日本スゴイ論に苦言を呈する大島三緒の正体

 2015年4月5日の日経新聞「日曜に考える」が、ネトウヨ界隈でちょっとした話題になっていました。“「日本スゴイ」で大丈夫?”と題したコラム(時評)についたサブタイトルが

“自己陶酔なら歴史も歪む”

 とのこと。論説副委員長の大島三緒氏。ある高校のサイトで紹介されていた講演会の様子から、男性のようで日経新聞の一面コラム「春秋」も手がけているとのこと。

 コラムを要約すれば「日本ってスゴイと、外国人に誉めてもらうテレビや書籍が多く、ネットも盛り上がっているが、それで良いのか?」という苦言です。

 とても参考になるコラムだったと称揚するのは、「日本スゴイ」と言えない人の正体に気づかせてくれたからです。

 ただし、コラムそのものは問題が多く、それは反日とか左翼となどではなく、

“目立つのは外国人に褒めて貰うパターン。世界が「スゴイ」と認めている、というわけだ。(同記事引用、以下同)”

 と、いった文章力です。

 Web担の原稿で指摘したこともありますが「スゴイ」とは、比較対象が明記されて意味を為す言葉で、文章に説得力を持たせるためには、「スゴイ」の使用には用心深くなければなりません。具体的事例を紹介しない「スゴイ」は、嘘に近づくからです。

 論旨は別にあっても、紹介している事例は「日本スゴイと紹介した本が売れている」というもので、「スゴイ」の中身には触れていません。日本が「スゴイ」ことを述べるに不都合があるのでしょうか。いや、あるのです。

 論旨からイメージしているのは、放送大学の番組ではなく、テレビ東京の『和風総本家』や、テレビ朝日の『世界が驚いたニッポン!スゴ~イデスネ!!視察団』などと思われますが、みなバラエティ番組です。

 ならば、比較対象として外国人を登場させるのが、テレビの企画としては自然で、「企画」という視点に立てば「褒めて貰う」ではなく「褒めさせる」です。これが文章力の問題。

「やらせ」とまでは言いませんが、そう言わせるように仕掛けているのは、オンエアからも明らかです。一例を挙げれば

「テレビ初公開の現場に潜入」

 といった見出しは、「テレビの力」で取材交渉した証拠だからで、スペシャリストとは言え、一般の外国人がいきなり来日して、そんな初公開の情報に触れられる訳がありません。つまり「スゴイ」と言わせることが番組の主旨であり、つまりは「企画」です。

 また、比較対象にコメントを求めるのは、新聞記事でも必ずやる事実確認の手段のひとつで「裏とり」とも呼ばれ、むしろこれをやらずに思いこみだけで仕上げれば「朝日新聞」になってしまいます。

 見解が分かれる場合、両論併記をすることを基本とする「新聞記事」ならば、「スゴイ」という外国人に対して、「大したことない」という外国人も紹介すべきだというのかもしれませんが、それはバラエティ番組の仕事ではありませんし、無理に両論併記をすることで事実を歪めたのは、昨日(2015年4月7日)の日経新聞です。

 教科書に「竹島、尖閣」を日本の領土と紹介する記述が増えたことを報じる記事で、

「日本の立場だけでなく、国際社会の認識もバランスよく記載すべきだ」

 とする高千穂大学の五野井郁夫准教授様のご高言を紹介しています。

 五野井郁夫といえば、本稿では度々紹介する朝日文化人の1人で、「アンネの日記破損事件」を「(日本の)右傾化」と指摘した人物で、逮捕後に実名報道への自粛が働いたように、犯人はピー(音声加工の表現、念のため)な人物で思想的背景はないと見られています。

 バカでもピー(しつこいようですが音声加工の表現、念のため)でも語れるのは、言論の自由が許された我が国ならではですが、呆れてしまうのがこの五野井郁夫は「国際政治学」が専門ということ。

 日本の教科書に、中韓と台湾を除くどの角度からみても、日本固有の領土を、そのまま教科書に記載することに、「国際社会のバランス」もへったくれもありません。

 そもそも領土紛争は当事者同士の問題ですし、なにより「国際社会の認識」でいうのなら、武力を伴う侵攻で竹島を不法占拠した韓国や、いまなお武力侵攻をちらつかせる中国の方法論が是認される訳がありません。

 それは「ロシア」とて同じ立場に立つことでしょう。建前上、クリミアへはロシア軍が侵攻したのではなく、請われての出兵という立場だからです。事実はともかく。

 五野井郁夫が正しく日本語を使える「国際政治学」の専門なら、

「中国と台湾、韓国の認識も記載すべきだ」

 と言うべきです。「国際社会」とは中国、台湾、韓国だけを指すときに使う言葉ではないからです。たぶん、小学校の高学年でも理解できる話しです。

 無理に両論併記をするのは、経済的結びつき=金儲けを第一に考える日経新聞としては、中国や韓国に気を使ったのでしょうが、この新聞には利益という視点はあっても、国益はありません。

 話しを先のコラムに戻せば、そこかしこに滲む「自虐」的な色彩は、「謙虚」といえなくもないところが厄介なのですが、大島三緒氏が「自虐」になる理由は後ほど。

 それでは「日本はスゴイ」のか? 「スゴイ」です。

 まず、陰謀論ではなく事実として認識しなければならないことは、世界はいまだに白人優越主義であるということです。

 タレントの「ガクト」がフランスのレストランで「人種差別」にあったという話しが話題になりました。店内はガラガラなのに、奥の席を案内され、後から来店した白人は、見晴らしが良い入口に近い席に通されます。

 その対応は「肌の色」により別れ、ガクトが一旦退店して、ふたたび入店すると、やはり奥を案内された、とは本人の話だけなので、事実関係は不明です。

 しかし、これを報じたワイドショーにおいて

「そんなことはない」

 と正面から反論した人が、デーブ・スペクターを含めて皆無である事実が、現実を雄弁に物語ります。

 ここで大東亜戦争に至った経緯を語りませんが、事実を丹念に追えば世界の歴史は「差別」と無縁ではなく、反対に日本人が世界で尊敬される理由のひとつは、「白人支配」に抗い、解放したからであり、学術的な統計データは持ちませんが、「憲法九条」をもっているからという理由より多いのではないでしょうか。

 トルコが親日である理由として、明治時代に和歌山県沖でおこった「エルトゥールル号遭難事件」が挙げられますが、それよりも、当時の大国である「ロシア帝国(プーチン皇帝以前の)」を、東洋のちっぽけな島国日本が日露戦争で破ったことのほうが大きいでしょう。トルコも脅威にさらされていたのです。

 とりわけ日本海海戦では、当時「最強」とされたロシア・バルチック艦隊を、世界の海戦史上、類を見ない「完勝」で撃破したことが、白人社会に衝撃をもたらし、非白人社会に勇気を与えたのです。

 日露戦争は元号では明治37年。ちょんまげを落としてから40年もたっていない国が、近代戦で勝利したのです。これは「スゴイ」ことです。

 戦争をしたことを誉めているのではありません。戦争ができる技術力を身につけ、軍隊もふくめた社会体制を創りあげたことです。日清、日露については、さすがに「侵略戦争」とのたまう人は見かけませんが、戦争ができない国家は侵略され蹂躙された野蛮な時代の話しです。

 このときの「成功体験」が後の大戦へとつながるという指摘には同意します。自虐ではなく歴史は「流れ」でみるもので、仮に敗戦していれば、戦争どころか「国家」がなくなっていたからで、それが当時のアジアを取り巻く現実です。

 時を越えて日本有史以来の初の大敗北を経験します。国土は焼け野原です。

 明治の文明開花も、大東亜戦争の敗戦からの復興の、どちらにも共通するのは、日本には資源がなかったことです。

 飲料水や水産資源など、人がその日を生き延びるのに必要な資源については、意外と豊かに持っていますが、議論が散漫になるのでここでは触れません。

 鉄も油もありません。

 そこにあったのは「人材」だけです。曲がりなりにも世界第二の経済大国となれた理由を、昭和時代の子供は、「人材」こそが、日本がもつ唯一の資源で、それは無二なるものだと、学校の授業で習ったものです。

 それは俗に言う「島国」であり「村社会」で、国家滅亡レベルの侵略を受けずに、千年を超える時を過ごしてきたからこそ獲得した「勤勉性」が裏打ちします。

 その勤勉性は「ヘンタイ的」なレベルに達しています。

 ヘンタイとは特殊な性的嗜好を指しますが、ここでのヘンタイとは、世界との比較においての特殊性を意味し、別の言葉であえて表現するなら「スゴイ」となります。

 「電車の定時運行」など最たるものです。世界で電車の遅延は当たり前ですが、日本では1分、2分の遅れで文句をいう客がいます。

 日経新聞の大島三緒氏が、このヘンタイ性をもって、「スゴイ」への苦言を呈したなら、比較文化論として面白いものに仕上がったかも知れません。

 先にも触れたテレビ朝日『世界が驚いたニッポン!スゴ~イデスネ!!視察団』では、こうした日本のヘンタイ性を、海外のスペシャリストを招いて紹介するものですが、事例によっては「呆れている」ようにみえることもあります。

 多くのスペシャリストが、招かれて来日しており、ならばお世辞のひとつも言うでしょうし、国内においては大切とされる「定時運行」も、外国人らがそれを求めていないのなら、不用な努力であり、海外における「マーケットニーズ」に沿っていない可能性も否定できません。

 食へのコダワリも以下同文ですが、だからこそ、資源もなければ白人でもなく、敗戦国であり、国連においてはいまだに「敵国」にカテゴライズされている日本が、今風の言葉にするなら世界的な「プレゼンス(存在感)」を発揮できるようになったのです。

 ただし、獲得した勤勉性は、DNAによる優位ではなく、日本社会が戦前までに築き上げ、練り上げた特質であり、いわゆる民主党政権的にいうなら

「社会が育てた勤勉性」

 です。

 努力することを「当たり前」とする「道徳」があったからです。モラルやコンセンサスといった言葉でも良いのですが、すべてを意味する「道徳」があるのでこちらを使います。

 つまりこの「スゴイ」とは、日本民族の優等生の証明ではなく、日本社会の特殊性への驚嘆でもありますが、ある意味においては呆れているに過ぎません。また、未来永劫この特殊性が保持される保障はなく、すでに破綻しているという予測も、そう遠くないでしょう。この視点からの「スゴイ」という浮かれへの警鐘は鳴らしておくべきでしょう。

 日本は先進国のなかで、スマホの普及率が低い方です。それはガラケーという、機能性から見て、モバイルに特化した携帯端末をすでに持っていたからで、昨年はガラケーの出荷が増加に転じたほど根強い人気があります。

 しかし、費用対効果という、電機メーカーと回線会社の都合も手伝い、世界でガラケーは受け入れられていません。これは「スゴイ」の裏返しです。

 だから日本はダメなんだともいいません。かつて「写メ」が搭載された頃、世界の携帯は電話機能にショートメールがついた程度でした。だから、外国人が日本人を見て、

「どうして日本人は携帯電話を突き出すんだ」

 と不思議がりました。「写メ」を撮っていたわけですが、当時はまるで日本人だけの奇怪な現象として紹介されていたのです。しかし、いまスマホにより「写メ」を入手した外国人は、肌の色を問わずに携帯電話(スマホ)を突き出しています。

 さらに韓国から生まれた「自撮り棒」によって、自分の手足以上の距離に携帯電話を突き出す時代に突入しています。

 かつて景勝地にて、ケータイで写真を撮る日本人に、「目で見て、記憶に残すべきだ」とインタビューに答えている外国人がテレビで紹介され、この意見に私も同意したものですが、いまスマホで日本人と同じことをする外国人を探すことは容易です。

 相互理解の不足による誤解であり、端的に言えば「無知」による批判で、携帯電話においては「写メ」を知らなかった外国人の無知が、日本人を好奇という色眼鏡で見させていたと言えます。

 「メガネ、出っ歯、カメラ」という古い、ステレオタイプな日本人像からの差別(偏見)もあったのでしょう。いまではすっかり忘れられていますが、日本人が差別されていたことは、昭和時代では常識に属していた話しです。「イエロー・モンキー」とはバンドの名前ではなく、日本人への蔑称でした。こうして「歴史」も現代日本人は記憶しておかなければなりません。

 日経新聞の大島三緒氏は「スゴイ」が氾濫する理由を、

“戦後70年、社会の閉塞感の裏返しか、自信回復の表れか。”

 と分析する振りをして、

“排外主義や偏狭なナショナリズムに通じるとすればちょっと危うい。”

 とつなげます。分析と推論に関連性はありません。推論=私見に導くための前振りに過ぎません。なぜなら、ここでも閉塞感も自信回復の論拠が示されていないからです。

 これを朝日新聞では「角度」といいます。東島誠聖学院大学教授の言葉を借りて、心的振幅を指摘しておきながら、それをこう表現します。

“自慰と自虐が同居したりする日本的心性の一端が昨今の「日本スゴイ」なのかもしれない。”

 自慰とはオナニー、マスターベーションです。自虐の対義語なら「自愛」ですし、文章表現としては「自尊」でもよいでしょうか。それがオナニーです。マスターベーションです。たゆまぬ努力で実現している定時運行がオナニーです。それが日経新聞の見識というのですから呆れます。これは「自虐」をこえた「侮日」です。

 定時運行を繰り返し例として用いるのは、明確に比較できる「スゴイ」だからです。

 そしてオナニーに続けて「過去褒め」として、

“「アジアの国々はあの戦争によって独立を果たしたり、そのきっかけをつかんだりした」「欧米の植民地支配から解放してくれた日本軍侵攻を現地の人々は歓迎した」”

 といった言説が目立つようになった・・・としますが、それは「WiLL」や「産経新聞」の記事で、日経や朝日では見かけませんし、テレビメディアでも触れません。

 これこそ大島三緒氏が新聞記者なら、出典を明らかにして、五野井郁夫が主張するような「右傾化」を証明しなければ「記事」ではありません。それとも「コラム」ならば許されるのでしょうか。

 先の言説を踏まえた上で、

“しかし過去を直視すれば、それは日本にとって都合の良い部分に過ぎないことがわかる”

 都合が良いところであるのは本当です。しかし、ならば大島三緒氏もまた、同じく自説に都合の良いところだけを抽出して語る行為は卑怯の所作です。

 具体的には

“日本軍の南方作戦の大きな狙いは資源獲得だった”

 と続け、これは大島三緒的自虐論には都合がよい事実ですが、なぜ、日本が南方作戦へと追い込まれたかについて触れていないのは、都合の良い部分の抽出に「過ぎない」からです。

 他人は批判し、自分同じ手法を使う、だから卑怯と呼びます。
 続けて

“しかも占領地では人々に様々な「日本」を押しつけた”

 とありますが、占領地となった南方の地はヨーロッパの植民地でした。日本の押しつけに賛否があっても、当時の国際状況と常識を、現代で裁くことは歴史の否定です。それは大島三緒論における自縄自縛へと繋がります。

 なぜなら「ロームシャ(※労務者か? 筆者注、こうした説明不足も文章としての完成度の低さ)」を徴発したとし、また「おびただしい数の」と実数や割合を紹介せずに、印象操作をした後に、こうも結びます。

“そんな事実に目をつむり、一面的な歴史観にとらわれてはならない。自己陶酔で過去を歪めてはなるまい。”

 そのまま大島三緒氏に捧げる言葉です。

 大日本帝国(戦前の日本)を盲目的に礼賛するものではありません。しかし、大日本帝国が歴史に果たした役割を知らない限り、現在へと繋がる国際情勢を理解することなど不可能です。

 つまり、自己陶酔しているのは自分自身だと気がつかぬ傲慢さが、「自虐史観」の礎となっていることに大島三緒氏は、自らの文章をもって教えてくれているのです。結果的に過ぎないとはいえ。

 大島三緒氏的な論理破綻は、大日本帝国の失敗にも通じます。そこからもう一つの教訓が見えてくるのは、自虐史観の持ち主とは、戦前の失敗に対する近親憎悪があるということです。

 端的に言えば「俺ならもっと旨くやった」という選民意識で、そこに「多面的な理解」などありません。朝日新聞やそこに寄稿する「朝日文化人」に通底する選民意識です。

 私たちは、こうした態度こそ反省し、これからに活かさなければなりません。それが先人へ示すことができる感謝の態度であり、決して、戦前の全てを唾棄すべきことと思考停止することではありません。

 それが「歴史に学ぶ」ということで、文言としては大島三緒氏も理解しているのでしょう。先の東島教授の言葉として、歴史をきちんと学ぶこと紹介しますが、これもまた曲者で、東島誠氏の著作を読んだことがないので軽々に評価もできないのですが、彼の名前を「ネットで検索」すると見つかるのが「朝日新聞」への寄稿で、その主張は「地球市民」の臭気が漂います。

 その東島氏の言葉として

“「外の世界をよく見れば、そこに日本への自画自賛とは違う見方があるのがわかる。自分を縛っているものからも自由になれるはずだ」と東島教授は説く。”

 あの、ね。その世界と比較するから「日本スゴイ論」が生まれるのですよ。

 繰り返しになりますが電車の「定時運行」とは比較可能な事実としての「スゴイ」であり、決して「自画自賛」ではありません。

 仮に東島氏の言葉が、先に述べたように「マーケットニーズ」から、求められていないということであり、そうしたヘンタイ的な「正確性の希求」や、それを実現する「勤勉性」を「自分を縛っているもの」とするのなら、日本における唯一の資源「人材」の喪失へと繋がり、先に待つのは「亡国」であり、確かに実現すれば日本国からは自由になりますが、より強い国の支配下に置かれるというのが、国際政治の現実です。

 多面的な理解や、歴史に学べというものほど、一面的な見解しか持たず、歴史の本質を知りません。どの国の国民にとっても必要な歴史とは、自国に都合の良いものだからです。こうした「現実」を踏まえずに「世界」は語れません。

 そもそも副題に「自己陶酔なら歴史も歪む」とありますが、どこの国民に大島三緒氏は発言しているのでしょうか。

 多くの日本人は自虐ではなく、謙虚さを持ち合わせています。少し経済が成功しただけで、世界中を見下す特定アジアの国々ではありません。

 つまり「日本人観」が歪んでいるのが大島三緒氏であり、自虐史観を語るリベラルや左翼で、それは選民意識がベースになっています。

 端的に言えば「自分だけが知っている」ということで、むしろ戦前の暴走した軍部に近い発想の連中が「自虐史観」を拡散しています。

 かくて選民意識が、当事者意識を遠ざけます。日本人という自覚がなく、その代替として「地球市民」を求めます。世界はひとつで・・・と、これをスローガンとしたのが、三原じゅん子議員が国会で用いて、朝日当たりが問題化しようとして失敗した「八紘一宇」です。

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“日本スゴイ論に苦言を呈する大島三緒の正体” への1件の返信

  1. 鋭い分析に敬服しました。学生運動でデモに駆り出された昔に感じた、左翼系の言いぐさ”民衆/人民のために”と言いながら何か「選民意識」が感じられた理由が分かりました。こうしたことを言っている人々、赤軍派および国(中国等)が行ったこと、および行っていることを観察すれば、そう言っている彼らこそが民衆を隷属化する思想の持ち主であることがよく分かりますね。

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