集団的自衛権に反対する側の「問題」

 どうやら日本は間もなく戦争を始めるようです。ワールドカップもいよいよ佳境に入り、サッカーネタを拡散したいところですが、緊急事態に付き「集団的自衛権」について掘り下げます。

 時間のない方は、本稿の最後だけお読みください。集団的自衛権に反対する議論の「問題の本質」をこれ以上ないほど、分かりやすく端的に指摘しておりますので。

 今回、これを取り上げた理由は、ネットで拾ったこの情報。

“集団的自衛権「子どもは自衛隊で最低2年訓練」 中高生中心に「LINE」でデマ広がる”
http://www.j-cast.com/s/2014/07/04209659.html

 こうしたデマの拡散は左翼勢力の常套手段で、いまも朝日新聞を筆頭に毎日、東京、そして「赤旗」が活動していますが、証拠を持たないので断定はしません。

 また、記事を見ると中高生を中心に出回っているので、日教組の薫陶、もとい洗脳を受けた生徒が先走って口走った可能性もあれば、想像が事実にすり替えられるのは「口裂け女」をあげるまでもなく、都市伝説のいつものパターンです。

 しかし、集団的自衛権に反対する市民活動家などの左翼はともかく、環境活動家となのる左翼に、人権活動家という左翼はもとより、元自民党という肩書きを持つ左翼までが、事実無根の妄想を拡散しているから目もあてられません。

 一例を挙げれば、古賀誠、加藤紘一、野中広務らです。

 右から左まで「自由」な党だけのことはありますが、節操という言葉のない左翼は彼らを重宝し、また自身も左翼である元自民党(党籍があれば元ではありませんが)の連中も恥知らずに発言を繰り返します。

 集団的自衛権と徴兵制は連動しません。拡大解釈を過ぎた妄想です。

 と、その前に「徴兵制」は天下の重罪でもあるかのような論調に疑問を呈しておきます。

 まず、現代日本において、徴兵制が必要となる状況は「国防」によるものでしょう。「集団的自衛権」により、他国に侵略に出掛け、すなわち戦争をはじめるので、そのための軍人が必要になるから、というのはあまりにも戦争や戦闘という行為を知らなすぎる主張ですが、これについては一旦脇に置きます。

 それでは「国防」は誰が行うものでしょうか。日本では自衛隊です。徴兵制を騒ぐ連中の中には、安い労働力としてはいってきた海外からの移民を充てるという妄言もあれば、

「在日朝鮮人を盾にしろ、と言い出す(為政者が)」

 というものまであります。

 左翼勢力がデモで演じる「人間の盾」などがリアルの戦闘で通じるわけがありません。近代兵器の前に、人間など瞬時に肉片すら残りません。パレスチナを見るまでもなく、無人偵察機による爆撃が行われれば、地上におかれたタンパク質でできた盾など無力です。

 平時における「人間の盾」が通じるのは、相手に人間の善性を期待できるときで、一瞬の躊躇が己の死を意味する戦時においては無力です。だから「盾」は論外。

「そうではない、外国人に金を払って武器を持たせて戦わせるんだ」

 という主張もフィクションです。というか人間の本質を一顧だにしない、浅ましい拝金主義者と唾します。

 金を払えば人殺しも躊躇しない。外国人にこのイメージを持つなら、それこそレイシスト(差別主義者)です。

 あるいは漫画の読み過ぎです。

 戦争は命がけです。幾ばくかの金で引き金を引く外国人もいるでしょうが、それは多数派にはなりません。人が命がけで戦うのは、己の命や尊厳のためか、守るべき家族を筆頭とした人間のために戦うのです。

 縁もゆかりもない日本人のために、幾ばくかの金で命を懸けるコロンビア人はいません。仮にこれが数十億円となれば話は変わりますが、総数23万人の我らが自衛隊の代替をさせるならば、費用は天文学的数字に昇ります。

 在日朝鮮人についても同じ・・とはいいません。「ほぼ日本人」と自覚する人も多数いる、在日朝鮮人を十把一絡げに語ることに無理があるからです。

 ただし、いわゆる「ネトウヨ」が攻撃対象とする、日本への敵意を隠しもしない「在日」だとして、人間の盾になるか、あるいは自衛隊の代替となるかといえばノーです。

 簡単な話です。日本を守る気持ちもない連中に「武器」を渡せば、いつ暴動となり、クーデターへつながっても不思議ではないからです。敵対勢力と手を組んで、背後から銃を撃つことだってありえます。

 これは朝鮮半島が日本だった時代、朝鮮人は強制的に軍隊にいれられ、戦争に狩り出されて殺されたという主張と同じです。

 日本人を恨みに思うなら、銃を手にし、ゼロ戦に搭乗した暁には、友軍機を背後から撃墜するなり、他国へ亡命するなりの手段はあったのです。

 本当に日本国が朝鮮半島を、「奴隷的支配」していたのなら、恐ろしくて朝鮮人を軍人にし、武器を持たせ、その使い方を教えることなどできません。

 そして私が知りうる限り、この暴論によく似た状況が、米国のいわゆる「南北戦争」ですが、奴隷であった黒人を戦線に送ったという話しは聞いたことがありません。

 一部では議論には昇ったそうですが、戦争の現実をしっているものからすれば却下するのが当然の結論で、それから50年を経て参戦した第一次世界大戦でも「黒人部隊」と、わざわざ独立させた背景には、背後から銃を撃たれる恐怖があったからでしょう。

 これが戦争のリアルです。余談ながら脱走兵が銃殺刑になる理由は、部隊の士気の低下だけではなく、脱走は繰り返す傾向があり、それは「裏切り」の一形態で、別の形態として発露すれば、いわゆる後から銃で撃たれることになり、それを怖れるからです。

 徴兵制を騒ぐ声の矛盾は、妄想からも明らかになるという一例ですが、そもそも「国防」は誰がするものか、という議論が我が国ではすっぽり抜け落ちています。

 平安から数えて、千数百年「武士」という職業軍人がいたことも理由の一つでしょうが、明治から敗戦までは、むしろ

「グローバルスタンダード」

 になります。

 国防は誰がするか。答えは「国民」です。

 実際にはそれ以前からですが、古代ローマに体系立てて成立した世界常識です。

 古代ローマは永らく「市民」しか軍務につけなかったのです。先の理由を考えれば分かることです。ガリアを筆頭とした属国とは、同盟者ではあっても利害は必ずしも一致しません。

 最前線で反旗を翻されては、文字通り死活問題で、実際には何度か軍団が全滅しています。帝政に移行してから、条件は緩和され、属州民がローマ兵になることができましたが、除隊時には

「ローマ市民権」

 が与えられる特典付きで、この権利は「世襲」できます。

 ローマ市民と、将来のローマ市民が国防を担っていたということであり、この精神は現代にまで引き継がれている人類の真理と言って良いでしょう。

 だから現在も各国の憲法や法律で「国民の義務」として定義されています。

 集団的自衛権に反対する左翼連中が「諸外国」と称して引用する近隣2国の中国と、韓国にも定めされています。

※参考サイト
■【中高生のための国民の憲法講座】第28講 八木秀次先生
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140111/edc14011111000001-n1.htm

 これが世界のリアルです。すると制度としての徴兵制の是非、及び、その必要性は各国のおかれた状況で、それぞれ判断するとして、国民が国家のために戦闘に参加するというのは、

「グローバルスタンダード」

 なのです。日頃、グローバルスタンダードを騒ぎながら、国防になるとガラパゴスに閉じこもるところに、本議論の幼稚さ、すなわち

「ご都合主義」

 があるのです。

 グローバルスタンダードを礼賛するものではありません。しかし、人間の真実が、古代ローマの時代から国防を国民に義務として課してきたのです。この重みを知らないのは日本人だけです。

「話し合えば解決する」

 のは本当ですが、

「どうしても折り合えないこともある」

 のも真実で、

「話し合いを望んでいない」

 というより、

「話し合いとは、こちらの言い分を相手が丸飲みすることだ」

 という中国や韓国、そして北朝鮮のような国があり、日本の悲劇は世界で見ても異常な価値観の3カ国がみな隣接していることです。

 話し合いで解決できないとき、人が武力を行使するのは、イラクをみても、クリミアとウクライナ(と、分けて表記)をみても、比較的穏健ながらもタイのクーデターも本質的には同じです。

 特に世界の警察を自負し、ときに乱暴を働きながらも、西側諸国の倫理観を拡散していた米国が、お金がないから引退しますとオバマが告白し、世界はいま「無法地帯」になっています。

 ワールドカップが開催されているブラジルで、警察官が待遇改善を求めストライキに突入したら、掠奪事件が頻発したような状態に、世界はなっており、この警察官は職場復帰を拒否しています。

 この状況で「国防」への手を打つのは当然です。

「ならば個別的自衛権で良いのではないか」

 と、そもそも論でいえば、自衛権に個別も集団もありません。

 もっとも分かりやすい「集団的自衛権の必要性」が分かるエピソードを披露します。

 永田町では近所迷惑な集団的自衛権反対の抗議活動が続けられています。立てられた幟の名前や、いでたちを見れば

「左翼の活動家」

 であることは一目瞭然ですが、相変わらずここに触れる報道は皆無です。活動家と紹介することはセクハラなのでしょうか。

 さておき、あの活動の参加者から、任意の一人をぶん殴ります。さて、このとき、その周辺にいる本人以外の活動家は、暴力をふるったものを放置するでしょうか。

 きっと「殴り返す」ことでしょう。
 これが「集団的自衛権」です。

 それとも「集団的自衛権」に反対する連中は、仲間や家族、恋人が暴行を受けたとして、一目散に逃げ出し、警察に駆け込むというのでしょうか。

 しかし、世界の警察官は長期のストライキにはいっています。

 ならば「無抵抗主義」のまま殴られ続けるのでしょうか。左の頬を殴られたからと、右のお尻を蹴ってくれとお願いするのでしょうか。

 戦争は極限の狂気ともいわれますが嘘です。常に日常の隣にあり、だからこそ平和でいるためには不断の努力が欠かせず、それがゆえにリアルなイマジネーションが要求されるのです。

 身近な事例に置き換えればわかる話ですが、左翼は理想論と机上の空論を前提とし、暴力から目を逸らすので現実を見誤ります。

 これが「集団的自衛権反対」の正体です。

 そしてこれこそが、日本で一番わかりやすく、本質をえぐる

“集団的自衛権反対が間違っている理由”

 へと繋がります。

 「集団的自衛権」に反対する人々は、日頃から憲法9条があれば戦争は起こらないといっている連中です。共産党はもとより、社民党に、民主党と生活の党。新聞なら朝日、毎日、東京に、一部、日経新聞。著名人では坂本龍一に大江健三郎、落合恵子。

 かれらを本件において評価すればこうなります。

「戦争の素人」

 あるいは

「戦闘の痴れ者」

 彼らはそれを誇ることでしょう。

 別の事例に置き換えると、こんな感じ。

“ロックを知らないものが、うるさい音楽反対という”
“酒を飲まないもの言う、飲み会は意味がないよね”
“殴り合いしたことないものが語る喧嘩根絶論”

 ロックはうるさく、世界を救わないかも知れませんが、何人もの人生を変えてきました。わたしは数多くの人生の真実を酒席で学びました。

 殴り合いは暴力の虚しさと、本能的快楽が潜むことを教えてくれます。是非を問うのではなく、すべて人間の真実です。

 集団的自衛権に反対する連中を見る限り、普段から「戦争」というリアリズムに向き合っていません。むしろ避けています。その結果、知らないのです。だから、集団的自衛権=徴兵制へと論理がワープします。

 そして「政権再再交代」により自民党を引きずり下ろせば、集団的自衛権を「解釈再変更」できることに口を閉ざします。つまり、現実の政治や、選挙の仕組みについても、反対派は無知だと言うことです。

 そんな政治の素人たちに政権を預ける恐ろしさを、民主党政権の3年間の悪夢で日本人はすでに経験しています。自らの主張の愚かさに気がついていないのが、集団的自衛権反対派なのです。

 集団的自衛権に反対する連中を見れば、逆説的に集団的自衛権の正しさが証明されるということです。

 ・・・そうではなく、問題点は正しく指摘することこそ、本当の意味で徴兵制・・・もとい、戦争を回避するための議論が始まるのですがね。

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