正論を言えない時代になったことも、この国の不幸を拡大しています。大阪市の母子餓死事件です。
死者にむち打つ趣味はないのですが、ざっくりといえば大阪市内のマンションで
「最後にもっとおいしいものを食べさせてあげられなくてごめんね」
とメモを残した母子の遺体が見つかった事件を報じたテレビ朝日『モーニングバード』で、コメンテーターの舞の海秀平氏が、厳しいようですがと断った上で、
「(親はまず)子供を守ることを考えないといけない」
と指摘します。断片的に伝わる報道によれば、28才の母親は夫のDVから逃げるように、マンションを借りて生活を始め、夫に居場所がばれることを怖れて転居届を出さず、各種行政サービスが届かなかったとあります(続報で別の情報もあり)。
舞の海氏の指摘は、どれだけ辛いことがあっても、まず「子供」を優先して考えれば、他の手段があったはずだというもの。
至極正論です。
より弱き存在、亡くなったお子さんは3才と報じられており、自力で食物を得るコトができないものを守るためには、自らの多少の辛さ、恥や外聞をかなぐり捨て、まずは生き延びる方法を選択しなければならないということです。
これは「マスコミでは言えないこと」。
語弊を怖れずに言うのなら、DVに堪えても、身を売ってでも子供を守るのが親の努めです。もちろん、いまどきならば、身を売ることなく役所に駆け込めば助けてくれます。そして仮に本当に、いま困っているのならば東京都足立区にきなさい。DVから逃げた母子家庭など掃いて捨てるほど・・・語弊がありますが、まぁ珍しいケースではないという意味・・・います。
そしていまどきの行政はこの手の相談になれており、DVから逃げたものを保護するプログラムがあります。甥が養父のもとからDVを理由に逃げ出し児童相談所預かりとなり、しばらくしてわが家で預かったとき、住所は養父のもとのまま、中学に通い高校進学までできました。
養父は現役のチンピラで、一応会社員ですが50才を迎えようとしながら、いまだに「てめぇぶっとばす」というレベルの話しを真剣にできる世界の住民で、やくざの杯すら貰えない半端物。で、同レベルの暴力で対抗する自信はありますが、トラブルが拡大して困るのは甥。そこで、ひたすらに静かに、過ごすしか方法はありませんでしたが、つまり方法はあったと言うことです。
児童相談所は東京都の管轄で、中学校は足立区。そして民間の親戚とで緊密に連絡を取ることで解決しましたが、「子ども手当」は国の管轄で足立区は窓口として代理をしているだけで、国の定めた手続きでしか執行されず、養父のもとに払い込まれ続けたのはイラッとしましたが。
事件が起きたのは大阪市。行政サービスは自治体で異なるので、もしかしたら不十分だったのかも知れません。そうしたときは、近隣自治体に逃げ込むのも方法のひとつです。役人とて人の子です。自分の自治体で対応できないときは、噂話としてよその自治体を紹介するケースを耳にしたことがあります。
ところで、そういえば、大阪市のトップは橋下徹でしたっけ。あくまで一般論ですが、こうした事例の母親が、橋下徹の言うところの「合法的風俗」で勤務するケースは枚挙に暇がありません。風俗で働くより餓死を選んだとするなら、その決断は良しとしてもならば子供を「捨てる」という選択もあったのです。風俗発言は米軍とアメリカ国民の感情を配慮する形で撤回しましたが、足元とで起きた悲しい事件について、大阪市長としての橋下氏のコメントを聞きたいものです。
子供を捨てるとは責任放棄です。しかし、餓死のような緩やかな殺人との二者択一なら、捨てることも親の愛情です。私事ながら、13歳の時に私たち姉弟と父を捨て、蒸発した母親に感謝しています。母があのとき蒸発しなければ、もっと悲惨な未来がわたしたち家族を襲っていたでしょうから、とは余談。捨てられたことを感謝する子供もいるということです。とにもかくにも生きていさえいれば。
番組では舞の海氏の指摘を「しかし」と否定し、行政が何かできなかったのか、周囲は救うことができなかったのかとお為ごかしを垂れ流します。
事件の再発を心の底から願うからあえて死者にむち打ちます。
「子供は母親のおもちゃじゃない」
育てる覚悟も能力も見識も無ければ、子供など作ってはいけないとまではいいません。そうあるべきと願いつつも、理想論だけでは社会は廻りませんからね。しかし、手に余ったときに、それを投げ出すのは人としての最後の責任の取り方です。端的に言えば
「無能の告白」
です。ある意味、もっとも勇気を必要とする行為です。レーゾンデートルの否定ですからね。それがいやなら、歯を食いしばり血の涙を流しても、自力で子供を守らなければなりません。
こういった事件が起きる度に、行政の責任する。それこそがこうした悲劇を拡大再生産させているのです。
社会に出れば、私見で言えば15も過ぎれば、人生の大半は自己責任です。生まれ落ちた環境によるハンディキャップは個性を構成する一要素に過ぎません。
それは強いから言えるんだよ。との声にはこう反駁します。
「強くなければ生きていけない」
昭和時代のキャッチコピーで人生の真実です。誰もがマッチョになるわけではなくとも、その人なりの強さを持たなければ生きていけないのです。
ちなみに先の言葉は
「優しくなければ生きていく資格がない」
と続きます。こちらの言葉ばかりの時代になりました。しかし資格などは入場証のようなもので、最低条件に過ぎないことを忘れていないでしょうか。強くなければ生き抜くことはできません。
先週の土曜日、反日国営放送という世界に類を見ない珍妙な放送局である「みなさまのNHK(このイヤミ、覚えていますか?)」の『週刊ニュース深読み』にて『6人に1人! どうする”子どもの貧困”』と題した企画が放送されました。
この番組はコメンテーターの人選の時点で偏りが甚だしいのですが、企画を番組ホームページより一部を抜き出します。
“子どもの貧困が深刻化しています。貧困状態にある子どもの割合は6人に1人。「食事が学校給食のみ」「経済的な理由で進学を断念」といった深刻なケースも少なくありません。”
食事が学校給食のみ・・・これが本当ならば、ネグレクトです。児童相談所と警察の出番です。NHK如きの仕事ではありません。
そもそもの6人に1人とはユニセフの発表する相対的貧困率であり、国により貧困の意味するところが異なります。NHKの説明に依ればこう。
「相対的貧困とは、社会において当たり前と思われていることをするのが困難となる生活水準のことを指します」
日本でいえばスマホをいじり、カラオケではしゃぎ、100円ショップで気軽に買い物ができないというレベル。それと学校給食のみとは明らかに位相の異なる事例を連結して結論に導くプロパガンダです。
貧困層の定義として、1人世帯では年間の手取り所得が125万円、2人世帯では176万円くらいです。と紹介するのは一年前に公開されているNHKのコンテンツ
『視点・論点 「子どもの貧困 日本の現状は」』
よりの引用。継続的、組織的に子供の貧困を啓蒙しているのですが、手取り所得が125万円なら立派に生活保護を申請できるレベルです。ユニセフの発表は生活保護の受給前の数字です。語弊を怖れずに言えば、
「各種手当てを加算する前の基本給」
だけを元に論じており、実態と乖離している数字なのです。
こうした報道を熱心にする理由はこう。
日本=悪い国。
つまりは反日教育の一環です。さすが「みなさま」のための放送局です。
ユニセフの発表するところで、日本より子供の貧困率が高い国はアメリカ、スペイン、イタリア。スペインとイタリアはともかく、何かと言えば参考にしろと迫るアメリカのほうが、相対貧困率は高いところからも、マスコミの我田引水が見えてきます。
そしてここから番組では「教育」に目を向けます。親の収入が子供に受け継がれる格差の再生産と拡大です。
大卒の子供は高い教育機会を与えられ、高い学歴(学力ではありません)により、より有利な就職機会を得るというもの。
これは事実です。しかし、何が悪いのでしょうか。悪いとするなら学歴社会です。
(1) 平成25年4月から平成26年3月の間に大学等を卒業・修了(見込み)の方。
(2) (1)以外の方で、平成26年4月1日の時点で30才未満の方。学歴は問いません。
これはNHKの定期採用の応募資格。
なぜ1と2と分けているのでしょうか。条件を日本語的に解釈すれば「30才未満」だけです。2でわざわざ「学歴は問わない」としているのなら1は不用です。というのは2には※として、こう記されているから。
※在学中の方は、平成26年3月までの卒業・修了が条件です。
二重敬語というか二重条件で、それはダブルスタンダードを隠すためであり、学歴社会に疑問符を投げかけながら、学歴を重視する自分たちの下劣な行動を隠すためのアリバイ工作です。二枚舌というか詐欺というか。
NHKだけを責めるつもりはありません。大手マスコミはみなそうで、その全てを責めます。民間企業は見逃します。放送電波という公共財を使っていないので。
さらに教育格差の理由として貧困を挙げ、奨学金制度に苦言を呈します。曰く、
「月に10万円の奨学金を受けていたら、卒業時には400〜500万円の借金を背負って社会に出ることになる」
これをハンディキャップを背負っているというのです。
自作自演というか、自縄自縛というか、マッチポンプです。
教育格差が収入格差に繋がっているとするなら、教育を得るコトは収入格差が是正されるチャンスです。現実問題500万円など、高卒と大卒の生涯賃金の違いで埋められる数字です。
2007年といささか古い数字ですが、以下の通りです。
<男性>
高卒 2億6000万円
大卒・大学院卒 3億0000万円
<女性>
高卒 1億9000万円
大卒・大学院卒 2億6000万円
(労働政策研究・研修機構「ユースフル労働統計」より)
男性で4000万円の格差です。スタート時の500万円を差し引いても3500万円のプラスとなります。高卒は大卒と比較して4年多く働いての数字です。
また労働強度も一般的には異なります。大卒が求める職場は週休二日制でしょうが、高卒はせいぜい隔週休二日です。その他の福祉も異なり、二十歳を境にした多感な時期に、会社の歯車として過ごすか、モラトリアムを謳歌できるかの違いまで加味すれば、500万円のハンディなどたかが知れています。また、厚生年金や財形、社内持ち株、福利厚生のための手当など含めると、開きはさらに拡がり500万円を払っても手に入れたい特典に溢れているのが、国内における「大卒」というパスポートです。
さらに返済不要の給付型奨学金もさまざまな種類があり、学習意欲に溢れ、能力の高い学生を助ける方法は充実しています。
残念ながら
「親のスネをかじるように、遊びほうけながら大学を卒業する」
ための奨学金制度はこの国はおろか、世界中にありません。ところがNHKの番組ではそれを求めます。
そして高校無償化でも不十分といい垂れます。
高校無償化により退学率が下がったのは、
「こいつのために授業料を支払うのは無駄」
と賢明な選択をしていた親が、
「タダだから」
と保育所がわりに通わせるようになったからです。その上、大学まで通わせて、どうするのでしょうか。
餓死母子と、子供の貧困の報道が重なります。
「弱者を卒業した弱者」
が報じられないことです。
母子家庭で苦労をしても、逞しく育った大人は沢山います。筆舌に尽くしがたい苦労をしても笑っている人もいます。家庭に教育がなく社会に投げ出されて成功した社長など、掃いて捨てるほどいます。
両者をあえて「貧困」で括るなら、報道の役割とは貧困を嘆き、責任を社会に負わせることだけではなく
「貧困から抜け出した事例を紹介する」
ことで、いま貧困にいる人へ希望を与えることもあるのです。
弱者が永遠の弱者であるかのように扱うことで、責任は社会制度にあると結論に向かいます。そして結論を述べた自分たちの人間性の高見に酔いしれます。
安い人権主義者のレトリックです。
彼らは永遠の弱者を作ることで、自らの安住の地を作りだします。
言葉を究めれば
「弱者ビジネス」
です。
母子家庭=弱者。だから救わなければいけない。
貧困世帯=弱者。だから助けなければいけない。
しかし、どちらにおいても自腹は切らない。なぜなら、社会が悪いから。
民主主義国家において社会や政府の悪さは、構成員足る自分も含めて発言しなければなりません。わたしがいまだに民主党政権を誕生させてしまったことを悔やんでいるようにです。
あえていいましょう。わたしは弱者でした。貧困ですね。学歴においても高卒です。弱者です。四半世紀前の話ですが、母親が借金を作り蒸発したときに、いや、その前のサラ金の督促電話に応対した小学校4年生の頃から漠然と大学進学は金銭的に無理と諦めていました。
で、いま成功したとは言わないわたしは欲深いのでしょう。
でも、道半ばとはいえ、読みたい本を読めるほど、金銭的には恵まれた環境を
「手に入れました」
弱者ビジネスの甘い汁をすする「マスコミが言わないこと」。
学もなく、才能も無く、運にも見放されている弱者が這い上がる唯一の方法をここに記します。
ひたすらの努力。人の倍の努力。認めて貰えるまでの努力。
これしかありません。認めて貰えないのは、努力が不足しているから。親のスネをかじって大学にいったことを羨むのは無駄な時間です。それは別の人の人生。弱者は羨むエネルギーすらなくなるまでに努力して解決できないことはありません。
そこまでこの国は貧しくはなく、希望がないわけでもないと断言します。この国でいま貧困や絶望を唱える連中は、弱者というビジネスモデルで生活する学者やマスコミです。
努力こそが永遠の弱者の呪縛を断ち切ります。
そして「生きる」、あるいは「生き抜くこと」。これも立派な努力のひとつです。