国民性がでるんだなぁとつくづく。サッカーです。プレイヤーもフーリガン、いや騒擾犯もマスコミも含めて。
5大会連続のワールドカップ出場(内、1回は開催国枠)を決めたサッカー男子日本代表の「引き分け」に日本中が歓喜につつまれました・・・のでしょうか。まさか日本人の全てがサッカー好きになったわけでもあるまいに。
ましてや抜群の集客力を誇った浦和レッズでさえも、観客動員に苦戦しているJリーグを見ると、イベントとして消費されている感が否めないのが昨今の代表選です。
もちろん、にわかサッカーファン歴もまもなく20年とならんとする私としては応援していますし、サッカーファンを見かけるだけでも嬉しいことではあるのですが。
試合を総括すると、実に日本人らしい展開。ひとことで言えば
「シュートを打たない」
折り目正しく、「ゴール前」までボールを運ばないと打とうとしません。局面打開のためのミドルシュートや、無理目でも、その後の展開に任せるロングシュートなどもありません。記録に残るシュート数ではありません。相手のゴールを脅かすシュートで、ゴールの枠内はもちろん、ゴールキーパーやディフェンダーをびびらせるようなものを指します。いくつか香川や長友の目を惹くプレーはありましたが、それは当然の話。
結局PKによる1点止まり。PKは運です。決めた本田圭佑選手が「真ん中打って止められたら仕方がない」とコメントしていたように、PKはキッカーに有利とは言え、運不運の落とし子。
対するオーストラリアは対日戦のロングボールを放り込み、個体差で勝つという必勝パターンを愚直に繰り返すのみ。つまり、その反対をすれば封じ込めることができ、それはなかなか機能していたように見えました。しかし、やっぱりこの言葉が浮かぶのです。
「決定力不足」
日本サッカーを語るとき、なんどこの言葉を口にしてきたことでしょうか。そしてこれからもかもしれません。するとそれが日本の限界です。
サッカーは点を取る競技。
ところが我が国の代表をみると
サッカーは点を取られない競技。
と錯覚するかのよう。それは野球で言えば「完封」のようなもの。しかし、野球でも点を取らなければ勝てないのです。
また、エース本田。中心選手にボールが集まるのは当然ですが、あまりにも安易に集めるのは如何なものでしょうか。香川にしろ、長友にしろ「スター」がいるのですから、ボールを散らすことで、敵のマークもばらけ、その結果、本田も自由に動け・・・と、最後はできていたのでこれは、本戦出場決定に免じて良しとしますか。
シュートを打たない(イヤミ)ことがなぜ、日本人らしいのか。
ながく、本稿にお付き合いしていただいてる読者なら、ご存じでしょうが繰り返しますね。
「責任回避」
しっかりとお膳立てをした上での失敗なら仕方がない。手順の目的化です。
以前ほど、熱心に海外のサッカーリーグをテレビ観戦してはいませんが、世界のサッカーはもっとシンプル。
「ゴールが見えたら打つ」
もちろん、敵陣営は打たせないとシュートコースを塞ぎます。そこで左右に振るのです。サイドアタックや、サイドチェンジと左右にボールを動かすことで、敵を攪乱させて「穴」を作るのです。
ショートパスをつなぐのもこれが目的。だから「穴」ができれば、ペナルティエリアの外側からでもシュートを放ちます。サッカーはミスを前提とした競技です。ボールが飛んでくれば何が起こるか分かりません。また力を込めて蹴ったボールの衝撃はすさまじく、慣れているプロ選手とは言え、好んで受けたいものではありません。遠い距離からでも撃ってくると認識すれば、自由にシュートを打たせまいと、前に出てくる・・・と、まぁこれは常識。だから不安を隠しようがありません。
単純に技術の比較、体力の比較なら、日本代表は相当高いレベルに近づいていることは認めます。精神もかなり鍛えられている選手が増えてきています。10年前と比較すると、世界に通じる選手の総数が増えたことも事実です。
しかし、ほんのわずかな。そしてもっとも大切なところが不安定なのです。それが
「決定力不足」
で、シュートの力強さや、敵の守備を崩壊させるフォーメーションなどではありません。
点を取らなければ勝てない。
シュートを打たなければ点は入らない。
いわゆる「強豪国」はこの基本が安定しています。当たりまえと言っても良いでしょう。ところが我が国の代表は、この気持ちが不安定。良いときは良いが悪いときは悪い。そして「責任回避」が頭をもたげるのです。
「よりよい形でシュートまで持っていく」
これを言い訳にして。より良い形とは、よほどの実力差がないと実現できない結果論なんですがね。
そしてマスコミも実に日本人らしい。
ワールドカップ出場が決まったことは慶事です。しかし、決して手放しで誉められた結果ではありません。
引き分け以上で出場決定のホームゲーム。最低限のノルマを果たしたに過ぎません。ならば皮肉のひとつもこぼして、尻を叩くのが世界レベル。すべてのスポーツ紙をみた訳ではありませんが、わたしがブラジル人でスポーツライターなら見出しはこうします。
「神の手が日本をワールドカップに導いた! ありがとうマケイ!」
敗者に鞭を打たないのは日本の美徳ですが、本当に世界の檜舞台での勝利を信じているのなら、ここは厳しく指摘しなければ・・・と気がつき、確信に変わります。
日本がワールドカップで優勝すると信じていない。
だから、新聞が売れる、視聴率が稼げるレベルの報道しかなされていないのでしょう。巨人ファンと一緒です。勝てば正義なのです。勝利の美酒で深酒させる報道しかしない理由です。
それではワールドカップの優勝は見たいかと訊ねれば、見たいと答えることに違いありません。その頂きは願わずにたどり着ける場所ではありません。ところが、いつか、誰かが、本田がヒデがカズがの誰でもいいから、わたしをワールドカップに連れてって。
他力本願。責任回避をここに見つけます。第4の権力としての責任ある批判を回避して、イベントとして消費できるか否かのみでニュースに仕立てているのです。
さらにサポーター・・・いや、渋谷を闊歩する騒擾犯も実に日本人らしい。
試合終了直後から、渋谷のスクランブル交差点を規制しました。もともとは自然発生的にはじまった、すれ違うサポーター同士でのハイタッチやハグなどがエスカレートし、暴動規模にまでなりました。
ただし、世界的に見ると
「信号を守る」
のは異常な光景。なぜなら、勝利の喜びという感情の発露から、社会のルールを逸脱してまで盛り上がるのが海外のそれ。わざわざ繁華街の渋谷まで出向いて、信号守って大騒ぎするのは「形式美」の世界で実に日本人らしい光景です。
さらにここにも見つけるのが「責任回避」です。
騒擾犯はいいます。喜びを分かち合うと。
ならば、新宿でも原宿でも、東京駅でも東京スカイツリーのある押上駅でもどこでもできます。と、いうより、本当に「熱い」気持ちを分かち合いたいなら、試合会場となった埼玉スタジアムに出向けば、サッカー馬鹿の本気の喜びに接することができるでしょう。南北線なら都心からでも直通です。
わざわざ渋谷の繁華街に出向く真の理由に触れる前にこういう主張もあります。
「喜びを分かち合う場所がない」
バカコクでねぇ。宮下公園・・・は迷惑なので、アレとしてもセンター街を抜けて井の頭通りを北上した1キロメートル先には代々木公園があります。わざわざ渋谷まで来る労力があるなら、もう少し足を伸ばすのは造作のないことでしょう。たった1キロメートルで他人に迷惑をかけないのですから。JR山手線を利用しているなら原宿駅からの徒歩1分です。
っていうか、渋谷のような繁華街に出向かずに、近所の公園でも道路でも充分でしょう。人と分かち合いたいのなら、最寄り駅で降りてくる客を待ち構えてハイタッチをねだれば良いのです。たったひとりでも、奇異な目で見られても行うのが自然な感情の発露です。
そうじゃないよ。渋谷だから何だよ。という告白ならば、そうだよねと同意します。責任回避なんだよねと。つまりは
「みんながやっているから大丈夫」
自分だけじゃない、みんなもやっている、だから大丈夫。
大丈夫じゃないですよ。というメッセージが今回のスクランブル交差点の規制です。
マスコミが繰り返し報じ、当初は好意的に、いまでも時々好意的に報じることを「免罪符」と錯覚した責任回避。
そしてもう一つの責任回避が「マスコミでは言えないこと」。
「サッカーを通じて豊かなスポーツ文化を創造し、人々の心身の健全な発達と社会の発展に貢献する」
これはJFA=日本サッカー協会の掲げる目標。
サッカーを通じて、渋谷の街が騒乱状態になっている現状になにもコメントしない立場もまた責任回避です。肯定するのは論外ですし、否定してのファン離れを怖れているのでしょう。
しかし、渋谷の騒乱がなくなったぐらいで、サッカーファンが減ることはありません。むしろ、騒乱とテレビ局の馬鹿騒ぎに冷めた視線を送る国民は少なくありません。責任回避の先に「ゴール」はない。
いまの執行部はみなサッカー経験者なのですから知って・・・この頃からなんでしょうか。責任回避のDNAって。