橋下徹大阪市長が仕掛けるチキンレース

こんどの日曜日で震災から一年。

過ぎ去る日々と終わらない・・・いや、始まらない復興といった
ほうが正しいかも知れませんが・・・政府と与党は無策と迷走を
姑息な言い訳でごまかせると信じているのは国民が馬鹿にされてい
るからです。

その理由は「失言」がなければ微妙に回復する内閣支持率に表れ
ています。もちろん、これにはマスコミも加担していて、つねに

「与野党」

と同列に並べて批判し、なにかと野党に「歩み寄れ」、「協力しろ」
と苦言を呈す異常な光景がテレビからも新聞からも垂れ流されています。

そのくせ、青びょうたん(谷垣さん)とドジョウ(あれね)が

「密会」

したらしたで大騒ぎ。誰だよ、協力しろといったのは。

「いや、公開の場でという意味だ」

・・・あのね。互いに大人。それも一応組織を率いるオッさん。
交渉毎のすべてを公開にしろというのなら、マスコミと政官業の
癒着・・・もとい、下交渉や裏取引のすべても生中継して流しな
さいなという話し。どこの世界でも「言えないこと」があるもので
与野党が手を取ろうとしているのなら、会った、会わないで追究せ
ずに「中身」を問うのが、歩み寄ろうとしている人間の背中を押す
ことで、政局ばかりに話しを矮小化しているのはそのマスコミだ
というマッチポンプなはなし。

その点、橋下大阪市長がマスコミの寵児、政界再編のキーマンと
なれたのは、政治議論の場で、多くの政治屋もマスコミも「原則論」
を振りかざして自縄自縛、あるいはきれい事に陥るなか、彼は小さな
「現実論」、分かりやすい例え話をもちだして話しをすり替えてし
まうからです。

いうなれば松下政経塾出身者がMBAの経営理論を振りかざすのに
対して、現金問屋の仕入担当が

「なんぼ値段さげてくれます? どれだけ売ってくれます?」

と交渉している姿に似ています。庶民には後者のほうがわかり
やすく、前者がすべての論理的整合性をとろうとすればするほど
枝葉末節をあげつらう現金問屋の望む結論に導かれる構図です。

今回は「橋下徹大阪市長」について。

野球で言えば暴投と危険球を織り交ぜ要所を押さえ、ランナーに
意図的に牽制球をぶつけても勝利をもぎ取ろうとするピッチャーの
ような交渉能力は高く評価しますが、全国大会で覇を競えるかに
ついての評価はまだ未知数です。

しかし、橋下大阪市長は痛快です。

「クソ教育委員会 バカ文部科学省」

うん、その通り。ただ、彼の政治家としての評価が難しいのは
冴える技術論に対して、その先の国家観が見えてこないことです。

でも、これを彼に問うてはこう答えるでしょう。

「一地方自治体の首長に過ぎない私の権限を越えている」

とね。ただ、道州制の導入やら税制に口を挟んでおいて、なにお
かいわんや。でもこれが「橋下流」。

常に逃げ道を用意しながら落としどころを探るふりをして隙あら
ばビーンボールを投げ、敵軍がビーンボールを審判に抗議している
すきに直球を投げるのです。

そして権力や権力者へのすり寄りも巧みです。いや、評価軸を
変えれば卑怯者のそれで、本人が公言しているのは、ドラえもんに
登場する「スネ夫」ですが、ゲゲゲの鬼太郎の「ネズミ男」のほう
が近いでしょう。

かつて民主党をもちあげ、最近では小沢一郎を賞賛し、いまや
慎太郎ちゃんとも親しくします。

こうした人間を好む価値観は私にはないのですが、どうしても憎
めないのは、地盤も血縁も何もない人間が生き残っていくためのひ
とつの方法で、誰も助けてくれない環境で己だけを信じてきた者に
みられる特徴によるのでしょう。

二世議員はいわずもがなですが、松下政経塾のように財界人の
後ろ盾を得たうえに仲間でつるむこともなく、親の財力や人脈を
あてにできないものが、社会で成り上がるためには、恥や外聞の
敷居が低く、己を縛るものなら舌の根を瞬間乾燥させて前言だって
容易に撤回します。

そうしなければ生きていけないからです。

これをひと言で述べれば

「なりふりかまわず」

独立して社長となり、地元の企業とのお付き合いの中で、不況の
被害者とされる中小企業の経営者をみてきての総論は「甘い」の
一語に尽きます。

経営ビジョンというより、代替わりして後を継いだ二代目や
三代目社長と、彼らを見つめる初代や先代の

「中年の我が子を見守る甘さ」

です。40過ぎの息子の手を取り、足を取ります。土地が安くなっ
たからと貯金を切り崩して不惑の子供のためにマイホームを買い与え
ます。町内会の青年部の活動が忙しい息子の代わりに、昔なじみとい
う人脈を辿って先代が営業活動に勤しみます。その結果、本来いまが
働き盛りの現経営者が楽をして、経営責任と景気にリンクさせます。
また、親の世代は一定の財を成しており、アパート経営や駐車場を
持っていることも多く、食べていくには困らない収入が、彼らの
甘えを野放図にします。

もちろん、すべてとはいいませんが、こうした甘えの構造が幾重
にも積み重なったことが、長引く不況の原因とは街角からの経済観測
です。

一方、こうした後ろ盾がない人間が社会で成り上がるためには
「なりふり」など何の意味を持ちません。そして失敗しても自己責任。
最後は自分の命ぐらいしか失うものはなく、裏返せば死にたくなければ、
勝ち続けるしかないのです。負けて家に泣いて帰っても、慰めて
くれ温かいご飯を出してくれる人も、尻を拭いてくれるものがいない
ですから。

しかし、失うものが少ないものほど強いものはありません。
守りを考える必要がないからです。

そして彼が既存の政治屋や官僚に仕掛けているの

「チキンレース」

です。チキンレースには何種類もありますが、壁や崖に向かって
バイクを走らせ、どちらがギリギリでブレーキをかけるかを競うも
のの場合、早くブレーキをかけたものはチキン(英語のスラングで
小心者)と嘲られ、ブレーキをかけそびれて落ちたものには死が待っ
ています。

橋下氏が主張する「グレートリセット」など、その典型で、
どこまで既存システムをリセットできるかで勝負を仕掛ければ、
既得権を持つもの・・・だけでなく、

「現状の政治を滞りなく運営する責任がある政治家、及び官僚」

にとって不利なレースとなることは自明です。現状のすべてが
0点ではなく、しかし、100点ではないとするなかで、リセット
を認めれば、能力不足や不備を認めることになり、リセットを拒め
ば「頑迷な守旧派」というレッテルを貼られるからです。どちらに
転んでも勝ちの見えている陰険・・・巧みな手法といえます。

しかも、橋下氏は政治屋を辞めても弁護士やタレントとして
充分に生活は維持できることでしょうから、崖から落ちたとしても
彼のバイクには007並の飛行装置が内蔵された状態で挑む
チキンレースです。

ただ、政治家を辞めてタレントに転身するというのは、彼にとっ
て失礼かも知れません。なにもないところからはじめた人間が全て
を失ったとしても、スタート地点に戻っただけで、前回と違い
「経験」という武器を手にして歩み出すのですから何もタレントに
戻るだけが選択肢ではないからです。この点は選挙に落ちてから
コメンテーターが板についたどこかの芸人とは異なります。

つまり、既存の政治を生業としているものにとって、橋下氏の
仕掛ける議論に乗った時点で、勝ちは見込めないということ。
同じく、経済評論家や大学教授も。とくに学者先生は、特定の
テーマを深掘りして「教授」になった連中で、横断的に連動する
実社会の動きのように次々とテーマが変わってく議論で勝ち目は
ありません。

しかし、わたしが評価するのは「交渉術」について。
本当に国政を目指すのなら「国家観」を示さなければ。

え? 国政は目指していないっと公言している。その通り。

こうして橋下徹氏を評価しようとした時点で、私の負けなのです。

ただ、橋下徹大阪市長の言を借りれば、たかが地方自治体の
首長が、国政を揺るがしている事実が何を物語るかと言えば

「進まぬ復興への不満(電力対策も含む)」

バリバリと復興が進んでいれば、それこそ大阪ローカルのネタで
政局が絡むことはありません・・・でした。

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