「紗栄子批判」は社会現象で不謹慎狩りではない

 不謹慎狩りなる言葉が絶賛拡大中。

 熊本地震が起きているのに、笑顔の写真をネットにアップした芸能人が叩かれたとか、5百万2千円を寄付したタレントの紗栄子が批判されことなどを、過剰なネットの反応と各種メディアが切り取り、とりわけテレビは「社会問題化」を画策中。

 何のことはないASREAD(アスリード)で公開している拙稿

“『ネット世論』を目の敵にする朝日新聞”
http://asread.info/archives/2931

 で指摘した、メディアの恐怖心です。

 世論をリードしてきたというより、意のままに操れると自負していたテレビ界隈が、ネットによりその影響力を奪われていることへの焦りに過ぎません。

 それでは不謹慎狩りはないか。いやいやキャッチーな言葉の有無は脇におけば、この手の批判は昔からあること。

 ネットという公の空間で、より正確を期すなら「2ちゃんねる」により「可視化」された「庶民のひがみ、やっかみ、そねみ」であり、SNSの普及が拡散力を強めただけの話しです。

 しかもネット限定ですから、当該サイトを見ていない人にとっては見知らぬ世界の話し。この10年、啓発し続けていますが、実のところ、ネットの影響とは限定的なものに過ぎません。

 一方で「ネットの力」と騒がれる現象は、ネットの盛り上がりをテレビや新聞が再生産して拡散することで、社会現象として認知されただけのこと。

 つまり、ネットを切り取り、取りあげることで社会に紹介し、紹介したことで起きた反響をみて「ネットの影響力」と恐れおののく自作自演。実にパヨクです。

 ネットに影響力が無いといっているのではありません。能動的に情報や機会に接するネットというツールは、選択したもの以外のそれらに接することが出来ないという構造になっているからです。

 友だちとのLINEしかやらない学生が、ネイバーまとめでの炎上を知らず、プロ野球の結果速報板しかみていないなら、保守速報でのパヨクの盛り上がりに、永遠に気がつくことはないようにです。

 興味や知識の蛸壺化はネットの特徴であり欠点。

 という前提に立った上での「不謹慎狩り」。というより、この言葉を訝るのは、先の紗栄子による募金は、不謹慎ではなく

「売名行為だろ」

 という批判です。

 ね? 昔からあった話しでしょう。あるいは自己顕示欲のみの行動という批判です。

 熊本地震に接し、5百万を寄付し、残る2千円は、二人の子供の気持として、その明細を公開します。IT長者の彼氏 ゾゾタウン前澤友作氏も一千万円。資産2千億円と言われる人物にしてはとはいいますまい。

 偽善でもやらないよりはマシ。という立場に立ち、かつて萩本欽一が日本テレビの24時間偽善ショーで

「愛のない百万円より愛ある一円が大切」

 のようなこと言っていましたが、困っている人にとってはなにより先立つものが肝心で、2千円でもありがたいものです。

 ではなぜ叩かれるのか。これも大前提にあるのが

「叩くのはノイジーマイノリティ」

 つまり、うるさい少数派に過ぎないということ。SEALDsやパヨク、日本共産党に民進党もこれに属すのは「選挙結果」が雄弁に語ります。大半の庶民はサイレントマジョリティ、声を上げない多数派です。

 もともと紗栄子は叩かれる芸風で、ピザーラのCMで「エビマヨ」を踊っていた程度のタレントが、ダルビッシュ有との熱愛&結婚以降「セレブ」を気取っての活動。

 かつてなら「成金」と批判すればよかったものが、ITバブル以降、成金は重要なスポンサー様と同義となり、テレビ各局はこの手の批判を自粛した結果、「セレブ」との混同が進みます。

 そして、どんな形でも注目されるものに一目置くのが庶民。だから、芸が無く、行動に品がなく、タレントとしての余人を持って代えがたい実績がなくても活動の場が与えられます。

 さらにいえば、紗栄子は確信犯としてやっている風でもあり、あるいは批判を「やっかみ」と理解しているのかもしれず、公私ともに順風満帆のときはそう思えるもので、もっと正しくいえば批判することは彼女の利益になる

「炎上系タレント」

 と捉えれば、叩く連中は彼女の知名度アップに貢献しているジレンマというか、こちらも実にパヨク。

 だからこれを「不謹慎狩り」に含める時点で、テレビは情報を精査する能力を失っているか、寄付という良いことをしたのだから、その手法やなにやらすべてを免罪すべきであり、また、なんでも韓でも批判するネット民が間違っている! という、つまりは遠回しに自己弁護をしているかのどちらかというより、両方でしょう。尚、誤字がしっくりきたので、そのまま放置しています。

 紗栄子を叩くことを「社会現象」として捉えるなら、別の切り口でしょう。それは「人徳」。かつて日本に存在した価値観で、人は行いにより「徳」というポイントが付与され、溜まったポイントに応じて尊敬や敬意という特典が与えられるというものです。

 バブル期にはまだ残っていましたが、ホリエモンや三木谷浩史氏、村上ファンドあたりが、「金こそが正義」的な価値観を隠しもせず、のうのうとメディアで活躍し、活躍させたヒルズ族の時代に完全に失われたようです。

 核家族化、年功序列の崩壊も背景にあります。どちらも同じく、年寄りというのは腕力や瞬発力、精力が衰え、往年の世界チャンピオンでも還暦を過ぎていれば、8回戦に上がったばかりの十代のボクサーと勝負にならないのが現実です。

 経験だけはもっていますが、それが活きる職種は限られ、一般論において年寄りは、特に機械化が進んでいない江戸時代以前なら、厄介者と紙一重だったことは「姥捨て山」の伝承から明らかです。

 老人の身を守ったのが「徳」です。儒教や道教だけではなく、古代ローマのころからあった概念です。

 また、「徳」を積むのに特別な才能は不要だったことも魅力的で、さらに誰もが「徳」を積もうとすることが、社会の安定にも繋がりました。一種の「年金」といっても良いでしょう。

 欲深い因業じじい、ババアを姥捨て山に放棄することはあっても、徳に溢れたご隠居なら、死に水を取るまで世話をしたからです。会社においても同じです。徳の高さは人柄にも通じ、いつしか会社のまとめ役に推されます。

 もちろん、若くても徳の高い人もいます。

 徳というポイントは年令とイコールではなく、振る舞いや行いにより付与され、溺れた人を助け名も告げずに去って行くなどは、超特大のボーナスポイントがつきますし、バレ無いだろうと子犬を虐めるような奴は死んでしまえ! とは犬バカの遠吠えです。

 そんな価値観が絶えて久しい現代日本に当てはめてみます。

 紗栄子に人徳はあるのか。徳は100%他薦です。

 というか寄付などは徳を積む(功徳を積む)行為であり、それが批判されるのであれば「不徳の致すところ」なのであって、便乗しろとはいいませんが擁護すべきものではありません。

 功徳は影で積むものであり、見せびらかすものではないという批判には同意しますが、むしろ見せびらかす程度の「徳」しかない哀れな人と見ることもできます。

 あるいは芸能人だからできる「啓発」を目指しているのなら、隠れるのは本末転倒。希代の慈善家として知られる俳優の杉良太郎氏は、東日本大震災での炊き出しで、売名行為という批判を問われ

「そうです売名です。これまでも数十億払って売名しています」

 とケロッと答えています。これなどは芸能人や有名人でしかできない徳の積み方で、もちろん徳を積むなどという「私益」のためにおこなっていなからこそ付与されるポイントが「徳」です。

 紗栄子嬢については、先に触れた通り、修行中か哀れかはともかく「人徳」という価値観があった時代なら、まったく別の評価を受けたことでしょう。つまり、人徳という概念が、喪失した時代だからこそ巻き起こった社会現象が「紗栄子批判」です。

 重ねてとなりますが「不謹慎狩り」の対象ではありません。

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