映画が私を変えた 『追悼のざわめき』&小人症の妹

 映画評論家の本ではありません。コホン。「障碍者」の著者が
映画出演をきっかけに変わっていく人生を綴った実話です。

 だからといってお涙頂戴の善人話ではありません。
 ひたむきに生きたから神様が祝福してくれた・・・というもの
でもありません。

 なぜなら、「普通の女の子のものがたり」だからです。
 作中で30才を迎える女性を「女の子」と表現することへの
違和感は脇に置いて、「短肢症」と病名をつけられた女性の苦悩と
葛藤が綴られており、親や兄姉への恨みを隠そうともしないひとり
の人間がそこにいます。

 是非、手にとって欲しい一冊なので、さわりにとどめますが、
手足が人より短く、背も低いという特徴を持った女の子は短肢症と
され、親族より冷遇されます。本書にある通りに記載しますが
「片端(かたわ)」は一族の恥という親族・・・あるいは時代
だったのかも知れません。しかし、私は本質において、いまも
それほど変わっていない気がしますが。

 その女の子はひとりで生きていくことが困難でした。身体的の
不利だけではなく、社会が受け入れてくれるということの第一は
収入を確保することで、見た目によるのか、能力か、あるいは
本人の性格かはわかりませんが、平たく言えば定職にありつけ
ずにいました。

 ある日、映画出演のオファーが舞い込みます。後に80年代
伝説のカルト映画と呼ばれる「追悼のざわめき」で、レイプ、
ヌード、殺人、近親相姦にあからさまな差別と、21世紀なら
制作する困難で、寺山修司が「映画になったら事件だ」と評し
た映画です。

 女の子「まみこ」は映画出演を決意します。重大なる決意と
いうよりは「なんとなく」。

 ここまで読んで、一旦休み、止めたページを再開するに表紙を
見て、

「映画が私を変えた・・・ってもっと刺激的なタイトルでも」

 とつぶやいてはたと気がつきます。「まみこ」を特別として
みることで、刺激的という視点が生まれていることに。

 身体的特徴をエキセントリックに取り上げたがるのは、私の
物書きとしての本能か、広告屋として身についた技術なのか、
それとも無意識にある差別意識か。

 本書には「障碍者」と呼ばれるだけの普通の女の子がいます。

 可愛く、ずるく、打算的で、それは普通のことに過ぎません。

 そして読了して一日が経ち、偏見を持っていることを自覚した
上で嬉しくなりました。

 可哀想な人ではなかったことに。

 不自由ではあるが不幸ではない。

「障碍者(というレッテルが貼られている人)=不幸」

 というのは浅薄な人間の傲慢に過ぎず、そこには同じく自分の
人生という映画の主役を生きる人々がいることを知り、読後
じわじわと込み上げる「爽快感」に浸れる一冊です。

■映画が私を変えた 『追悼のざわめき』&小人症の妹
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