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    Categories: 時事コラム

色は空、空は色との 時なき世へ

他家の不幸での出来事を語る下品をお許しいただきたい。

35才のオッさんが、家業を継ぐ。高齢化社会において六十代の死を「早い」と呼ぶことに違和感を覚えるのは、自分の父が45才で旅立ったからで多分、マイノリティでしょう。そして人の死は比較対象なき、無二の悲しみ。そこに異論はありませんが、葬儀の挨拶ができただけで「褒めちぎる」ことに異様さを感じます。

同じく早世した勘三郎などは、とても感覚が現代的で、役者としての良い意味での世間ズレは感じましたが、あくまで庶民とともに歩む生き様がそこにあり、歌舞伎を崇め奉る風潮を手鼻をかんで「てやんでい」といいそうな空気をだしており、その客観視できるところに「粋」を感じたものです。ところが市川海老蔵に対してはみな上げ膳据え膳、腫れ物に触り、パンダのように眺めながら、宮家と錯覚するような慇懃な態度で接します。

この異様さが、歌舞伎離れを薦めるでしょう。エビゾー? 暴走族にぼこられて裸で逃げたやつでしょ? というのが一般人の記憶。そして失敗は失敗として、傷害事件においてかれは被害者であっても、その前後の流れは加害者としてもおかしくない酩酊ぶりで、その他のエピソードにも事欠かない「バカ息子」です。それも芸ごとと笑い飛ばすのは本人であって、まわりは社会常識を持って批判しなければならないはずが、歌舞伎界だけは不倫も隠し子も無視して、その後に産まれた正室の子供をもって「長男」と報じます。側室の子の人権などたやすく蹂躙しますが、これはまた別の話。

で団十郎の辞世。

「色は空、空は色との 時なき世へ」

これを読み上げ市川海老蔵はこう結びます。

「空を見たら思い出してください」

彼が物語の背景にながれる無常と情念に気がつく日が来るのでしょうか。どうみて般若心経にある「色即是空 空即是色」です。色は空、空は色。僭越ながら意訳をするなら、存在は虚しく、虚しいながらも存在する。つまり存在しているとは、いま一瞬の事象に過ぎず、いずれのときには存在などなきに等しき、しかし、ないとはいえど、いま実在するという「無常観」を現すものが「色は空、空は色」。つづく「時なき世へ」を字面どおりに訳するのなら、時間のない黄泉の国へいくかもしれない我が身となりますが、前段の「との」から引き継いでみると、先の無常観を踏まえた上で、なお「十二代目団十郎」として歴史の人になるのだという清々しい決意を表していると解釈できます。誠実な人柄という評価を付け加えれば、市川宗家を受け継いだ責任だけは果たしたという達成感で自分を慰めているとも取れます。

いずれにしろ、

「空を見たら」

という直接的表現ではありません。

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