学び育む機会を奪う憲法違反

再放送されていたテレビドラマ「3年B組金八先生2」をみてい
るとPTA代表が警察の会議室でタバコを吸っています。映しださ
れた灰皿には吸い殻が山盛りに。

こんなにタバコを吸って。あるいは「密室で非喫煙者もいるのに」
とお叱りを受けることでしょうが、これは20世紀の演出手法で
「時間経過」を表します。

携帯電話のない時代、デートの待ち合わせ時間に遅れてきた彼女が
息を切らせながら「待った?」と訊ね、「いま来たところ」と答えた
彼の足元にタバコの吸い殻が散乱しているシーンもいまなら

「吸い殻を散らかして」

と非難されることでしょう。多くの吸い殻がでるほど待たされた
ことを隠す彼の優しさも、時が経てば健康を破壊し、街の清潔を
破壊する不届きものとなります。

ノスタルジアでしょうか。不健康で不衛生だった20世紀の方が
おおらかな優しさに包まれていた気がするのは。

何度も繰り返すように、わたしはタバコを止めません。
仮に数年吸わないことがあったとしても、それは忘れているだけ
で止めたのではないと主張します。

それはひとつの哲学、

「人生とはリスクを楽しむもの」

と考えるからです。

危険な火遊びやチキンレースを嗜むという意味ではなく、人が
生きていくことにおいて「リスク」は避けようがなく、ならば
どう「リスク」を受け止め、付き合っていくかに重きを置くのです。

どう抗おうが人は必ず死にます。

もちろん、短命を望むものでもありません。できれば、まだまだ
生を許されたいと願っていますが、すべてのリスクを排除して、
適度な栄養分を摂取し、すこやかに排泄をし、安眠することを
至上の喜びとし、やがて訪れる死を待つ人生を好まないということ
です。

・・・というより、普通に生きていれば、誰もリスクにさらされ
ています。例えば満員電車。電車が脱線しないと誰が保証できるの
でしょうか。乗り合わせた見知らぬ乗客が突然変異の病原体を付着
させていないと約束できるのでしょうか。背中にたつ男が、刃物を
握りしめた異常者ではないと、あなたは断言できるでしょうか。

自動車だって同じ。悪意がなくてもドライバーが運転中に脳疾患
に見舞われ、制御不能な自動車が歩道に突っ込んでくるリスクが街
中にはあり、あなたが空を見上げた瞬間、カラスの落とし物を顔面
で受けとるリスクだってあります。

つまり過剰なリスクの排除というのはファンタジーであり、
それが実現するなら人間の行動半径は恐ろしく狭められるというこ
とです。

先の例で言えば電車に乗らなければ、いや、街にでなければ、
空を見上げなければ、リスクに出会う確率はグッと減ります。
そして幸運にも家計に蓄えがあれば

「自宅警備員(ニート)」

として生きることができるかも知れませんが、それ、楽しい?

というか、なにか本質的に間違っていませんか。というのが
今回のお題。

今年度から中学生が「武道必修化」となります。
男女ともに。柔道、剣道、相撲のいずれか。

で、軽く触れておきますが「ダンス」も必修化。同じく男女。
で、報道では「ヒップホップ」などがフィーチャーされ、
一連の報道で驚いたのが

「ストリートダンスを教えるカルチャー教室」

があること。誰かに教わるたぐいのものではないとは古い感覚
なのでしょうか。

しかし、創作ダンスやフォークダンスという、教育現場の
文脈にあるものならともかく、「ヒップホップ」・・・というか
学習指導要領には「現代的なリズムでのダンス」という曖昧な
表現で押しつけられる現場の体育教師に同情を禁じ得ません。

また子供は残酷で、対象は中1と中2という思春期の入口にある
なか、基本ステップの「ランニングマン」が「タコ踊り」となり
一生のあだ名が「たこ」という生徒が生まれないことを祈るばかり
です。ちなみに義父の中学時代のあだ名は「たこ」で「ただし」か
らの変形です。

いっそのこと地元の婦人会を招聘して「盆踊り」などの、郷土
の伝統的な踊りを伝授するほうが教育現場に適していると思うの
ですがね。沖縄なら「カチャーシー」でしょうか。しかし、
「ヨサコイ・ソーラン」は認めません。あれは地域の伝統文化を
破壊するというか、テレビと同じく、日本中を均質で平べったい
文化圏にしてしまいます。

しかし、近所の公民館で定期的にヒップホップダンスの教室が
開かれているのですが、送り迎えをする「保護者」の姿形をみ
るに、いまだ更生は遙か彼方のアンドロメダにあるような立ち居
振る舞いを見るに、ヒップホップを授業で教えるのは
モンスターペアレンツへの

「燃料投下(因縁をふっかける材料を提供するネットスラング)」

となりかねないと危惧します。

話を戻します。「武道」。

静岡県の教育委員会は、柔道の授業の安全指導指針で、全学年
で投げ技の「大外刈り」を禁止して試合は固め技だけとしました。
2010年に当時12才の柔道部員が亡くなった事故を受けての
ことです。

・・・「武道」とはなんぞや。静岡県の教育委員会には四百字
詰めの原稿用紙10枚以内でレポートを提出して欲しいものです。

ではおまえは答えられるのか。答えられます。

「人と仲良くする方法」

です。そのために

「一瞬で敵を制圧する方法」

を学びます。殺すことも破壊することもそう。「仲良く」に
矛盾するように感じるでしょうが、武道のゴールは

「戦わずして勝つ」

なのです。「制圧」のひとつの方法に

「戦意を削ぐ」

があります。その具体な例を挙げれば「威嚇」と「友好」。

「手を出したらヤバイ」

と思わせるのが前者で、

「にこやかに語りかける」

のが後者。相手が殴りかかっても、一瞬で破壊する実力を
もっていれば、わざわざ騒動を起こすよりニコリと笑顔を
交わす方が良いという考え方。単なる平和主義との大きな違い
は相応の武力をもっているという点です。

空手なら正拳突き、剣道なら素振りなど、はじめは攻撃力の
養成からはじめますが、柔道という武道は面白いもので、まと
もな指導者なら「受け身」を徹底して身につけさせます。それ
はもう飽きるまで。投げられたときに、身体が自然と受け身の
体勢をとれるようになるまで繰り返します。

裏返せば柔道の技はそれだけ殺傷能力が高いのです。

そして一般論で言えば、初心者同士で自由に投げ合いをする
乱取りは大変危険です。と、いうのは素人は受け身の取りにく
い投げ方をすることがあるからです。

経験者や有段者は初心者を投げる際、畳に背中がつく直前に
軽く持ち上げ、痛みを感じさせないようにすることができます。
いわゆる手加減です。

件の大外刈りでも「投げ捨て」れば大変危険ですが、投げ手の
左右どちらかの手が、道着にかかっていれば、頭を打たないよう
にすることは経験者なら容易です。

要するに事故は「大外刈り」によって起きたのではなく、
指導者も含めた、その環境にあったとみるのが正当です。

小内刈りでも、全体重を受け手に預けて倒せば、大変危険で
背負い投げや一本背負いなど、頭部から落とすことは簡単で、
危険であることは言わずもがなです。

寝技も同じです。「うっかり」、頸動脈を絞めることもでき
ますし、「寝技」のみの勝負を許すとしても、その入り際に
エルボーを決めることは簡単にできます。

これも、ちゃんとした指導者がいれば、あとで叱られます。
叱られた経験者がいうのですから間違いありません。

結論を述べれば「武道」を学ぶ以上、「リスク」というのは
避けがたく、というより、怪我や事故という「リスク」を管理
できるようにするのが「武道」の本質でもあるのです。

すべてのリスクをそぎ落とした武道などありません。

そして「教育」とは教え育むことです。

静岡県の教育委員会の方針は「リスク」を学び育む機会を奪う
憲法違反・・・とまでは言い過ぎでしょうか。

ちなみにというか「武道」について捕捉を。

「なかよく」というのは、もちろん究極的目標で凡人が辿り着く
ための技術を体系立て心構えをまとめたものの総称が「武道」
です。

そして日本の武道において必ず教えることは

「敵への怖れと敵への敬意」

です。相反するようですが、コインの裏と表で、この
精神こそが日本の武道に特筆すべき特徴です。

「一瞬で敵を制圧する方法」

としましたが、これだけをもとめたひとつの結論が原爆に
代表される「兵器」です。殺戮を求めるものではなく
「なかよくする方法」が武道であり、その目的理解するために
「敵」について理解する必要があるのです。

怖れと敬意を感じる一番簡単な方法が殴られること。柔道なら
投げられること。

殴られて投げられて痛い思いをすることで、恐怖がリアルに
なり、攻守を入れ替えることで敬意が芽生えてきます。

「殴られたら痛い」

これがまた「抑止力」となり、互いを尊重する人間へと
成長し、殴られっぱなしの平和憲法(笑)のおかしさに気がつく。

安倍元首相の目指したゴールはここにあるのかも知れません。

なにはともあれ「リスク」がない社会など幻想です。
学校はいつまでライトノベルでありつづけるのでしょうか。

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