「我こそは保守」と名乗る人物は左翼やパヨク、ネトウヨと同じ

「我こそは保守」と名乗る人物は左翼やパヨク、ネトウヨと同じ

旭日旗
 マイナビの記事で炎上した際、ネトウヨ、クソウヨとパヨクの方々にご紹介いただきました。残念ながら私を紹介するのにネトウヨが正しくないのは、ネットが一部の研究機関、軍事利用しかされていなかった昭和50年代の終わり頃の小学校6年時、日教組所属の担任の女性教諭と、一家で赤旗新聞を愛読する級友に

「右翼」

 と認定されているからです。つまり「ネット」を意味する「ネト」を私への評価とするのは正しくありません。IT系の人間ですが。

 また、排泄物を用いる表現の一般理解において侮蔑であるなら、右翼に冠することが正しいという価値観を共有できませんし、そもそも右翼も正しくない紹介でしょう。

 なぜなら級友が私を右翼と呼んだのは、ただの1点。

「自衛隊は必要」

 と主張したことを理由とするから。

 担任が、2時間かけての私の折伏を試み、小学生相手の言葉尻を捉えての揚げ足取りに、言葉を詰まらせはしても、それでも自説を曲げなかったことへのレッテル張りが「右翼」です。

 当時、私に同意するものは一人とていません。ま、小学生ということもありますが。軍国少年でなければ、ミリタリーオタクでもありません。性根のレベルでは虫を殺すにも躊躇した少年時代。それでも自衛隊を必要としたのは、素朴なイジメ体験からで、これは最後に。

 それでは現在の基準に照らすとどうなるでしょうか。

 平成26年度の内閣府の自衛隊に対する世論調査でも、全般的に見て自衛隊に対して「良い印象を持っている(41.4%)」+「どちらかといえば良い印象を持っている(50.8%)」の合計は92.2%となります。

 自衛隊・防衛問題に対する関心への設問では、「非常に関心がある(19.4%)」+「ある程度関心がある(52.1%)」で71.5%、「あまり関心がない(22.9%)」+「全く関心がない(5.2%)」で、関心がない層のウチ、「自衛隊は必要ないから」と答えた者の割合は3.0%。全体で見ればわずか0.8%です。

 なるほど、自衛隊への理解という点において、昭和・赤旗・日教組基準において、世間は「右傾化」していると言えるでしょう。

 しかし、尖閣諸島への中国の侵略意図や、東日本大震災を筆頭とする災害救助活動を通じての国民感情の変化で、自衛隊がいなければどうなるのかと、わずかでも考える国民が増えた結果で、これは世界においては常識に属します。

 自衛能力を持つことはいわゆる「普通の国」のこと。本来、そこに左右の違いはありません。

 いわば「正常化」を右傾化と呼ぶのであれば、右傾化と批判する人々に、思惑か問題があると考えるのが論理的程度です。つまり、小学生の私に貼られた「右翼」のレッテルも、そう貼った日教組と赤旗の愛読者の間違いだということです。

 だから「ネトウヨ」も「クソウヨ」も、私への評価としては正しくありませんが、無理に訂正はしません。私は彼らの教師でもなければ、親でも兄弟でもないからです。取りあげたのは、話しの導入部として面白いから。ありがとうございます。

 今回は右翼ではなく「保守」について考えてみます。

 右翼と対を成すのは左翼ですが、言葉自体はフランス革命後の議会における勢力分布の座席配置から生まれます。

 フランス革命は「王政」を軸に左右に分けることが出来ましたが、日本において革命に近いとされる明治維新では、江戸幕府から王政を想起させても不思議ではない天皇制へと復古しており、そのまま当てはめることはできません。

 そもそも絶対的な権力者として君臨した「王政」と「民衆」という対立を出発点とするフランス生まれの左右の対立とは、日本の国柄にはそのまま当てはまりません。世界においても、多様化が進む価値観の中、両者の線引きが曖昧になっており、日本においては、左翼の総本山であったソ連が崩壊し、分類は混沌を極めます。

 ただし、パヨクとネトウヨの思考回路は同じといって差し支えないでしょう。回転方向が右か左かの違いです。直流モーターにつなぐ乾電池を、ひっくり返せば逆回転するようなものです。

 論拠を示さず、独り合点な断定を繰り返し、暴力的な言葉に漂う選民意識に、容姿への小学生の悪口レベルの中傷や、人格攻撃を好む姿は合わせ鏡のようです。匿名の闇に身を隠し、攻撃するのも両者に通底します。

 雑な色分けとして、極左から左翼、真ん中に近づくとリベラル、中間点を超えると保守で、右翼、極右となりますが、この定義づけが日本ではそもそも間違っていると考えます。

 日本における保守とは、思想信条の真ん中に位置するものと考えるからです。中心だから偉い、というのではありません。多数派という意味です。二大政党が根付いた米国のように、左右どちらかに分かれるのではなく、ぼんやりとした主流派がいて、そこに日本の保守を見つけるのです。

 一神教の呪縛と無縁であることも理由でしょう。世界の大多数は一神教の支配下にあり、王権は神から与えられる「王権神授説」のように、神と政治、そして生活は切り離せず、キリストとユダヤ、あるいはイスラムの神々への、二股三股などあり得ません。

 その思考構造が、左右のどちらかへの帰依を求め、左翼に対して右翼が生まれ、リベラルのカウンターパートとして保守派が登場したのでしょう。

 しかし、日本人は決定的な対立を好みません。神様は八百万です。左右どちらかに、わざわざ分かれる意味がわかりません。

 ただし、人間の思考や感情は、常に一定ではなく左右に揺れ動いており、一時的に傾くことはあります。例えばサッカーワールドカップで、日本代表が勝利すると、誰もがにわかサッカーファンになるような「一方向に流れる日本人」という現象が起こりますが、しばらくすればニュートラルなポジションに戻っていくのも、どちらか一方にすがる必要がないからです。

 マスコミの多くが「保守」について語らないのは、この整理がついていないことと、マスコミ人の多くが左の信奉者で、これを知られると困る人は多いからでしょう。また「保守」を右側に位置づける方が、何かと攻撃しやすいという理由もあります。戦前を全て否定する日教組教育との、強い連動性も確認できますが、切りが無いのでやめておきます。

 論拠を示さず断定する、つまりは私見を常識と語り、私憤を公憤にすり替える論法に定評のあるジャーナリスト 青木理氏は、テレビ朝日「モーニングショー」で、米国大統領予備選挙におけるトランプ現象の解説において、こう分類して見せます。

「保守とは何も変えない人たち」

 何も変えないはずの保守派の共和党支持者が、なぜいままでと異なる路線のトランプ氏を選ぶのか? それは世界中が不寛容になっている証で、日本でも同じだと。この文脈における彼の目論見は、

「日本は不寛容な社会になっている」

 との日本攻撃にあります。青木理氏を始め、左側のジャーナリストや著名人らによる、論拠を示さぬ発言が、いちいちネット上で検証されてしまうことへの苛立ちかも知れません。

 あるいは移民排斥や白人至上主義を掲げるトランプ氏と、在特会(在日特権を許さない市民の会)による、在日韓国人・朝鮮人・中国人らの排斥に重ねているのでしょうが、それは無理筋。国内で在特会の活動は一般的な共感を得るに至っていないからです。

 韓国人も中国人の多い、我が町足立区において、外国人排斥の声は聞こえてきません。むろん、移民の受け入れ拡大などで、今後のことは分かりませんが、青木理氏の言葉は現在への指摘です。

 日本人と日本社会はいまでも寛容で、尖閣諸島はもちろん、自衛隊機をロックオンし、八丈島の沖でサンゴを乱獲し、2005年、2012年には日本領事館への投石をされていても、近所のスーパーマーケットでは若い中国人女性が、中国語で嬌声をあげ、彼女らを敵視、白眼視する足立区民はいません。

 特定の外国人による犯罪が目につくようになれば、そこへの批判が高まるのは、不寛容ではなく当然ですが、いまはまだ一部の主張に過ぎません。

 それでは「保守」とはなにか。

 ザックリと言えば、歴史や伝統に根ざした考え、有形無形の行動規範といったところでしょうか。

 ここに立って考えれば、移民の国、米国と日本が自ずと違うと気がつきます。だから「保守」と名乗っていても、米国の共和党と日本の自民党(を、保守政党とするかの議論は今回はパス)では異なるのは当然です。

 移民が建国した米国では、いまなお年間60万人を超える移民を受けていれており、トランプ氏が主張するような移民の排斥とは、先に入ったものが後から来るものを拒むということで、アメリカ人が大好きな自由や平等の原則に反します。

 ここからして従来のアメリカ人の価値観を踏襲する保守 共和党の候補者としてトランプ氏の妥当性が問われるのですが、トランプ氏は以前民主党にいました。もちろん、移民排斥は民主党も掲げてはおらず、党派の問題ではなく、ポピュリズムに長けた人物がチャンスを捉えて躍進していると位置づけるべきで、民主主義の内包する欠点が具現化したものに過ぎません。

 ドナルド・トランプ氏とは、日本においては前大阪市長の橋下徹氏と参議院議員の山本太郎氏、いま検察のお世話になっている田母神俊雄氏を足しっぱなしにした上に、高須クリニック 高須克弥院長の財力を加えて知性を除いたような存在といったところでしょう。

 ただし、米国の自由や平等は、彼らの都合で色も形も変わるものであるのは、先住民族に対しても、日系移民に対しても行われており、傲慢なご都合主義という点からトランプ氏は伝統に忠実な保守派とはイヤミです。

 日本での保守は、米国のそれとは異なります。

 そもそも本来的には「日本」という一括りにするのは困難です。なぜなら、いまは存在しないとは言え、士農工商という身分や、血筋・家柄で価値観が異なるからです。

 我が家は優秀な血筋で、家柄も高く、下銭な民とは違う。

 という高慢ちきな家庭で育ったものにとっての「保守」とは、その高慢ちきさを守ることでしょうし、新田開発で財を成した豪商の教えを受け継ぐ家庭なら、質素倹約日々是精進を家訓としていることでしょう。職人と商家、農家と漁師でも異なります。

 こうした様々な職種や考え、価値観の異なる人々が、狭い国土に1億人もいて、そこで漠然とながら存在する共通認識こそが、日本における「保守」の定義と考えます。

 漠然としながらも社会に対する倫理観や、価値観を多くの日本人と共有しているところで、風俗で言えばお正月を祝うこと、生活態度なら嘘をつかない、勤勉を是とする、むやみに敵を作らないなど。定住を好ましいと思うのも、遊牧生活の歴史が主流派でなかったからで、三方一両損的な、決定的な対立を避けたがる人が多いのも、村社会が生み出した生活の知恵です。

 そもそも「保守」というイデオロギーはなく、左翼やリベラルと言った体制転換を掲げる勢力への違和感から生まれたものですが、思想対立がない限りわざわざ掲げるものではありません。ましてや日常生活に政治活動という習慣を持たない日本人を、左右のどちらかに振り分けることに無理があります。だから、漠然とした真ん中を日本人の「保守」と定義するのです。

 むろん、「保守」とは何も変えない人たちではなく、必要があれば変えることを怖れない人たちです。

 台風が来る度に壊れた家を改良し、地震で崩れたらそれに対応してきたから、いま我々がいるのであって、収穫量を増やすために開墾し品種改良をしてきたのです。

 何も変えないという青木理氏の主張は、原理的な権威主義、伝統主義と混同しているに過ぎません。

 これは日本に限らず「保守」とは、必要に応じて変化していくことを怖れない人々です。なぜなら時代に即した変化が出来ない民族は滅んでいくものだから。現存している民族や国家は、絶えず変化を続けていくものなのです。

 日本では明治に近代的軍隊を組織するために、それまでの同じ方向の手足を動かす「ナンバ」と呼ばれる歩き方を、右手左足、左手右足と交互に繰り出す西洋式に改めていますし、海に囲まれた我が国ながらも、海水浴が普及したのは同じく明治の頃で、軍医の松本良順が健康療法として広めたという説が残されています。

 クリスマスやバレンタイン、ハロウィンなども同じくで、すでに定着しているといって過言ではなく、コスプレで渋谷の街を練り歩かないまでも、ハロウィン限定と銘打たれたカボチャ料理まで否定する人は少ないでしょう。ハロウィンひとつてってみても、日本人が相当変化してきていることは自明です。その一方、いまでもお七夜や初七日を祝い弔うように、伝統的風俗も継承しています。

 変化の速度にはお国柄が表れます。アメリカのように言葉も文化も違う移民同士が折り合うためには、即断即決が必要だったのでしょう。一方、ずっと顔をつきあわせている村社会の日本では、決断の先送りが、懸命な選択肢になることもあります。しかし、必要ならばいずれ変えます。

 保守を「なにも変えない」と定義するなら、日本国内における保守派とは「護憲派」となります。憲法を一言一句変えてはならないという人々で、左翼の大半はここに属し、青木理氏もここに属すると見ています。

 だから、青木理氏の「変えない」ことを保守派と説明することは、自らを「保守派」と名乗っているのと同義で、リベラルや左翼的な発言を繰り返す彼からすれば、論理的整合性がとれないのですが、非論理性は彼やパヨク、左翼の持ち味です。

 政治的信条においては「ねじれ」が起きているということです。これも、マスコミが保守を正しく説明できない理由です。

 そして「我こそは保守」と名乗る人物はウサン臭い。むしろそういう人は、保守や日本に独自の解釈と価値観を当てはめ、それを自己投影することで、精神的な優越を得る、選民意識のなれの果てで、国産の左翼やパヨク、ネトウヨと同じです。

 だいたい「我こそは保守」と掲げる人物は、他の保守派の論客を攻撃し、正当性を証明しようとしますが、それは左翼における内ゲバと同じ発想です。これも「ねじれ」です。左翼的な思考回路、行動様式を持つ著名人が「保守」を掲げているのです。ま、それも言論と表現の自由ですが。

 日本の保守は他人の言動に寛容です。なぜなら、決定的な対立を避けたがるのが日本人だから。

 今回「保守」を取りあげたのは、こうした「ねじれ」が各所に見られ、議論を混乱させているから。集団的自衛権しかり、憲法改正しかりです。自称保守派にはご注意を。時々、左翼の工作員じゃないかと疑う自称保守も確認しています。

 はてさて、私が自衛力に目覚めたのは、小学校1年生のこと。

 「みんな仲良く」と教師らはかけ声をかけますが、大阪府で生まれ高知県で小学校1年となり、その4ヶ月後の夏休み期間中に、夜逃げ同然で上京してきた少年の言葉にはお国訛りがありました。

 集団生活を経験し始めたばかりの同級生らにとって、異質を排除したくなるのは本能の領域で、理性や経験を通じて克服出来ていないものが攻撃することはある意味自然です。

 なまりを理由に「イジメ」られました。2年生になると袋だたきにもあい、踏みつけられ眼球打撲にもなりました。ただ、反撃が及ばず負けただけと受け止めたので心は折れていません。大騒動に発展したこともあり復讐はしませんでしたが、一対一なら、一対二ぐらいなら勝てたはず、とは希望的観測込みですが、希望は生きる糧となります。

 この経験が、身を守るための「実力」の必要性を教えてくれたのです。また、近所の児童が集まって登校する「集団登校」の同じ班、というより隣に住む、包装機器メーカーの社長令息の兄弟など、登下校の隙を見つけては、私と同学年の兄が私を羽交い締めにして、弟に蹴らせるなど陰湿な卑怯者でしたが、校内で兄が一人いるところを見つける度、実力行使で恫喝すると、それが「抑止力」になることを発見します。

 このような体験から「実行力」の必要に確信を持っており、先の発言をすると「右翼」と。同じく小学校6年生の級友だけではなく、女教師Kもやはり蔑称のように

「ミヤワキのいっていることは右翼と同じだ」

 とクラスメイトの前で罵ってくれたものです。教育の中立性などそこには存在しません。なお漢字は違いますが、教師の名前は「ぱよぱよちーんな左翼=パヨク」の語源となった人物と同じ発声の苗字でした。

 だから、右翼と呼ばれることには年季が入っており、その呼称になんら痛痒を感じません。

 人を論拠もなく右翼呼ばわりする人って、右翼って人種を差別しているんだよね。昭和の時代から。この担任や赤旗の申し子のように。

 ただし一点。当時は教師と児童、児童同士はもちろん、議論が終われば、議論を元にしたイジメや差別はなかったこと。当時の左翼はまだ「議論」ができたことを添えておきます。

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