名前を書けば合格できる高校

桜宮高校の体罰は事件として、入試中止は騒動として、どちらの報道にも欠けている視点がふたつ。

「自殺させない教育や体制」

「夏の参議院選挙に出馬を匂わせる市長に抜本的な教育改革ができるのか」

というもの。前者については、この国のメディアにおいては「弱者最強」という暗黙のルールがあり、イジメで自殺したケースなどでも加害者や、連なる管理者などを責めはしても、被害者側の落ち度について触れることはありません。

その昔、元号を昭和といったころにもイジメや体罰はありました。そして下世話な報道はいまとさほど変わらず、ワイドショーでいえば午後の民放各局で競って流していたモノです。

ただ、わたしの記憶にあるところでは、自殺を報じるたびに繰り返し

「(辛いことがあっても)死なないでください」

と司会者やゲストが呼びかけました。いまこうしている瞬間にも思い悩んでいる生徒児童がいる、という想像力は20世紀においてきたのかも知れません。

また昭和時代はティーンエイジャーだったので、うろ覚えに過ぎませんが、ワイドショーでは

「子供の(自殺の)サインを見逃すな」

という企画が事件のたびに報じられていた様な気がします。
しかし、これもアナログ時代の発想なのかも知れません。

自殺の予防を声高に叫ぶことは、暗に自殺した側を責めることに繋がりかねず、事実、そうして意見も当時からありました。それよりも加害者をあげつらうなら、ささやかな正義のこころを視聴者は満たすことができ、それが報道という巨大な力を使った加害者へのリンチだと想像することなどありません。

わたしは肉親をどちらも40代ですが、亡くしており、生きたくても生きられない命を知っています。だから自殺をもっとも憎むのです。ならばせめて刺し違えろと強要はしません。ただ、あなたの死後、いずれ時を経れば加害者には笑える日が戻ってくるのです。それを思えば生きて、生きて、憎き体育教師の足腰が弱るまで生き抜けば「恩返し」をするチャンスに恵まれます。

復讐や暴力による報復を否定しません。
あなたが死ぬことに比べれば。

と、これが大きな違和感のひとつ。

つづいて橋下徹大阪市長です。細かくは先週指摘しているので、掘り下げませんが、彼が先の衆院選挙でつぶやいていたように、兼職禁止規定が解除されて、国会議員になったとすれば、こうした事件の最中でも永田町に足を運ばなければなりません。

果たして、そんな腰の定まらない状態で、

「教育委員会という魔物」

を退治できるのかという疑問です。

ま、それはそれとして「教育改革」という方向性だけは共有できます。しかし、入試の中止というのはどうでしょう? わたしはこう考えるのです。

「入試の仕組みから変える」

ぐらいのことをしなければ、真の教育改革にはならないと。
そこで今回は公立高校の受験の在り方への提言です。

まず「入試とは何か?」。

例えば自動車運転免許は、合格ラインに達していれば免許を必ず貰えます。今回の合格定員は100人だからと101人目が落とされることはありません。

しかし、高校入試において100人が100点を取れば、95点だった101人目は不合格です。つまりは「落とすためにある」と考えることができます。

もちろん、私立ならそれもアリでしょう。しかし、公立学校で基準に見合った成績を持っていても、合格できないことがおかしくないでしょうか。「教育機会の不均衡」がそこにあります。

一方で定員100人で受験生が99人なら、全員が0点でも理論上は合格です。

いま都立高の受験はオッズです。出願倍率による博打の側面があるということです。今年二十歳になる姪の受験の時、わが母校都立足立西高の女子は募集人数を受験生が下回り「全入」となりました。すなわち名前さえ間違わずに書ければ合格です。姪は母校を志望していたのですが、内申点が足りないと安全を考えてランクを落としたことを悔しがったモノです。

運良く倍率の低い学校を選ぶことができれば、バカでも合格できる仕組みだということです。ちなみに、それでは入学できても勉強について行けず進学、卒業が困難だろうというのは都立高校を知らない人の老婆心です。

都立高は真面目にさえ通えば、追試や補習などを組み合わせて、とにかく卒業はさせてくれ、いまこの傾向はもっと酷くなり、少々の素行不良では退学にしてくれません。

かつての都立高校は・・・といっても昭和57年から平成5年(1983〜1993年)までですが・・・グループ合同選抜制度といって、都立高校を地域毎に10のグループに分け、生徒はそのなかから志望校を選択しました。これにより、日比谷や西高といった進学校へ通うことが困難な生徒がでて、教育機会の不均衡だとか、都立高全体のレベルが下がったとかで、廃止されるのですが、都立高のレベル低下については低下どころか「底が割れた」というのが現状です。平均点を示す「偏差値50」を下回る普通科高校が多数派と言っても過言ではありません。

一方、グループ合同選抜には「グループ合格」という制度があり、いわゆる基準点をクリアしていれば、一次志望は不合格でもグループ内で二次志望、三次志望に空き枠があれば進学できました。なにぶん四半世紀以上前の記憶につき、うろ覚えですが、各校に合格ラインがあり、成績の中位校から下位校では、基準を満たさない受験生も多々見られ不合格となり、そこにグループ合格者がすべりこむという仕組みでした。

グループ外の高校を選べないという問題はありましが、少なくとも

「0点で合格」

ということはなかったのです。

定員があるので、落とすための受験制度ではありましたが、グループ合格という、ひとつのものさしがある公平性は、見直されて然るべきと考えます。

そしてもちろん、予算があります。基準点に達すれば全員合格にすることも難しいでしょう。ましてやその前に是正しなければならない「教育機会の不均衡」があります。

地域の中学校。

です。はっきりいって格差があります。十数年続く不況の中、塾や予備校が元気な背景に教育機会の不均衡があります。

先の日月に都立高校の推薦入試がありました。推薦とは一発試験に対して、日頃の授業態度や特別な技能などを評価の対象とするものですが、そもそもが不均衡です。

推薦はその名の通り、各中学校の校長が推薦する形式です。

なるほどそうかと手を叩くのは早合点。

推薦の基準が存在しないのです。つまり、気分、で決まる可能性を否定しきれません。実際、先に紹介した姪も弟の甥も推薦されませんでした。姉は素行で、弟は存在そのものを否定されたようなものです。

学力相応程度の学校であっても、推薦される生徒とされない生徒が生まれます。もうひとりいる姪は推薦を受け、先日受験しました。そしてこの姪の母である妹に話を聞くと

「だいたい全員推薦貰えている」

とのこと。一方は足立区の中学校で、他方は葛飾区という違いはありますが、受験するのは同じ都立高校です。区による違いだけではなく、隣接する同区の中学校でも、推薦をだす学校と、ださない学校があるのです。

そもそも一発試験で人生を決めさせるのが可哀想といういわば

「十五の春」

の問題もあり、平素の学習態度や到達度をみるために「内申点」があります。これはいわゆる「通知表」を点数化したもので、素行が悪ければ点数が下がります・・・が、学校全体の素行がわるい、問題校ならば相対的に素行の質も下がります。

つまり中学校によって評価基準が異なっているなかでつけられる内申点は教育機会の不均衡を生んでいるといえます。反対に一発試験はフェアです。

ただし、一方で試験日限りで評価することが残酷だという意見もあるでしょう。風邪をはじめとする体調不良もあるでしょう。

そこで「教育機会の不均衡」も併せて解決する提案です。

「中学一年生からすべての学期単位のテストの点を基礎点とする」

具体的には各学期、二学期制なら春夏冬の長期休みの前に、各学校共通の「到達度テスト(足立区ではこう呼びます)」を実施し、この合計点を内申点同様の「基礎点」として加算してあげるのです。

内申点とこの基礎点を50%として、本番の試験を50%とすることで、中学入学時から手を抜けなくなるどころか、たるみがちな三学期の試験でもきっちり結果をださなければなります。

比率は各高校に委ねてよいとして、本番だけでの評価ではなく、中学時代を通じた「頑張り」をみるということです。また、内申点は授業態度や、はっきりいえば教師の生徒に対する好悪という私見が入り込むリスクを、各テストという数字で薄めるという狙いです。

これですべて不均衡が是正されるほど甘くはありません。

するとこんな学校がでてくることでしょう。

「答えを教える」

人は不正を働くもの。制度を考えるものは性悪説に片足を置かなければなりません。そしてここからが提案の眼目です。

各学期末テストは近隣の中学校に移動し、その学校の教師を試験官とする。

カンニングのリスクを相当程度回避できるでしょう。また、それぞれ訪問した生徒の「素行」もここでチェックさせます。よそ様に出向き、行儀態度を隠しきれるほど中学生は利口ではありません。

そして結果が出ます。生徒ではありません教師です。

ある中学校の2学年は社会科だけ成績が悪い。

中学校は市区町村単位として、足立区立の小中一貫校も含めた中学校は37校あります。そのなかで突出して成績のわるい学校があれば学校全体が、学年や教科なら該当する教師の指導力に問題があることが明らかになります。

あとはこれを是正するだけです。

これにより「教員の質」に左右される「教育機会の不均衡」が解消されるということです。

いきなり処罰するというのではなく、問題が指導力不足なのか、偶発的事件があったのか、学校全体のマネジメント不足ならば校長に責があり、問題児やモンスターペアレンツなのかを突き止め、一学校に責任を押しつけるのではなく、上位機関、現状では教育委員会による介入も適時実施するのです。

実施に多少の費用がかかっても、子供は国の宝であり、教育は国家の礎です。

・・・ま、無理ですなとマッチポンプ。
というか日教組のクソ野郎どもも含めて、

「教育の自主権」

という

「特権」

を捨てないからです。しかし、この特権こそが教育の堕落を生んでおり、いじめの問題も体罰も、被害が拡大する最大の原因なのです。

橋下徹大阪市長も噛みつくなら、ここに切り込まないことには小手先の議論・・・あ、小手先で話題だけ集め、票へとつなげるのが彼の手口でしたっけ。

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