を有していても、1時間働いて食べられる牛丼は2杯目に届かなかったのです。

いまはセントラルキッチンから小分けに包装された袋を専用のカッターで開き、レンジでチンして皿に盛るだけ、それで牛丼を朝昼晩と食せます。いまのファミレス勤務を一方的に楽だとは言いませんが、昭和時代との労働強度の比較からすれば貰いすぎに見えるのです。さらにホール、いわゆる給仕の仕事も、ドリンクバーの出現で「コーヒーいかがですか」とまわる仕事もなくなりましたし、ランチタイムをみても、かつてほどファミレスに客が入っていません。

だから「時給を下げろ」と。具体的には時給500円ぐらいでも充分かと。思いつきの暴論ではなく、先の「牛丼指数」で揃えれば、900円の時給は525円となります。

さらにサラリーマンの2011年の年収は409万円で、ピーク時の1997年が469万円ですから、13%の落ち込みです。するとアルバイトの時給も連動して下げれば、正確な数字ではありませんが求人広告をやっていた感覚値で、1997年のごろの時給は東京都で850円ぐらいでしたから、そこから13%下げると、時給は741円です。

※実は850円とはいまの東京都の最低賃金です。当時は景気回復局面で、永らく据え置かれたアルバイトの時給が若干上昇傾向だった・・・とは、街角の体感値です。

ちなみにニューヨークの最低賃金は7.25ドル。1ドル78円計算で日本円にして565円です。なにかというと国際比較を持ち出すのなら、こうした数字も正しく報じて欲しいものです。

アルバイトイジメをしたいのではありません。アルバイトの時給が「無能」でも高いことから技能アップへの意識が高まらず、労働生産力の中長期の低下を招き、同時に被災地復興を妨げているからです。

論を進める前に、時給500円にするメリットから紹介します。

街角の個人商店や零細企業が気軽に雇用できるようになります。人手が欲しくてもアルバイトの相場が上がったために、それを支払えずに、デフレ圧力と下請けイジメから価格転嫁もできず、家族総出で凌いでいる小さな会社が人を雇えるようになります。

そして人件費は製造コストに直結しますから、価格競争力を得るコトで輸出に有利に働きます。

失業しているよりも働いている方が、人は自己実現の欲求を満たされるので社会全体に活力が生まれることでしょう。良いことづくめです。

ちょっとまてよと声がします。あまりにも我田引水に過ぎやしないかと。時給500円では生活もできないと。するとワーキングプワはより拡大し、無理して働くことで過労死の問題も云々。

なにを勘違いしているのでしょうか。時給500円というのは固定相場ではありません。わたしは比較的リバタリアン的な発想をするもので、断言できるのは社会主義者や共産主義者ではありません。

つまり「標準時給」として500円としても、雇用契約における時給は自由に決めれば良いのです。

70才の高齢者でも時給600円に見合う労働をする方は沢山いますが、900円となると格段に減ります。しかし、900円の時給の若者をふたり雇うより、600円で70才の高齢者に3人来て貰う方が助かる職場もあります。

すると働くことで人生に張りが生まれ、余暇を持て余して病院通いをする老人も減れば、福祉と社会保障の両面からのサポートが時給を下げるだけでできるのです。

いま老人の働く場所は絶無といっても良いでしょう。そこで孫の面倒を押しつけられるのですが、子供が嫌いな老人もいますし、幼児のエネルギーは老人が受け止めきれるものではありません。もちろん、児孫の面倒をみるのが生きがいというのならそれを選択すれば良いだけのことで、否定はしません。

ただ、民主党政権が打ち出した「子供は社会が育てる」という精神に照らすなら(笑)、祖父母が健在で孫の面倒を見てくれる家庭は、子供を気にすることなく仕事に打ち込め、他方では子育てにエネルギーを費やすこととなり、ここから広がる経済格差は深刻です。

そこから提案するのが「じじばば保育士」。時給は安く設定することで、保育園や幼稚園の負担を軽くできます。彼らの主な仕事は「見守る」こと。話し相手になり、昔話をするなら、若くぴちぴちした保母さんよりも適任です。少なくとも、お迎えにきたパパと不倫することもないでしょう(これ、本当に多いと聞きます)。

働き口が見つかれば、子供に都合良く孫の面倒を押しつけられているジジババを救うことができ、ついでに僅かでも報酬を支払え、労働の悦びと、社会参加の自己実現を与えることができるのです。

これも「自由な時給」が前提です。我が町足立区がそうなのですが、高齢者を一定の給料で雇うには、区からの助成や、区の仕事を請け負う業者でないと実現できません。しかし、このやり方では行政の負担が増すので、永続的に続けられる政策ではないのです。

若者の雇用に視点を戻します。時給500円なら大企業も喜んで積極採用を始めることでしょう。若者の数には限りがあります。すると600円を提示する企業も現れるでしょう。経験者なら750円、技能によっては800円も夢ではありません。若者が欲しいと願う企業は時給をつり上げるようになるのです。

ただし、無能な若者に席はありません。勤勉な老人、子育て期間で労働時間は制限されても、勤労意欲に溢れた主婦が優遇されることでしょう。

工場内での軽作業と一口に言っても、技能が要求される職種になると、能力差が数倍から時には10倍以上の開きがでることがあるのです。今のように最低時給が底上げされていると、能力費で数倍の報酬を得るべきアルバイトが、彼の報酬を削って無能に分け与える構図があるのです。

つまり時給を下げろとは、能力に見合った時給への転換です。
時給900円で10人を雇うよりも、時給2000円をふたり雇い時給500円が10人なら、総人件費は同じまま雇用は二人増え生産効率が高まることもあるのです。

これは格差ではありません。能力への正当な評価です。そしていつまでも時給500円で居続けるか否かは自分の選択です。技能を磨くなり、勤勉さという評価を高めたり、よりよい職場を探して渡り歩くのも自分の選択だからです。

それでは能力のない若者はどうすれば? 無能が搾取されるのは社会の仕組みですし、それを搾取と取るか、給料を貰いながら勉強させて貰っているかは道徳の問題ではなく、成功への扉を開く鍵といってもよいですが、無能な若者問題に向き合えば、時給を下げることが被災地復興に繋がることが浮かび上がってきます。

いま、現地の現場では人手不足が深刻です。というより、土木建築業界はバブル崩壊以降ずっと続いており、いわゆる

「3K仕事」

は敬遠されつづけているのです。

実際の現場仕事は朝の8時ごろ〜夕方5時ごろで、昼に1時間、10時と3時に10〜15分の休憩があります。現場への移動に朝夕1時間を見ると時間拘束は11時間。日給10000円として、休憩時間を除けば時給は1000円となります。建築現場では上流からの値下げ圧力により、ここ十数年以上、現場の人件費は上がっていないといいます。

すると時給950円のTSUTAYAのどちらを選ぶかとなります。レンタルビデオ店なら365日エアコン完備で、運ぶ荷物はDVDが多くても20本ぐらいでしょう。店内には音楽が流れ、綺麗なお姉ちゃんや同級生が遊びに来ることもあるでしょうし、最新のヒットチャートにも触れることができます。また、バイト上がりにそのままデートに行けますが、現場仕事は一端帰宅してシャワーでも浴びなければ街になどでられません。

かつての若者は、手っ取り早く金になる方法として現場を選びました。セメント袋を担ぎ、鉄パイプを抱え、水虫の恐怖と戦いながら安全靴を履いたものです。そこには時給の格差があったからです。つまり時給が良かったのです。

ところがいまではお洒落なTSUTAYAと時給はさほど変わらず、労働強度は桁違いです。TSUTAYAの仕事を軽んじているのではありませんが、特段の能力がなくても肉体労働並みの時給が貰えるようになっている構造に問題があるという指摘です。

つまり時給500円時代になれば、労働強度や専門性、個人の能力により時給が決定し、ツテも経験もコネもなにもないけど、より多くのお金を稼ぎたい若者が現場労働で汗を流すインセンティブが生まれ、被災地復興のマンパワーが生まれるのです。

デフレ下でも、時給を安くすることで、消費活動は制限されます。先の「牛丼指数」から導き出した時給515円なら、スマホのパケホーダイを6000円として、11.65時間の労働が必要となります。900円なら6.6時間です。

これは自由経済の原理であり真理です。

「不公平」を体感することで、向上心が芽生えます。
その向上心を「欲望」と呼んでも良いでしょう。

同級生が時給900円なら1日働けば支払えるパケ代を、自分は時給515円だから二日働かなければならない、そしてこの格差は己の能力によるものと打ちのめされることができるのです。人が成長するための絶対条件は、いまの自分の状態に気がつくことです。時給を下げることで、個人能力の違いを目に見える形にできます。

そしてきつい仕事は給料が高いとしてもそれは永遠ではありません。年老いても雑務しかできないベテランは現場で軽んじられ、ショベルカーの運転など技能を身につければ、特別扱いを受け、人を束ねるリーダーシップがあれば、独立していわゆる「起業」をしていく業界です。いわば社会の縮図がそこにあります。そしてそれをアルバイトで経験するメリットは、勉強の大切さを身につけることにも繋がります。

ハッキリ言えば現場の連中にたいした学歴はありません。というか勉強が嫌いな奴らが集まっています。ボーナスは餅代ぐらいしか貰えません。

そういう生活をしたくないと思えば、勉強するしかないと気づくからです。あるいは、技術技能により身を立てる大切さを知ります。

ついでにいえば現場はバカばかりではありません。バカの比率は若干高めですが、社会にもまれ向学心が芽生える人も少なくなく、博識な元ヤンキーもいます。そんな彼らが必ず口にするのが「勉強しろよ」です。おまえに言われたくないと反発できない人生の迫力がそこにはあります。

肉体労働とすると語弊がありますが、介護職などは時給を下げることを禁じ、現行、あるいはもう少し高い水準の設定にしてもよいでしょう。これは「福祉」や「社会保障」に属するので、単純な市場原理にそぐわないからです。そして時給により、労働者を誘導する効果が期待できます。

話をまとめると時給を下げることで、高齢者就労が活性化され、伴って福祉と社会保障費の減少を見込めます。安い労働力を確保できることで、中小零細企業の事業を助け、輸出競争力も増し、若者には現実を知る教育機会を与えることができ、人手不足が続く建築現場をたすけ、ひいては被災地の復興に繋がります。

ついでにいえば「現場系」の人間に金を渡せば景気刺激にもなります。毎日くたくたになるまで働くと、美味い飯をたらふく食べたくなり、腹が満たされれば次の欲求も高まり、身体を使っているので体力は豊富で夜の街で散財しはじめるからです。

これにかかる政策コストは0円です。

各地の最低時給を廃止するだけです。
あるいは生活保護制度を「適正」に運用するだけです。

それでは無能で体力もない、というか身体的に現場仕事は無理な若者はどうすれば良いのか?

だからそれは「福祉」や「社会保障」の分野で、役所的に言うなら「窓口」が違う話しです。レアケースを一般論に混ぜ込んでは結論がでません。

そもそも、無能にまで高い給料を払う「最低賃金」という発想って社会主義なんですがね。

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