馬鹿経営者を税金でフォローするのか

 言葉を弄しては得意です。
末席とはいえ物書きの端くれとして当然といえば当然ですが、
新聞記者や編集者のように文章修行をしたわけでも、研究論文を
まとめたわけではありませんが、親の教育によるものが大きいで
しょう。

たぶん、今なら色んな病名をつけるのでしょうが、頭の中に
広がるイメージと、いくつもの可能性、状況説明にパニックとなり、
言葉はどもり、話は前後し亡父からは「言語障害」という綽名を貰っ
ており、最近の風潮的に

「いいんだよ。そのまま話して」

とやんわりと受け止める家庭環境にはなく、

「用件を言え」
「事情を説明しろ」

と子供には相反するような指令をだされました。今なら
コンサルタントが好む「フレームワーク」なのでしょう。まず、
結論や相手の興味を惹く仮説を提示して、その後、説明をする
という技術ですが、用件からいえば「事情」を求められ、事情から
話し始めると「用件」はと苛つかれると何を話して良いか分かりま
せん。

そして口を塞いでいると

「何かしゃべれ」

と、理不尽という言葉を後に知ったときに、まさしくその言葉が
あのときを表すのだと頷いたものです。

父に話しをする際には脳内シミュレーションをする習慣が身につ
きました。その後、東京に引っ越し、言葉で虐められた経験がさら
に論理を磨きました。今では信じられないでしょうが、30年前の
東京は閉鎖的で同じ日本人同士でも差別は普通にありました。ただ
それが特別ではなく、越えられないハンデかどうかは・・・人に
よると思うのですが。

・・・こうして思い出を綴ると相当酷い環境のように、特に
「現代基準」でみると異常な家庭のようですが、年のため記して
置きますが、これは我が家の一部に過ぎず、抱えきれないほどの
愛情が前提です。

話を戻します。言葉を弄べば人を誘導することができます。
読解能力も徒競走と同じく個人差があり、残念ながら徒競走の
ように能力差が目に見えません。また、プライドや集団心理などを
活用することで誘導はより容易になります。

だからその能力をどう使うかは重要です。それは100mを
9秒台で走る能力を陸上競技に捧げるか、食い逃げに使うかのように。

今朝の産経新聞で梅田望夫氏が

「SNSと若者の健全さ」

という論考を寄稿していました。要約すると二つ。

1:英語圏SNSの社会的意義
2:米国の大学生の健全さ

前者は大学教授の著著から引用し、後者は文化庁長官も務めら
れた河合隼雄さんの対話集に同調します。

通読してこういった印象を持ちました。

「日本のネットはダメだね。やっぱ米国でしょ。アメリカ」

社会問題に敏感な大学生、ましてや教授と親しくしている学生と
SNSの関係と米国の大学生全般とは似て非なるものですし、その
「健全さ」を日本に欠けているものと嘆くのであれば、それは
根本が異なります。嘆くべきは「教育(システム)」です。

英語圏SNSにおいて社会的意義のある活動が行われているのは
ネット空間が健全なのではなく「教育」がそうだということです。

健全な教育を受け、健全な思考を持つものが参加するネットで
あり、その逆ではありません。

ところが異なる論を巧妙に「つなぎ合わせる」と意図する結論
に誘導することは容易いのです。そしてこれは一般論ですが

「偉い人の論の引用ほどわかったような顔をする大人は多い」

のです。ま、コンサルタントの商売技法でもあります。

「●●さんがいっていたが」的なもの。

ちなみに理不尽を体験で学ばせてくれた亡父にこのような言葉
で伝えようものなら

「●●は関係あるか! 自分の言葉で話せ」

と言下に否定されたものです。

そして同じく産経新聞の一面下段に珍妙な記事を発見。

「大学の高校復習に補助金」

大学生の学力低下に対応するため、新入学生に高校時代の授業を
復習させる補助授業を行い、それに「補助金」をだすというのです。
文科省が。

梅田氏の意図するところではないでしょうが、この点において
健全さに疑問符を投げかけたのであれば、深く頷くことでしょう。

少子化のなか大学数が増え続け、誰でも大学に入れる「全入時代」
となり、お客さんの確保の為に大学は、推薦や一芸入試(AO入試と
アルファベットで表記するようですが、意味を不明にするのも言葉を
弄す基本です。厳密には両者は違いますが学力以外の価値で計ると
いうことです)を増やして、集客に努めました。結果、高校卒業時
に見つけていなければならない、厳密には「高度な専門教育」の場
である大学に入る資格がない人間まで入学するようになったのです。

少子化や大学増加は理由になりません。
自由競争の原理から儲からない市場に参入したのは自己責任です。
子供が減ることはわかっていたことで、その生き残りのために
テストで点数をとるのが不自由な学生を「採用」してきたのは大学
です。なぜ、その経営の過ちを「補助金」という税金で援助しなけ
ればならないのでしょうか。

最大で年間2000万円を3年間です。

少子化や大学増加、全入時代をもっともらしく前段に掲げて
「やむを得ない」という論で記事はまとめますが、文科省のタワゴト
をそのまま記すのなら「官報」です。民間の新聞社の仕事ではあり
ません。最後に和田秀樹さんのコメントで苦言を呈していますが。

大学の「入学しやすさ」は問題ではありません。

「学力不足を克服するのは自己責任。進級過程で振るいにかければ
すむ問題ではないか」

これは俗にいう「米国型」で、入学や容易く卒業は難しいという
やり方なら学力が不足していても「チャンス」を与えて、後は
自分の努力次第というもので公平です。ならば、補助金をだして
補習をさせる必要はありません。

入学時に多少の不足があっても、入学の「必死に勉強」すれば
充分に追いつくことでしょう。もちろん、程度問題はありますが、
しかし、一般的に夏休みも冬休みも長い期間ある大学生なら死に
ものぐるいで勉強すれば不可能ではないでしょう。まして後述し
ますが経済的に余裕があるのでしょうから、巷の学習塾に自費で
通えば良いだけのことです。

そして一般常識に照らし合わせれば問題は1点。
すいません、ここからは「直球」で言葉を使います。

「馬鹿を入学させた馬鹿大学の馬鹿経営者を税金でフォローするのか」

その程度の学力の学生をいれるもいれないも大学の経営判断です。
ならば自助努力が本文です。少子化も全入も関係ありません。
さらに踏み込むならそんな馬鹿経営者に学校を任せた文科省の
責任です・・・そう、ここです。問題の本質は。

品質基準に満たないじゃがいもを仕入れた私企業の検査費用を
農水省がだすようなものです。類似の事件がありましたね。この省でも。

役人は自らの過ちは認めません。そこで都合の良い理屈を引っ張り
結合してこねくり回し繕います。彼らは論を弄びます。

基本的に役人は頭がよいのですが、その能力の使い方を間違え
言葉をこねることに情熱を捧げます。過ちを正せない大人を見て
その過ちのシステムに育った若者の健全さは失われていきます。

その一つの形が「ネット」に表れているということです。

亡父はいいました。

「・・・だから、何を言いたい」

論をこねくり回すことを「屁理屈」と切って捨てられました。
そこから「本質」の大切さを学んだ気がします。

しかし、大人になって社会を見渡せば「インテリ」に属する人
って屁理屈ばかりをもったいぶって展開するのですよね。

そしてついでに書評として紹介している

「この国の経済常識はウソばかり」
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4862483208

に重ねれば「人口オーナス」に突入した日本では若者の労働
人口が減っています。ならば、大学に行かせる施策よりも労働力
に転換させることも議論が避けられないことではないでしょうか。

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